4 虚像
空が青いことを当たり前に思うのと同じで、人はそれを常識と信じて疑わない。
「……ん、……志織? 今なんか撮った?」
「おおおはようございますすみません起こしてしまい申し訳ございません!」
補習が終わり、十五時ぐらいになって志織が部屋の扉をいつものようにノックしても、それに答える先輩の声は聞こえなかった。またどこかをふらついているのだろうか。最近の先輩は授業中よく志織のクラスに訪れる。だが志織の邪魔にならない程度で教室に滞在したあとまたふらっとどこかに行ってしまう。この前はしょげた彼の姿を見て子犬のようだと思ったが彼の性格行動すべてを鑑みると、あれは完全に猫タイプだ。
しかしこのように先輩の寝ている姿を見るのは初めてだった。新聞紙を机に広げ、組んだ腕の上に顔を乗せている。寝息は聞こえてこないため、もしかしたら息をしていないのかもしれない。先輩御用達のこの新聞紙たちは図書室の靴箱付近に古新聞としてまとめて置いてあるのを使っているそうだ。それがわかった今、志織も家から持ってきたりするのもあってこの部屋の新聞紙が途切れることはない。
(先輩って寝るんだ)
へえ、と驚きながらも志織は先輩の顔をしげしげと覗いていった。
睫毛はそれほど長くはないし多くもない。でもほんの少しだけくるんとカールになっていて可愛い。眉毛の生え方もきれいだ。男子でも女子でも、思春期の間で変に抜いてしまいあとで泣く者が異様に現れるが、眉毛は鋏を使ったり、ちょこっとカミソリで整えるだけでも十分なのにと志織は思う。眉は意外に大切な部位なのだ。眉尻の描き方一つで顔の印象がガラリと変わる。
(ってさっきから何を見てるんだ私は)
だってしょうがない。顔下半分は先輩の腕に隠れていて見えないのだ。見える部分に注目してしまうのは当然のことである。
「――あ」
一つ先輩に確かめたかったことを思い出した。
志織は鞄の中から携帯を取り出し、画面をカメラモードに切り替えた。
焦点を先輩の寝顔に合わせ、……られない。
「やっぱり、か」
カメラ越しでは携帯の画面に先輩の姿は映らなかった。いったい先輩の躰はどういう構造になっているのだろう。目に映るということは光を反射しているという意味で、でも先輩の影は目に見えなくて……。
彼が目に映る理由を模索しながらカメラモードを終了しようとしたとき、
カシャッ
間違えて押そうとも思っていなかった画面のシャッターボタンを押してしまった。
(うわあああこれだからスマホは)
ガラケーだったらこんなミスは起きなかったはずだ。運動場から部活動の音が遠く聞こえてくるだけで、この部屋では基本このように響く物音が立つことはない。ブレっブレの床を写した写真――机のベージュと床の白がまぜこぜとなった被写体ともいえないモノが写った写真を志織が削除したとき、先輩が身動きをした。
というわけで、決して先輩の寝顔を盗撮しようとしたわけじゃなく、あのシャッター音が鳴ったのは紛れもない事故である。
「え、俺いま寝とったと?」
「? はい。私が来たときにはぐっすりと」
先輩は寝ぼけているのか、新聞紙の一点をじっと見つめたまま動かなくなった。手のひらをぐっと握りしめたり開いたりしながらぼーっとしている。
「でも、やっぱり写真に写らないんですね先輩って」
がっかりしていないと言えば嘘になる。もし写真に写すことができたなら、秘密を共有している茜に見せることもできるし、何より先輩の姿をずっと残すことができるのだ。
「……あれ?」
――のこ、す? 残す、なんて。そんな、
まるで、いつかは彼がいなくなってしまうと、思っていたみたいじゃないか。
なんの気なしにそう思った自分に志織は驚きを隠せなかった。
「俺撮ろうとしたと?」
「そ、それは違います先輩は写真に写るのかなっていう純粋な好奇心だけでシャッター音が鳴ったのもちょっとした事故ですし別に盗撮しようとかそんな邪な思いはこれっぽっちもありませんでした!」
志織が切羽詰まって弁明する様子を見て、先輩は大声で笑い始めた。
「はっ、やば、志織ちょーウケる」
「う、うけるって全然面白くないと思うんですがッ」
「じゃ、俺がもしカメラに映っとっても撮らんやったん?」
「う、それは」
ばっちり撮って保存していたに違いない。
「……ぷッ。残念ながら、俺はカメラにも鏡にも映らんよ」
