3 名前
雨だ、と教室にいる誰かが呟くまで志織は雨が降っていることに気づかなかった。目に見えるはっきりとした雨筋ではないが、窓は確かに濡れていることがわかる。
雨脚はだんだんと激しくなり、五分と経たないうちにバケツの水をひっくり返したような大雨に変わっていった。梅雨は数週間前に明けたとお天気キャスターは晴れ晴れとした表情で報道してはいたが、たびたびこのような驟雨は予測しえないことがある。まじかよ傘持ってきとらん、などといった小言も教室のどこからか聞こえてきた。
志織の高校では終業式を終えてもすぐ夏休みに入るわけではない。一、二年生は七月いっぱいまで、三年生は八月最初の一週間までは夏期補習が課せられる。もはや三年生には盆休みしか残されていない。無論、成績低迷者だけではなく全校生徒を対象とした補習だ。そのため終業式は生徒にとってなんの区切りにもならず、ただの蒸し暑い体育館に集まらざるをえない苦行と化している。県立高校の体育館に空調設備が整えられる見込みはまずない。
朝補習という七時半から始まる地方の高校にありがちな試練と同じ時間帯に始まるこの夏期補習も今日でやっと五日目を迎える。このような荒行がこうして長年続いているのもやむにやまれない公立高校ならではの履修事情のためだ。
「じゃあ一八七番を……立花さんに読んでもらおうか」
先生に指名された瞬間、志織の心臓は数度跳ね上がった。蚊の鳴くような声で「はい」と言って席を立つ。
(やばい)
何がやばいかって全然授業を聞いていなかったのもあるが一番やばいのは予習をしてきていないことだ。今は化学の時間。補習のため正課の授業を進めるのではなく問題集を解き進めている最中である。センター試験対策ではなく二次試験の記述対策を念頭に置いたカリキュラムだ。この学校では理系科目のセンター対策が十二月に始まる。それまではひたすら記述、記述の毎日だ。
「――次の文章を読み、下記の問いに答えよ。……ただし温度は27℃、大気圧は1013hPa、27℃における水の蒸気圧は36hPa、……原子量はH=1.0、Cu=63.5、Zn=65.4、気体定数はR=8.31Pa・m^3/(mol・K)とし、気体はすべて理想気体として扱うこと」
ただこのように問題文を読み上げるだけであったら、どれほど心中が穏やかなことだろう。志織のクラスの化学担当である倉田先生の場合、問題を読み進める合間で生徒は彼の質問に淀みなく答えていかねばならず、指名されたが最後、十五分は席に座ることができない。生徒はランダムで当てられていくため、毎日の予習にも気が抜けないのだ。にもかかわらず志織は既に一度当たったこともあって完全にぼうっとしていた。まだ一度も当てられていない人もいるのになぜなんだ、という予習をしてきていない自分を棚に上げた想いが込み上げてくる。
「……亜鉛0.20gを希硫酸に加えると気体を発して完全に溶解した。このとき発生した気体は水上置換によってすべて捕集した」
「はい一旦そこまでね。ここで発生した気体と生成した物質は?」
「す、水素と硫酸亜鉛、です」
「そうですな。じゃ、発生した水素の質量求めよって問題あるけん、どんな計算して求めたか言って」
カツカツと先生がチョークで黒板に書き進めていく音が教室に響いていく。志織の席は前から四番目、後ろから三番目という先生の目も細かくは行き届きにくい場所に位置しているものの、真ん中の席ほど教壇からは見えやすいといったデメリットがある。問題集とは別冊になっている解答を開くのはご法度だ。
「えっと、……亜鉛の質量を原子量で割ってモル数を出し、ます。……65.4分の0.20です」
とにかくいけるとこまでいくしかない、と先生が背中を向けている間にノート上で計算をしていく。こんなときに限って計算量の多い問題が後々連なっている。
