2 先輩
厚い雪雲が空を覆っている。宗一はマフラーに顔を埋め、ズボンのポケットにかじかむ手を突っ込んだ。あと数分後には雪の降り出しそうな気配を身を以て感じる。
横断歩道の手前で信号が青に変わるのを待つ宗一の前を、車が絶え間なく行き交う。そのたびに車の起こす風が躰を襲った。風は冷たく、外気に晒された彼の頬と耳を赤く染めていく。
寒いのは昔から苦手だった。夏か冬どちらが好きかと問われれば、迷いなく夏と答える。まず冬の朝は起きられないのだ。去年までは朝補習の時間に合わせて起きるのが苦痛で仕方なかったのを憶えている。なぜまだ星の出ている時間帯に通学せねばならないのか。ただでさえ朝の弱い宗一には理解しがたいものがあった。だがセンター試験も終わり、二次試験対策の時期になると三年生は二次で自分の受ける科目だけの補習にさえ出ればよい。にもかかわらず最近はそれさえも億劫に思う。
「寒ぃ」
「今日確か最低気温零下やろ」
声に出しても気温が上がるわけはないとわかっていても、「寒い」とつい口に出してしまうのはなぜだろう。誰かが、暑さ寒さを訴えるのは季節への礼儀、と言っていたことは憶えているが、それが誰であったかまでは思い出せない。
宗一は隣に立つ勝広が歩き出したことで信号が青に変わったと気づいた。
「マジかよシヌ」
「ホントお前冬はヘタレやな。夏でも根性なかったけど」
「かっちゃんひでー。俺に対する評価ひでー」
「勉強面ではな。嘘は言っとらん」
そう言う勝広の鼻も赤く染まっている。海風が川を沿って直接平地に流れ込んでくるため、この辺りは九州といえど冬は冷え込むのだ。駅までの道のりは十五分ほどだが、その十五分の間だけでも部屋の中で過ごしていたいと思う自分はやはり勝広の言うようにヘタレなのだろう。部活を昨年の初夏で早々に引退し、唯一躰を動かす機会であった体育の授業も十一月で終わった。もう久しく汗をかいていない気がする。二月半ばの今、国立大の前期試験まで机に向かって勉強するのもだんだん飽きてきた。飽きるほど勉強しているわけでもないが、人間いつかは必死に勉強せねばならないらしい。自分の必死は果たしていつ来るのだろう。
「かっちゃんはどこに願書出した?」
「俺? 俺はM大。ソウは? 結局どっちしたん」
「浪人覚悟でS大」
「センターしくったんやったけ」
「おー、盛大にな。マークってマジこえーわ」
「あんだけ練習したのになんでミスるん」
「なんでやろーなー。やっぱ焦っとったんやろうなあ」
初めて受けたセンター試験の結果は散々だった。当然志望校の判定は絶望的。担任の先生も面談で来年の話を始めたぐらいだ。
「二次で挽回せなやな。私大は? 親はなんて言いよるん」
「私大は受けとらん。親は自分の好きなとこ行けってさ」
「よかったやん。うちはまだ下に二人おるけんなー。私大と浪人は厳ぃんだわ」
「親になんも言われんのもいいんか悪いんかよーわからんよ。なんかそれに甘えて勉強せんやった気ぃする」
「親のせいかって」
「いや、自分のせいやけども」
勝広の辛言は色々な意味で耳が痛かった。時間は誰にでも平等に割り当てられているはずなのに、こうも結果に差は生じてくる。持っている潜在能力の高さとか育った環境の違いだとか、そんなものを理由にするのは言い訳に他ならない。しかし、そうまでして自分に逃げ道を作っておかないと、自分が人間のクズのように思えてくるのだ。どこまでも弱い己の姿をこれ以上直視したくない。
宗一は不意に目の前を白い欠片がよぎったのを感じ、空を見上げた。予想していた通り、雪がちらほらと舞い降りてきた。今年何度目の雪だろう。こうして空を見上げたのもいつぶりなのか彼にはわからなかった。
「てか、先輩の話聞いたやろ?」
「へ? だれ先輩?」
歩きながら雪を生み出す曇天に気をとられていた宗一に勝広が軽い肘鉄を食らわせた。
「お前知らんとかって。フジ先輩がバイクで事故ったって話」
「ガチで?」
宗一が声を上げた。すれ違った他校の女子生徒が突然の大声に肩を竦める。「本当に知らんかったん」とでも言いたそうな目で勝広が宗一を見た。
「なんでまた」
「さあ。聞いた話やけん俺もようわからんけど」
「先輩は無事なん?」
「それが、けっこうやばいらしい。意識不明の重体って」
「いつの話? それ」
「俺は一昨日ぐらいに聞いた。たぶんここ一週間のことと思う」
フジ先輩は一つ年上でバスケ部に所属していた宗一と勝広直属の先輩だった。キャプテンも務めた彼は宗一にとってよき手本とも言える存在であり、尊敬する人物の一人でもあった。そんな彼がバイクに乗って事故に遭い、今なお生死の境をさまよっているとは俄かに信じがたい。だが勝広に限ってこの手の話で嘘を言うことはないだろう。冗談にしてはタチが悪すぎる。それにしては、どこか遠い、自分には関係のない出来事のように宗一は考えてしまう。先輩とは一年近くともに練習して、体育館と部室の中で同じ時間を共有し合った。相談にも乗ってもらったし、好きな漫画やゲームなどの他愛ない話で盛り上がったりもした。なのにどうして彼が事故に遭ったことを他人事のように思えてならないのだろう。
「フジ先輩どこの大学行ったっけ」
「東京の私大やろ? 指定校で行ったの憶えとる」
「指定校かあ。いいなあ」
「ばーか。指定校に推薦されるまでのレベルになるのがムズいんやろうがって」