「やけん俺、自分の姿見たことないっちゃんね」となんでもないことのように軽く言う先輩に、志織はどう答えればよいのか咄嗟にはわからなかった。
「それ考えたら、目やに出るとか髭生えるとかゆー躰やなくてよかったなあ」
だから、なんでそんな平気な顔して言うんだ。
死んでもなお、ずっと変わらない姿のまま存在し続ける。誰にも干渉できず、誰からも干渉されず、先輩はたったひとりで本を読み続けていた。読むしかなかった。
そんなの、平気なわけ、ないじゃんか。
志織は込み上げてくる想いを堪えようと、唇をぎゅっと結んだ。携帯を机の上に置き、椅子を引いて自分の指定位置にストンと座る。
「俺、どんな顔しとる?」
自分の頬を触りながら先輩が志織に尋ねる。
「どんな顔って言われても……。濃くはない、です」
「濃ゆくはないって、のぺーってしとうってこと?」
「のっぺりってわけじゃないんですけど」
人の顔って案外説明しづらいものだ。鼻ってどこまでが低くてどこまでが高いんだとか。そんなの自分の主観でいいのか客観的ってなんだったけと思い始めたらきりがない。
「あ、じゃあ、私が描いてみます」
「志織が?」
「私、模写とか目に見えるものを写すのは得意なんです。茜みたいに独創性はないんですけど」
デッサンまでの評価はA。しかし何かを工夫して作れといわれたら誰にでも思いつく無難なものを志織は作ってしまう。その点、茜は突拍子のないものを作り、先生を驚かせては高評価を得ていく。一年時の選択科目が二人とも美術だったため志織はその様子を目の当たりにしていた。
鞄の中からルーズリーフと下敷き、ノート、ペンケースを取り出す。ノートの上に下敷きを置き、そのまた上に一枚のルーズリーフを固定させた。
「じっとしててくださいね。顔を上げたところ描きたいので。すみませんが読書はご遠慮ください」
「わかった。俺も志織見よく」
「……描きづらくならない程度でお願いします」
「その前に窓開けてきます」と志織は持っていたものすべてを机に置いて立ち上がった。今日も最高気温は三十四度。せめてもの救いは窓の近くに木の葉が生い茂っていることだ。葉の隙間から陽は射してくるものの直射日光がそのまま部屋の中へ入ってくるよりはだいぶましなはずである。志織もこの生活に慣れてきたのか最初の頃のように暑さで項垂れることはなくなった。人間、適応していくものなんだなと思う。
「これ志織の携帯? スマホやんか。今の高校生ってみんなスマホなん?」
窓を開けて席に戻ってきたとき、先輩は机上に置いてあった志織の携帯を穴があくほど見つめていた。志織は帰りの連絡時に必要であるため持ち歩いているが、むやみやたらと学校の中で携帯を扱ったりはしない。なぜなら校則で禁止されているからだ。先生に見つかれば即没収と表向きにはそうなっている。しかし生徒の鞄の中、制服のポケットには必ず入っている。もし見つかった場合、一週間ほどの預かり期間を経て速やかに戻ってくるがそれは見つかった先生にもより、反省文を書かせる先生もいれば「私は何も見ていない」と目を瞑る先生もいる。
「そう、ですね。多くはスマホだと思います。でもまだガラケーの人もいますよ。大学に受かったら買ってもらうって人とか」
「へえ、時代やなあ。情報科学の発展は指数関数的やね」
要するにy=5^xとかy=e^xとかいう類の関数が表す曲線を描くように技術が大きく発展しているということだろう。
(……先輩の生きてた頃はスマホがそんなに普及してなかったんだろうな)
スマホの存在を知っているということは先輩が亡くなったのはそう何十年も昔のことではないのかもしれない。だがそれを彼が生きている間に知ったとは限らない。
――志織は、迷っていた。
自分の中で抑えがたいエゴと自らに課せられたとも思える使命との狭間で。
大まかな輪郭を描き終わり、志織が先輩の瞳を細かく仕上げようとしたときだった。それまで黙って志織に描かれていた先輩が何もない空を見つめながら口を開いた。
「……まあ、自分の顔も憶えとらんとか、自分でもねーわって思うよ」
志織の手が一瞬止まる。
「そんなこと!」
ルーズリーフに描かれた彼の瞳から目の前に座る彼の瞳へと視線を移し、志織が声を上げた。志織の声に驚いたのか先輩が少し身を引き、目を見開く。