(小数点めんどっ)
「値は?」
「3.06×10^-3molです」
答えを確かめる暇もなく今しがた計算し終わった値を口に出す。
「これ有効数字は……書いとらんなあ。ああ、これはまだ問題になっとらんったい。そしたら水素の質量は?」
「水素の分子量掛けるモルで、2.0g/mol掛け3.06×10^-3イコール6.12×10^-3……四捨五入して6.1×10^-3gです」
「はい、よろしい。ま、これは楽勝やろ」
先生の言う通りここは暗算でいけたが問題は次だ。予習していればなんともない典型的な計算問題であるため「わかりませんでした」という言い逃れはできない。そもそも予習なしにその場で素早く計算処理するなど志織の脳では無茶な話であった。
(あきらめよう)
自業自得である。すみません予習をしてきていません、と一言いえば済む話だ。「予習をしてこなかったらその場でキープスタンディングですな」と倉田先生が四月の時点で話していたのを思い出す。黒板の上に掛けられている時計をチラ見すると授業が終わるまであと十五分ほど。後ろの席の人たちには申し訳ないが残り時間このまま立っておくしかない。
「……すみま」
せん、と続けようとしたそのとき、志織の前に誰かの腕が伸びた。男子の開襟シャツと女子のポロシャツが真っ白に犇めき合う夏の教室の中で彼の姿ほど異様な色を示しているモノはない。
濃い灰色の学ラン姿である先輩が「シーっ」と人差し指を立てて彼自身の唇に近づける。志織からすれば驚きすぎて声も出せなかったためそのような仕草をされるまでもなかった。なんでここにいるのか、本当にみんなには見えていないのか、などといった疑問が猛スピードで志織の脳内を駆け巡る。
「捕集した水素の体積はどうやって求めたと?」
想定内だった先生の問いには志織でなく先輩が口を開いた。
「水上置換で捕集しているため水の蒸気圧の分も考えて」
「ほら、続けて」と先輩が志織に復唱するよう促す。何がなんだかわからないまま志織は「す、水上置換で捕集しているため、」と先輩の言葉を繰り返した。
志織が手に開いて持っている問題集を先輩が横から見る。先輩は解答冊子も見ないまま小数第三位まで瞬時に値を求めて志織に教えてくれた。そんな先輩に尊敬の眼差しを向ける間もなく次から次へと倉田先生からの質問が飛ぶ。
「気体の状態方程式pv=nRTを用いて」
「――気体の状態方程式pv=nRTを用いて」
先輩が志織の横で淡々と先生の質問に答えていくのを聞きながら半ば操られているような感覚で彼の言葉をそっくりそのまま志織が繰り返す。加えて先輩は志織の理解しやすいスピードで解説してくれた。ときどき「あ、これやった気ぃするわ」「うわ、この反応式懐っ」と小声で口を挟む。「先生めっちゃハゲ散らかしとんなあ」と言ったときには噴き出さないようにするのがやっとだった。
今のところ先輩の姿が誰かに見えている様子はない。彼の声も同じく聞こえている者はいないだろう。
「こういう溶解度積の問題はくさ、計算間違いがようあるったい。本番は今より緊張しとうし時間にも限りがあるけんよう練習しとけよ。特にこの10のマイナス何乗とか一桁違いでミスって泣くやつおるけんな。ということで立花さん、ここの答えは?」
「KCuS¬=[Cu2+][S2-]=[Cu2+]×1.2×10^-20とおいて、KCuSの値は6.3×10^-36(mol/L)^2と既に出ているので、銅イオン濃度の値は5.25×10^-16、四捨五入して5.3×10^-16mol/Lです」
「はい、けっこうでしょう。立花さん、よう予習してきとりますなあ」
「座っていいですよ」と倉田先生の満足気にみえる笑顔が志織に向けられる。先生から初めてもらった賛辞を志織は引きつった顔で曖昧に笑って誤魔化した。
「今日の講義はここまで。次は一九〇番からね。チャイムが鳴るまであと一分ぐらいあるけん今日やったとこ見直しとき」
見直しをしろと言われてもあと一分という短時間の間で素直にそれをする生徒はなかなかいない。志織は席につくとき、先輩に「ありがとうございます」と声を出さず口の動きと表情で伝えた。先輩は何も言わず、ただにっこりと笑って志織に応えた。助かったと思う反面、何やらズルをしてしまったようで後ろめたさを感じる。
先輩は教卓のほうに歩を進めて倉田先生の傍らに立った。先生と比べると先輩の背がずいぶんと高く見える。先生が教壇の上を歩くとギシッという木製の床の軋む音がするが先輩の足音はまったく聞こえてこない。今年で九十何周年かを迎えるこの学校は趣があるといえば聞こえはいいが、校舎自体は古くさい。最後に行われた改修工事がいつであったか一生徒である志織が知るわけもないが、体育館だけはやけに新しいことがわかる。冷暖房も最近になってようやく完備され、OBやOGなどからは「夏は暑く冬は寒いなかで勉強したんだよ」といった武勇伝に似た悲劇を聞かされることも少ない話ではない。
(先輩がここにいたとき、クーラーってなかったんだろうな)
女子の制服はともかく男子の制服はここ何十年と変わっていないらしい。
もし先輩と同級生に自分が生まれていたとしたら、どんな話をしただろうか。最近は暇さえあればそればかり考えている。同じ空間で、同じことをして、他愛ない話で笑いあっただろうか。それともなんの関わりあいもなく、名前程度を知っている仲だったのだろうか。
先輩はなぜ成仏できないのか。そもそも幽霊という自身の目に見えない非科学的な存在を信じていなかった志織にとって「先輩」という確かな存在は平凡な女子高生の日常においてたいへんイレギュラーなものだった。
「志織、ノートも見らんですらすら答えよってすごって思いよったけど、先輩が隣におったったい」
昼休み、志織の斜め後ろの席に茜が座り、弁当を互いに食べながら先ほど起こった出来事を彼女に打ち明ける。窓越しに外へ目を向けてみるといつの間にか雨は止んでいた。空を覆っていた厚い雲が一掃され、真夏の陽が痛いくらいに教室へと射し込んできている。
そうか、傍から見ればそういう違和感があったのか。これ以上ないくらいテンパっていたため気づかなかった。普通、先生に指名された生徒は自分が解いた形跡のあるノートを見ながら答えていく。
「てか予習しとらんやったんならあたしがノート貸せたのに」
今思うとそうすればよかった。志織は「あー」と天井を仰いだ。すぐ斜め後ろには茜がいたのだ。彼女の得意科目は物理、化学といった理系科目だ。その代わり国語と英語の成績は志織より遙かに悪い。図書委員長なのに悪い。典型的なリケ女である。残念なことに科目ごとの点数でバランスがとれていないため彼女の成績はなかなか浮上しない。文系科目の予習は絶対にしないが理系科目の予習は率先してなおかつ完璧にしてくる、そんな彼女の存在を一瞬忘れてしまうほどに自分は緊張していたのだろうか。
「先輩って、何者っちゃろうね。さっきの問題ができるってことはやっぱ三年のときに亡くなったんかいな。化学平衡とか溶解度積の問題ってあたしたちも最近習ったし。文系じゃなさそうなのは確かやね」
「そう、だね……」
志織も茜と同じことを考えていた。先輩がいた頃にどういうカリキュラムが組まれていたかまではわからないが、もしかしたら理系に属していたのだろうか。一年のときに文理選択が為され、二年時にそれに基づいてクラスが編成されるこの学校は、理系の生徒が約七割いる。理系は男子の比率が圧倒的に多く、逆に文系では女子の比率が圧倒的に多い。だが志織のクラスは科目選択の関係もあって男子と女子の数が半々だった。人数も四十四人と学年十クラスの中で一番多いため角の広い教室が宛がわれている。