「そんなこと、ありません」
手が震えるほどに自分を高ぶらせるこの想いの名を捉えることができない。それが誰に向けられた怒りなのか悲しみなのかも志織にはわからなかった。
誰が先輩をこの世界に縛っているんだ。「自分」と言えるすべての記憶を奪い、名前さえも取り上げ、本だけが彼を唯一慰め、逆にそれだけしか接しえないと陥れたのは誰なんだ。神さま? 神さまがいったいなんのために。なんのために、彼を。彼をここまで苦しめるのか。
でも。
だからこそ私は、先輩と出逢えた。
彼を苦しめるその神さまとやらに、彼と出逢わせてくれたことへの感謝の気持ちを抱いてしまうのは、いけないことなのだろうか。自分という人間がひどく不謹慎で、自己本位の塊みたいなモノに志織は思えてきた。
「――うん」
「ごめん志織」と先輩は呟いた。
「謝らないでください」
「ありがとう」
その一言で、志織は彼に対して何も言えなくなった。
「志織。ありがとう」
お願いだから、もう言わないでほしい。
「ありがとう」
この溢れ出てくるものが止まる術を、私は、知らないから。
志織の目から雫がぽろぽろとこぼれ落ちた。その中の一つがルーズリーフの上に落ちる。頭はなぜか冷静で、志織はポケットからハンカチを取り出し、それを目に当てず軽く叩くようにして落ちた涙を拭きとった。しかしその間も涙が止まることはない。志織はハンカチを握りしめて歯を食い縛り、嗚咽が漏れそうになるのを必死に堪えた。視界が滲んで先輩の姿も見えない。
謝らなきゃいけないのは私のほうだ。
お礼を言いたいのは私のほうなのに。
ごめんなさい先輩と志織は何度も心の中で繰り返した。声に出そうとしても、涙が堰を切ったように溢れて邪魔するため言葉にならない。
彼が生きていた頃の情報を集めることができるのは、彼をこの世界から解放することができるのは、自分しかいないと志織は思った。彼が躰を失ってもなおこうして幽体のままで生き続けているのは、この世に何かしらの未練があるからに違いない。記憶がない己のことをもどかしく感じ、恥じる先輩を見て、志織はあることを決意した。
私が、見つけてみせる。
彼の名も、記憶も、最期さえも――。
先輩を失いたくない。すべてを思い出して志織の前から消えてしまうぐらいなら、先輩の過去なんかどうでもいい。でもそう思ってしまう自分が一番ゆるせない。
私さえよければそれでいいのか。
(ごめんなさい先輩)
今までぐずぐず悩んでいたのは自分可愛さのために他ならない。
「人はね、自分を虚像でしか見たことがないんよ」
突然話し始めた先輩が今どんな表情をしているのかもわからない。志織はくしゃくしゃに握りしめていたハンカチをやっと自分の目に当てた。
「鏡にしても、水面とか写真にしても、何かに映し出された姿でしか、自分を見たことがない」
しゃくり上げながら志織が少し首を傾げる。先輩の言いたいことがよく理解できなかった。確かに人はおろか他の動物でさえ自身の姿を直接見ることはできないだろう。
「なんで空は青いのかとか、考えたことある?」
あれ、話変わったのかな。
志織は首を横に振った。
大まかな理由は知っているがそれを説明しろと言われると言葉に詰まる。
「人の目に見えるのは可視光線っていう波長が3.8×10^-7mから7.8×10^-7mの範囲だけ。では問題。赤と紫、波長λが長いのはどっちでしょう」
「あ、赤です」
掠れた声で志織は答えた。あかいあかいあかいながいで憶えるよう二年のとき物理の先生に教わったのを思い出す。
「じゃあ屈折しやすいのは?」
「……紫?」
「正解。やけん虹の内側は紫って習ったやろ? 厳密にいえば紫やなくて菫色。紫っていう色は純粋な太陽光にはないっちゃん。人間が見る紫色の光は赤と青の光を混ぜたときに初めて見える。――では10^-7mは何ナノメートルでしょう」
「え?」
センチミリマイクロ……マイクロが10^-6だということは、ナノって10^-9だっけ。だからえっと。
「100ナノメートル?」
「そやね。だいたい波長が400から700ナノメートルっていう電磁波の世界を人は見ることができる。可聴領域、聴くことができる範囲は約20Hzから50000Hzぐらいやったかな? まあ何が言いたいかってと、機械なしに人間が干渉しえるのはごく狭い範囲ってわけ」