「先輩ってもう教室にはおらんの」
「うん。さっき先生が出てったあと、先輩も手、振りながらどっか行っちゃった」
「そっかー。あー、あたしも先輩と話してみたい。いいなあ志織。先輩ってかっこいっちゃろ? でも志織とは男の趣味全ッ然合わんしなあ」
「あんたは枯れ専だからでしょ」
「枯れ専いうな枯れ専。ダンディな殿方を好むと言いたまへ。我が心のオアシス西島さまが枯れる日など決して来ないのだよ」
「ファザコンだもんね」
「断じてファザコンじゃない!!」
「ちょっ、口から米飛んできたし」
「やめていただけます?」と志織は自身の制服に付着したご飯粒をピッと指で茜のほうに弾き返した。
「あたしはファザコンやないって何回言ったらわかるんですかッ」
「飛ばし返すな! 子どもかおのれは」
茜は外では父親にきつく当たっているように見せているが、家ではべったべたに甘えていることを志織は知っている。茜の家に初めて泊まりに行ったとき彼女の口から「パパがね」という単語がうっかり滑り出たときは自分の耳を疑った。そしてその父親のメールアドレスは茜の誕生日プラスakaneloveである。志織は茜がそれを自ら言ったわけでもないのに知っていた。内緒で志織に吹聴したのは彼女の母親である。
「ごめん」
再び志織の制服に付着したご飯粒を茜が摘んで自分の裏返した弁当箱の蓋に置いた。
「わかればよろしい」
「でもね、」
「わかった。私も悪かった。茜はファザコンじゃないよ」
「わかればよろしい」
なんなんだこのやりとり。
そんなに恥ずかしがらなくてもいいのにと志織は思う。お父さんを好きなことはなんの恥ずかしいことでもない。だがやはり思春期の女子という周りが父親をなぜか軽んじる傾向にあるなかでは否が応でも照れ臭くなってしまうのだろう。
「今日も図書室行く?」
「うん」
「このあと時間割なんやったっけ」
「たぶん英語かな」
この一週間、志織が先輩の存在を知ってからは授業が放課になったあと茜と二人で図書室に通う毎日が続いていた。あの部屋には志織用の椅子も既に持ち込み済みである。茜に関しては任期の十月まで図書室の中を離れることができないらしい。
夏期補習は一、二年が午前中までで午後からは部活であるのに対し、三年は十四時半まである。三コマ授業で時制が決められており、今日の午前は化学、物理の順で授業を受けていた。昼休みのあとは英語が待っている。
「志織、最近学校来るの楽しそう。前が楽しそうやなかったって意味やないけど、最近の志織はなんかウキウキしとるって感じ」
「……そんなことないし」
確かに茜の発言は的を射ていた。図星だっただけに茜みたいにすぐ顔に出るタチでなくてよかったと思う。去年までと違い、早起きするのもそれほど苦痛ではなくなったし、何より明日になるのが待ち遠しかった。
「またまたあ、照れちゃってえ」
「照れてない」
「いやあ隠したってあたしにはわかるよお」
「それ以上言ったら茜のお父さんのメアド黒板に書いてやる」
「ごめんなさい」
「ってなんで志織が知っとうと!?」と今度は玉子焼きの欠片が志織に向かって飛んできた。
「行儀悪いよ」
「あんのクソばばあ!」
「口も悪い」
茜と知り合っていくうちに志織は自分に大きな妹ができた気がしていた。でも実際の誕生日は彼女のほうが半年以上も早い。それに友だちとしては一緒にいて面白いが、妹だとこんな生意気で口の悪いやつは無性にいらっとするだろう。そこをご愛嬌としても彼女に手を焼いてきたであろう兄上の心中をお察しする。
「ホント、茜のお兄さんには心から同情する」
「志織って、うちの兄ちゃんの肩けっこう持つよね」
自分に味方してくれないのが面白くないとでも言うように茜が目を細めて志織を見る。
「彼には並々ならぬ親近感を覚えていますから」
「あー、部活のことで? 志織の中学んときの部活と一緒やったけん?」
「それだけじゃないけどね」
しかしこうやって志織が面と向かって彼女のことを冷静に非難することができるのも二人の信頼関係に基づく。トモダチというのはいったいどこからがトモダチというのだろうか。志織はときどきそれを考える。自分は人見知りかと問われればそれとはまた少し違うような気もする。それに人見知りをヒトと話せない理由にするのもあまり好きではない。自分はもう人見知りをするような子どもでもないし、相手の目を見てきちんと会話することもできる。ただむやみやたらと他人に踏み込まれたくないだけだ。茜はその辺の線引きが苦手なようで絶妙にうまい。相手の長所も短所も知っていて、それを理解し受け入れることも大切だと思う今日この頃だ。
「なに笑ってんの」
「いや? 嬉しいなと思って」
「何が」
「今は言えんな」
「あたしシャイやけん」と最も自分に似つかわしくない言葉を不敵な笑みを浮かべながら自ら発する茜を見て、志織は「辞書で意味調べたほうがいいんじゃない」と呆れながら言った。
志織も茜に伝えていないことがあれば、それは彼女にだってあることを志織は知らなかった。
*
「今日は本当にありがとうございました。助かりました」
この部屋に通うようになって志織は部活をしていた頃のようなタオルを持ち歩くようになった。今はまだあまり目にしないが、後期の夏期補習からは放課後に体育祭の練習が入ってくるため生徒は必然とタオルを携帯する。冷房に慣れた生活を送っていると躰が弱るというのは本当のことで、志織は今それを痛切に実感していた。服を着たままでもいいから冷たいプールに飛び込みたい。最高気温が三十度を超える毎日のなかで自然風だけが頼りとなる生活は部活を引退して体力がなくなった受験生というひ弱な身には堪えるものがあった。
「俺のお節介やけんお礼とかいいよ」
同じ空間にいるのにあまりの暑さで項垂れている志織とは裏腹に先輩は本を読みながらも至極のほほんとしている。
「無理してここに来んでもいいのに。暑かろ?」
数学のプリントを解いてはいくものの、紙が腕に引っ付いてしまうほど汗をかいている志織を見て先輩が息をついた。志織が慌ててプリントから顔を上げる。
「いえ、けっこう風も入ってくるので、大丈夫です。それに、私がここに、」
いたいんです。とは口が裂けても言えなかった。
「ここに?」
「っその、先輩と話すの、楽しいから、別にいいんです」
最後のほうは声が小さくしぼんでいき、志織自身にも聞こえなかった。
「……そう? 無理しとらんやったら、おってくれたほうが俺も嬉しい」
このヒトは、天然なのか?
今ドキこんなにも自分の気持ちを直球で伝えてくれる人がいるのだろうか。お世辞と建て前が蔓延る世界で生きていくのに慣れてしまっていたため返す言葉に困る。握っていたシャーペンに力が入り、芯がボキッと音を立てて豪快に折れた。頭が真っ白になりながらも手は自然と動き、ペンケースの中から替え芯を取り出す。
カチカチと何度かペンを鳴らして芯の出を確かめていると、先輩が志織のプリントに目を向けているのが何となく感じられた。志織は今、日は当たらないが風は通る、窓とは反対の入口側に椅子を置いており、先輩は机の角を隔てた志織の左手側、最初志織が見たときと同じ位置に座っている。
「名前、志を織るって書くんやね」
先輩がプリントの右上に書かれた志織の名前を指差す。走り書きに近い自身の名を見られて志織は少しだけ恥ずかしい思いがした。先輩に見られるんなら、もっときれいに書いておけばよかった。
「そうですけど……。あ、ブックマークのほうの栞と思ってましたか」
「んー。というよりどんな字で書くんかなって思いよった」
それは私がいないときでも私のことを考えてくれていたということですか。
とはもちろん訊けない。自惚れも大概にしよう。