先輩の表情がわかるまでに視界が開けてくる。彼は志織を見ずに膝と膝の間で組んだ自身の手を見ていた。
「目に見えるもの、耳で聞こえるもの、科学が証明できるものだけをすべて信じとっても、それはこの世界を形作るほんの一部にしかすぎん」
そこまで言って先輩が椅子から立ち上がった。窓辺にまで歩いていく彼の後ろ姿を黙って見つめる。すると彼は窓下のレールに飛び乗ったかと思うとそのまま下へ降りてしまった。彼の姿がふっと見えなくなる。
「先輩ッ!?」
手に持つものを机の上にほっぽり出して窓へと駆けつける。レール部分に手を掛け下を覗くと先輩が手をひらひらさせながら浮き上がってきた。はあと息をつき、レールに手を掛けたまま膝を折る。彼の躰には重力など関係ないことを一瞬だけ忘れていた。
先輩は志織の前方、窓を隔てた宙に浮き、空を指差しながら話し始めた。
「空が青く見えるのは、光の散乱の仕様とか、波長の長さとか、色々理由はあるけど、地球の大気の影響がかなりある。地上から一五〇キロぐらい上空に上がると空はもう黒く見えるんやって。海が青く見えるのも空と同じ理由。目には見えん微粒子とか水分子に短波長の光が散乱させられるけんやな。波長の短い光のほうが屈折しやすいって言ったやろ? その散乱する青い光が俺たちの目に見えるんよ」
先輩は今度は窓の外側からレール部分に飛び乗った。飛び乗ったというより、歩いてそのまま乗ったという感じだ。先輩の上半身は窓の付いている壁に見え隠れしている。志織が一歩後ろに下がると、彼は「よっ」と言って床に降りてきた。
「すごい。先輩、物知りですね」
志織は久しぶりに自分から先輩と目を合わせたような気がした。志織を少し見下ろすように先輩が「そーでもないよ」と首を捻る。
「知っとるってか記憶しとうだけ。自分のことはなんも憶えとらんのにね、死んでから読んだ本のことは憶えとる。称賛されるべきは本のほうやね」
大きく伸びをして首をコキコキと鳴らす先輩の仕草を見て、幽体であるという点を除くと普通の高校生にしか見えないと志織は思った。
「でも本は、ただ本でしかない」
先輩が窓の外を見て、息をつくように呟く。
志織は再び首を傾げた。またもや彼が何を言わんとしているのか志織にはわからなかった。
先輩が「座ろっか」と言って新聞紙の敷かれた椅子に腰を下ろす。それを見て、志織も再び自分の定位置に着いた。
じっと志織の顔を見つめてくる先輩に対して、志織も負けじと彼の顔を見つめ返す。そのとき、今まで先輩から聞いた話を思い返してみて、うまく自分の中で咀嚼しえない点がいくつか出てきた。
「はい、先輩。質問です」
志織が質問する小学生のように右手を挙げる。
「はいなんですか、立花さん」
先輩も志織の生真面目な言動に合わせて、掛けてもいない眼鏡を鼻の上でくいっと上げる真似をした。まるで家庭教師とその生徒の図だなと思い、小さな笑いが込み上げてきそうになる。
「波長の短い光のほうが屈折しやすいなら、空はなぜ紫色じゃないんですか」
青よりも紫色の光のほうが波長は短い。つまり屈折しやすい。ではなぜ、空の色は紫でなく青色なのだろうか。
「そうですね。そう疑問に思うのは当然です」
先輩の家庭教師モードはまだまだ続くらしい。
「空の色が紫に見えん理由を一つ挙げますと、紫、菫色の光が太陽光には少ないという点があります。太陽光のスペクトル、物理の教科書とかで見たことある? 赤と青が大部分を占めとると思う。それに、人間の目が対処しきれるのはおよそ400から700ナノメートルの光の世界。人の目は紫よりは青の光を認識しやすいのです。やけん地球の空の色は青。でも大気の条件とか角度とかによって空の色は変わります。誰が見るかによっても変わります。じゃあ、本当の空は何色ってならん?」
丁寧語と方言が入り混じった先輩の答えをなんとか呑み込んで、志織は最後、逆に彼から投げかけられた質問の意図を考えてみた。
「心の色、記憶の色。自分が澄んだ気持ちでおったら青空は晴れ晴れしく感じるやろうし、逆に荒んで、どうしようもなく悲しいときには、あの空の青は無情にも寂しくも映るかもしれん」
先輩が窓から見える空を見上げた。志織も彼の視線の先を追って同じものを見る。
空は誰が見ても青いのかという根本的な疑問。何を当たり前なことを、と人は彼のことをバカにするかもしれない。だが、もしこの地球上に色を認識できる生き物がいなくなったとしても、空はまだ青いと言えるのだろうか。空は青いと言うモノがいなくなっても、空は青で在り続けるのだろうか。
「もう大丈夫みたいやね」
先輩が振り返り、志織の顔を見て笑った。
そのとき初めて志織は気づいた。彼が途切れなく話していたのはなんのためでもない、ただ志織を泣き止ませるためだったのだと。
ただ、それだけのために。
ああ、好きだな。
私、先輩のことが好きだ。
「好き」という言葉がストンと志織の胸の中に落ちてきた。降ってきたと言ってもいいかもしれない。
彼は幽霊だからとか、そんなの関係なく彼のことが好きだと思った。
(何を怖がってたんだろう)
先輩に惹かれていると認めるのが怖かった。自分が自分でなくなるような気がして。私が私であるために積み上げてきたものがあっという間に崩れ落ちていくようで。
もう、あのときから、惹かれていたのに。
彼の本を読む姿に、彼の笑顔に、彼の声に。
彼が「志織」と優しく呼んでくれることに。
一目惚れなんて、絶対にありえないと思っていた。
でも、先輩と出逢って、その《《絶対》》がありえないことに気づいた。
昔、志織は姉の惟織に対して不満に似た疑問を一気にぶつけたことがある。
「なんでそんな、会って数週間の人と付き合えるの? それって本当に好きなの? 好きじゃないのにどうして一緒にいれるわけ」
「気持ち悪くない?」といつも夜遅く、あるいは明け方帰ってくる姉に志織は今まで溜めていた日々の鬱憤をぶつけた。両親は連絡さえすればいいよ主義であり、惟織には一通りの武道とスポーツを習わせていたため何かしらの安心があるのだろう。志織はローテーブルに置いた鏡の前で支度中の彼女の部屋に無断で上がり込んだ。彼女はさして気にもしない様子で自分の作業を続けている。妹の存在を無視するかのような姉の態度に苛立ちながらも、志織は彼女の承諾を得る前にベッドの上に寝そべった。同時に何年か前にUFOキャッチャーで彼女がとったパンダのぬいぐるみを抱え込む。そのとき小学生だった自分が傍らで見ていたのをふと思い出した。
「本当に好きかどうか確かめるために一緒にいるのよ」
あまり妹とは似てないねとよくいわれる彼女は、大学に入って明るく染めた髪にヘアアイロンを当て、慣れた手つきで次々とカールを作っていった。惟織の場合、付き合うという意味合いは広く、またその相手も様々だった。人並みの常識は兼ね備えているはずだが、彼女の行動は志織にとって些か理解しがたいものがあった。
「それって躰も許したりすんの?」
「そこを訊くのはちょーっとあんたにはまだ早いんじゃない?」
「子ども扱いしないでよ」
惟織に向かって志織がパンダをぶんっと投げる。彼女は「ほっ」とアイロンを握っていないほうの手でそれを瞬時に摑みとってみせた。けっこう大きなぬいぐるみだったのになんで片手でキャッチできるんだ、いったいどんな握力してんだと志織が歯噛みして悔しがる。その様子を見て惟織が、ふふふと笑った。
「まっ、志織にもいつかわかるよ」
「何が?」
「好きって想ったら、止まんないんだよ。止めようと思って止まるもんでもないから」
「なんか開き直ってない?」
「あ、ばれた?」
惟織はどんどん綺麗になっていく。高校のときから彼女の周りは賑やかだったが、大学に入ってからはそれが顕著になった。四歳違うとここまで経験に差が出るものなのかと志織は驚きを隠せない。
「お姉ちゃん、いつか刺されるよ」
「大丈夫。ちゃんと相手見てるから」
「心配してくれてありがとねー」とケープで髪を固めていく彼女に「別にしてないし」と志織が口を尖らせる。
「いざというときは引っこ抜いてやるから」
毛先の向きが気に入らなかったのか惟織は再びアイロンを手に持った。「焼いてもいいわねえ」と鼻歌まじりに毛先を整えながら、カチカチと不気味にアイロンを鳴らす。志織はあえて何をとは訊かなかった。いや、ここで訊いたら子どもだと自ら主張しているような気がして訊けなかった。
自由奔放な姉の姿を見て志織は決めた。
何があっても一目惚れだけはしないと。
そんな数週間という短期間の中でその人のことすべてがわかるはずない。