先輩は絶対に深く考えないでモノを言うタイプだ。相手に気を持たせるのが得意なヒトなんだ。
志織は目の前にある数学のプリントに集中しようと試みた。今、私がしなきゃいけないのはリミットを求めることだ。x→∞に発散していくから……。
計算をしている途中で先輩が指差した自分の名前にふと目がいく。集中力は三十秒ともたなかった。「立花志」までは字画も少ないが最後の「織」で一気に画数が増える。走り書きもいいところで現に糸偏が糸偏の形をしていない。その隣の音という部分も若干怪しい。
(――なまえ)
名前がわかれば、先輩は成仏できるのだろうか。
先輩と数字がごちゃ混ぜになる頭の中で唐突に思った。『名』というのは本来とても大切なものだ。名づけることでそのモノを固定化し、分類する。モノに言葉を与えて世界を対象化、分節化していくのがヒトという生き物だ。人間が人間たりえるには言語で普遍化された世界で生き延びるしかない。
「志織って呼んでい?」
「は?」
「え、イヤかな」
「ごめん」と先輩が耳垂れた子犬のように、見るからにしゅんとなる。
「いや、あ、いやってそういう意味じゃなくてその全然イヤじゃないです」
ぐるぐると考え事をしていたため思わず冷たく突き放したような声が出てしまった。そんなつもりじゃなかったんだ。突然訊かれたのと、その内容が瞬時に理解できなかったのと相まってぽろっと口から出てしまった。
「よかった」
ああもうそんな顔で笑わないでほしい。
志織の中で一つのセオリーとして確立していたことが彼の笑顔でガラガラと容易く崩れ去っていく。
「志織にもいつかわかるよ」
――そう言ったのは誰だったっけ。
「志織は、きょうだいとかおると?」
先輩の問いで一気に目が覚めたような気分になる。「志織」と自然に呼ばれたこともそうだがその内容が今自分の考えていたことと一致したのだ。
そうだ。あれはお姉ちゃんだ。
「……姉が一人います。四歳年上なんですが、東京の大学に通ってるので、今は一人暮らししてます」
姉の存在というのは妹にとっては非常に大きいもので、志織はいつも彼女の背を見て育ってきた。四歳下ともなれば相手にされないことも多々あり、そのたびに年下の特権である「おかあさんおねえちゃんがあ」攻撃を口にしていたのを思い出す。あの頃は若かった。
「四つ上ってことは、今は大学四年なんかな」
「はい。就職先も決まって、毎日遊んでるっていったらあれですけど、楽しそうですよ。でもやっぱり忙しいみたいで、あまり会えてないです」
最後姉に会ったのはもう去年の夏休みだ。それからは彼女の就職活動が始まり、正月に帰省する時間と労力を確保することはいくら器用な姉にも為しえなかった。だが今はスカイプなどもあるので一年間ずっと顔も見ていないわけではない。
「お姉さんの名前は?」
「惟織です。字は思惟の惟に、えっと、立心偏の惟に、同じ織るです。男の子みたいな名前ですけど、本人は気に入ってます」
プリントの左隅に「惟織」と書いて先輩に見せる。姉は昔から運動神経もよかったためトロフィーやメダル、賞状などをもらってきては家の棚に飾られていた。志織も負けず嫌いなのは彼女似で、姉に対抗するかのように同じスポーツや部活を選んでは賞を獲得していった。でもそれは昔の話で、今はもう表向きに敵意を剥き出したりすることはない。あの頃は若かった。
「お姉さんが想いを織るで、妹が志を織る、なんやね。……ずっと繋いでいくって感じ」
志織は先輩の姿を見て、一瞬息を止めた。
驚いた。姉と自分の名前を言っただけで両親の考えていたことまで当てた人は今までに一人もいなかった。
「いい名前。俺、好きやな」
せっかく補充したシャーペンの芯が再び折れる。
「あれ、志織って意外と筆圧強いんやね。さっきもシャー芯折りよったやろ」