そうやってカチコチに考えを固めて、ずっとそれを持論としてきたのに。
先輩と出逢ってたった二週間。先輩のことはほとんど何も知らない。ただ、彼はここに在るということだけ。志織を取り巻く世界の中には確かに存在するということだけが、彼に関して志織が言えることだった。
(好きって想ったら、止まんないんだよ)
姉の言葉が一種の呪縛のように何度も頭の中で繰り返され、志織から離れてくれない。
先輩、好きでいてもいいですか。
この恋が、叶うことはないとわかっていても。
好きと想う気持ちを止めるなんて志織にはできなかった。
「できました」
最後に「先輩へ」と書き、今日の日付と志織の名前を付け足す。もう七月も終わりだ。去年の今頃は八月になっても補習や模試を受け続けている三年生の姿を見て、嫌だな、三年になりたくないな、となんとなく他人事のように思っていた。だが志織は月日が巡るのを早いと思ったことはあまりない。周りの友人たちは「タイムフライズ!」「タイムフライズ!」と毎日のように叫んでいる。確かに楽しい時間は自分が思っていた以上に早く過ぎていく。志織はこの部屋で先輩と過ごすようになってそれを改めて実感していた。
「俺、こんな顔しとるんやー」
「へー」「ふーん」と自分の顔が描かれた紙を先輩がまじまじと見る。志織としてはうまくできたほうであるため罵倒されるような絵ではないだろうとは思いつつも、やはり本人に見せるとなると緊張した。加えて先輩は自分の顔を知らないわけで、これが今から先輩の中の自画像になってしまうのか、と志織は描き終わったあとにようやく責任の重さを自覚した。
「すっげー嬉しい」
瞬間、息をするのも忘れる。
「ありがと志織」
先輩の笑顔で、志織はそんな重圧もどこか遠くに吹き飛んでしまったような気がした。
「俺ってけっこー見れる顔やったんやね」
「三割増しぐらいで描いてるかもしれませんよ」
「え、そーなん!?」
「さあ。どうでしょう」
「えー、どっちなん」
描いてよかったと志織は思った。先輩だったら、たとえ志織がどんなに下手な絵を描いたとしても喜んでくれただろう。しかし彼の反応は志織の期待を遙かに上回るものだった。
「なんかお礼したいけど、俺なんもできんしなあ」
「そんな、何もしてくれなくていいですよ。私が勝手に描いたんですから」
「ノンノン。女ん子は欲しがってなんぼやろ」
志織は開いた口が塞がらなかった。
何をフランス人みたいなことを言ってるんだこのヒトは、と偏見染みた発言を思わず口から出してしまいそうになるほど志織は驚いていた。
でも先輩は好きになった女の子だけを人一倍可愛がってくれそうな感じがする。生前の先輩はどんな男の子だったのだろうか。彼女もいただろうな、とか、その彼女さんは今何してるのかな、先輩のこと今はどう思ってるのかな、などといった取り留めのなさすぎる妄想を誰か止めてくれませんか、と志織は一人で頭を抱え込んだ。
「あ、いいこと思いついた」
何を思いついたというのだろう。先輩はルーズリーフを机に置いて立ち上がり、机上に放置されていた本を二冊ほど手に取った。
「志織、立ってさ、こっちの本持ってくれん? んで、こう持ってみて」
「? はい」
志織は立ち上がって、先輩に渡された本を言われた通り胸の前で縦にして持った。
「えいっ」
先輩の声が聞こえた瞬間、何をされたのか自分でもわからなかった。
目の前に広がる、白いシャツ。
背中にも本の感触が伝わってきたとき、志織はやっと先輩に抱きしめられていると認識した。
何か声に出そうとしても、喉に張りついてあと一歩のところで出てくれない。
誰かに抱きしめられるという感覚。前後で確かに感じる彼の重み。でもそれ以外、今は何も考えられなかった。
「志織、わかる?」
「は、はい」
何も知らない人が見れば、志織はただ二冊の本に挟まれて慌てふためいている変な人だろうが、当人からすれば今はそんなことどうでもいい。しかし、いきなりこんな行動に及んだ彼の思惑を捉えきれないことが志織には何とももどかしかった。
「先輩は、わかりますか」
彼にも伝わっていたらいい。肌の温もりまですべてが伝わるとは最初から思っていない。ただ、人の重みというものを少しでも感じてくれたなら、と志織は願った。
「――うん。志織ってけっこー胸おっき」
そんなことを訊いてるんじゃない!!
「うッ」
先輩の鳩尾を目掛けて本越しに志織の右ストレートが炸裂する。拳の威力は本の表紙からしっかりと彼の躰にも伝わったようだ。
「なんで怒るん! 健全な男子高生の真っ当な意見やし!」
「そして本を殴りません!」という尤もな正論を、志織が殴った本と自分の持っていた本、合わせて二冊を抱えた先輩からぶつけられる。
「幽霊に健全もなんもないでしょうが!」
「高校生男子の性欲なめんなよ!」
「な、生々しいですッ。性より理性を働かせてください!」
「アッツアツのお二人に茜ちゃんからプレゼントでーす」
突然ガチャッと勢いよくドアが開き、茜がひょこっと顔を出す。先輩は持っていた本を盛大に床の上に落としてしまった。「いやあ生徒会室にあった昔のやつっちゃけど、ここまで運んでくるの苦労したわあ」という彼女のふざけた声とともに真っ白な扇風機が部屋の中へと滑り込んでくる。
「あれ、志織どーしたん」
「どーもしてない!」
「先輩! 本は優しく扱ってくださいね!」と志織が動揺を隠しきれないまま床に落ちた本を拾っていくのを見て、先輩は「はいはい」と噴き出したくなるのを噛み殺しながら答えた。
「『はい』は一回です!」
「はーい」
「先輩、志織に何したん」
「それがねー、ちょっと抱きしめたら」
「先輩!!」
茜には先輩の声が聞こえないにもかかわらず、志織が必死な形相で叫ぶ。それを見てまた先輩が笑った。茜は「よーわからんけど仲よさげやね」と言いながら扇風機のプラグを差し込むコンセントを探している。
「あったあった」
茜は見つけたコンセントにプラグを差し込んで、扇風機のスイッチボタンを押した。扇風機がプロペラを回してブーンという音を立て始める。
「すーーーーずーーーーしーーーーーなーーーーーー」
「絶対すると思った」
「われわれはーーーーーうちゅーーーじんだぞーーーーせんぷーーーきーーー」
「なに、それ」
「即席俳句也」
扇風機に向かって声を出す茜の後ろで志織も人工の風に当たる。クーラーを備え付けるのが主流になっている世の中ではあるが、扇風機だけでもあるのとないのとでは大違いだ。「ありがとね」と志織が言うと「いってことよ」と男前な返事が返ってきた。生徒会室からこんな辺境の地まで自分のために運んでくれたんだなと考えると、茜にはあとでアイスぐらい奢ってあげなくてはと志織は思った。
そっと先輩の横顔を見る。少しだけ、元気のないように見えるのは気のせいだろうか。彼の憂いを帯びた表情を、志織は落ち着かない心地で見ていた。彼女の視線に気づいたのか、先輩がにこっと笑う。だがその笑顔もどこか悲しげで、彼がいま何を考えているのか志織にはわからなかった。いや、わかりたくなかったのだ。
もう子どもじゃないから、こんな時間が永遠に続くものではないと、ちゃんとわかっている。でも、まだ胸を張って大人だと言えるぐらい大人でもない志織にそれを認める覚悟はできていなかった。