「……そうですね、はい。強いほうだと思います」
もはやここまでくると天然じゃない。魔性だ。
志織は次から次へと流れ出る汗を国民的人気を誇る猫のキャラクタータオルで拭った。ただでさえ暑いのに体感温度が二度ぐらい上がったような気がする。志織と茜が出入りしたり、空気の入れ替えや掃除をするようになったため最初の籠った空気感は解消されたがこの暑さにだけは対処しきれない。
「何か、思い出しましたか。その、授業中も化学反応式見て懐かしいって」
一コマ目、自分が一時ピンチに陥った化学の授業を振り返る。黒板に書かれた、銅に濃硝酸を加える化学反応式を見て、先輩は確かに懐かしいと言った。少しは自分のことを思い出せたのだろうか。
先輩は読んでいた本を閉じ、志織と目を合わせた。口角は上がっているが、その瞳は笑っていない。
あのときと同じだと志織は思った。初めて彼を、ヒトでないと認識したときに見た寂しそうな笑顔と。
ああ、訊かなければよかった。
こんな顔をさせてしまうぐらいなら、あのまま自分の胸にとどめておけばよかった。
だが一度口に出してしまったものは、二度となかったことにはできない。
「――全部が、朧げっちゃん」
ぽつりぽつりと、音に、声にして、先輩が言葉を紡いでいく。志織は右手に握りしめていたペンを置き、膝の上に手を置いた。
「既視感っつうんかな。確かに経験しとうことなのに、それがいつどこのことなんか憶えてない」
先輩が志織から視線を逸らし、窓の外に目を向けた。
「デジャヴ、デジャビュ。脳が引き起こす錯覚とも言われとうけど、実際にはまだ解明されとらん。人間の脳にしても、他ん動物の脳にしても、わからんことってまだまだたくさんあるんよ。躰の中は小宇宙っつうぐらいやけん」
日常生活のなかで既視感を覚えることは志織にもあった。しかしその多くは夢で見た気がするけど気のせいかな、で片づけてしまう。
でもそれが、実生活のことだったら?
夢みたいに曖昧で空想がかったものじゃなくて、現実の、自分が見たり、聞いたりしたことを、思い出せないのだとしたら。
「ほんと朧げにやけど、父と母の記憶がある。……あとあれは、兄さんなんかな。四人家族やったと思う。でも、彼らの顔は思い出せん」
それは、どんなに歯がゆくて、悔しくて、寂しいものなんだろう。
「志織がそんな、悲しそうな顔せんでよ」
泣いてはいけない。彼が志織に涙を見せていないのに、志織が彼のことで泣いてはいけないような気がした。
――違う。彼は涙も流せないのだ。
よしよし、と先輩が志織の髪を撫でる。その感触も志織にはわからない。先輩も志織には触れることができない。ただ、とても温かい気持ちが、想いが流れ込んできたのは志織にもわかった。
「先輩」
「ん?」
「そのかっこ暑苦しいです」
「マジか」
本当はもっと他に言いたいことがあったのかもしれないが志織の口を衝いて出た言葉は頭の隅で常にぼんやりと感じていたことだった。
「じゃあ脱ぐ」と先輩は立ち上がって、学ランのボタンを片手で器用に、かつ素早く外していった。男兄弟のいない志織は学ランのボタンがこんなに速く外せていけるものだとは知らなかった。志織の学校では男子の冬服が学ランであるのに対し、女子はセーラー服でなく黒のブレザーと規定されている。
先輩は脱いだ学ランを畳んで、というより軽く折り曲げて椅子に敷かれた新聞紙の上に置いた。今まで話してきたことや彼の行動を思い返してみても、それほど几帳面な性格ではないように思う。
「これでおっけ?」
僅かに傾き始めた西日が先輩の躰を照らした。彼が着ている真っ白なシャツが反射して志織の目に映る。だがそれこそが目の錯覚だった。実体のない彼の影は志織の目にも映ることはない。
「はい」
志織の返事を聞いて、先輩が嬉しそうに笑う。
志織は眩しすぎて彼の姿を直視することができなかった。