「俺とか成績カードに赤シートかざすとめっちゃ字ぃ消えるけん絶対ムリやわ」
「スタートラインにも立ってねえやろそれ。どんだけ赤点とりよったん」
「一、二年のとき文系科目クソやったもん俺」
「それがなあ、今では得意分野になっとうのがすごいわ。二次関係ねっけど」
「それこそフジ先輩のおかげっちゃん。入院しとったとき先輩に本持ってきてもらっとらんやったら、俺ずっとあぽんのままやったわ」
「先輩かっけーうえに読書家やったもんな」
彼の読書姿を一枚絵として売れば何人の女子が買いつけるか勝広と冗談半分に話したのをふと思い出す。当時、部活の練習中にアキレス腱を切って手術とリハビリのため入院を余儀なくされた宗一に先輩は「どーせ勉強せんのやったら本でも読んどけ」と紙袋に入れて自身のベストセレクションを持ってきてくれた。その中には数ⅡBの青チャートもちゃっかり紛れ込んでおり、「やっぱ勉強もしとけってこと?」と先輩の使い古された参考書を見て宗一は思わず笑ってしまった。それ以降、活字がとにかく苦手だった宗一の国語の成績はみるみるうちに浮上し、今では得意科目の一つとなっている。しかし彼が志望する学科の二次試験科目は英語以外で、数学、物理、化学といった理数教科が大半を占めていた。よって国語に関してはセンター試験後まったく勉強していない。本もいつから読んでいないのか忘れてしまった。
「ここ黒木とゲオできたんかって。なんで今年できるかなー。俺らが卒業するまで待っとってくれって感じ」
駅の周辺は駐車場だった広い土地に新しくマンションも建ち並び、最近になってその一階にカフェや本屋が開店した。宗一は本屋の中を覗き、入口付近にコミックの新刊が展示されているのを見つけて立ち止まった。誘惑に負けて入りそうになるのをすんでのところで我慢する。
「寄らんやったらいいやん」
「あぁああ、最近ジャンプも読んでねええ」
「今週おもろかったぜ」
「……かっちゃん読みよると?」
「ジャンプは別やろ」
「ネタバレいいんやったら解説しちゃあぜ?」と勝広が不敵に笑った。「遠慮しとくわ」と宗一が悔しげに答える。
駅に入ると風が入ってこないぶん、寒さが少しだけ和らいだ。電光掲示板で次の電車の時刻を確認し、ホームに向かうエスカレーターに乗る。
「――そういや先輩って、彼女とどうなっとると?」
「なんかまだ続いとるっぽいよ。黄金カップルやったもんな。どっちも頭よし。運動神経よし。先輩はバスケ部のキャプテンで? 彼女は生徒会と運動部のかけ持ち」
「おるんやなやっぱ。天は彼らに二物も三物も与えたわ」
「なんか努力しとるってのがみんなわかっとったけん、余計輝いて見えたよな」
「それ」と即座に返す。なぜ世の中には部活も人一倍がんばって勉強面でも力を発揮できる者がいるのか。産まれたときの姿はみな一緒に見えるのに、分岐点は果たしてどこにあったのだろう。小学校? 幼稚園? いや、単純にもっと最近のことなのかもしれない。
電車の中は暖かかった。部活をしていた頃はラッシュ時の電車に鉢合わせて、いつも人の多い車両に肩身狭く乗っていたが、この時間帯はまだ席もガラ空き状態だ。三駅ほどで自宅の最寄り駅に着くため電車の席に座るクセはついていない。この車窓から三年間見慣れた景色を見るのも、あと二週間ほどで終わる。それを考えると自分でも摑みきれない寂しさが宗一の中に生まれてきた。
電車が動き出して間もなく、勝広が鞄から問題集を取り出して開いたのを宗一は黙って見ていた。不思議と自分も勉強しなければという焦りは湧いてこない。だがこれは古文の先生が「入試直前になるとね、出てくるんですよ。『なんとかなるやろ』と開き直って妙な自信に満ち溢れている生徒が」と言っていたように、根拠のない自信が自分を守っているに過ぎないのだろう。今ではもう、その自信の所在を疑うことすらやめた。面倒くさいのだ。考えるのが。手っ取り早く言うと何もかも投げ出して旅に出たい。
「今日物理でやった問題、ムズくなかった? 解説聞いたらわかったけどさ」
「そりゃそーやろ。T大とK大の過去問やったろ確か。俺も最後まで行き着かんやった」
「あんな解答自力で思いつかんっちゃが。ってこの時期にこんなん言いよっちゃダメかね」
「ソウは基本的に演習が足らん。授業中寝よったけんたい」
「仰る通りで」
幼稚園からの長い付き合いだと正論を真っ向から言われても素直に「はい」と受け止めることができる。貴重な存在だなと宗一は思った。同じ環境で育って、同じ経験を積んできた者との会話はやはり楽しい。それに相手に対して変な気を遣わなくていいのも至極楽だ。
駅に停車するたびドアは否応なしに開くが、ドアの前に並ぶ人影は少なかった。腕時計の針は午後三時を指している。部活をしていたときでは考えられなかった時間に自分は帰宅している。まだ三年生以外は授業さえも終わっていないだろう。その頃より勉強しとらん受験生って終わっとるわと心の中で宗一は呟いた。
毎度揺れが激しくなる地点で反射的に吊革を握る。数秒後、ガタンゴトンと盛大に音を立てて車体が揺れた。吊革から手を下ろすと同時に最寄り駅のホームが窓の外に姿を現す。電車を待つ人々の顔が何かのスローモーションのように宗一の目に映った。
『かぁみやぁぁあーーーーー、香宮です。お乗り換えのお客さまは……』
電車のドアが開くと一気に冷たい外気が流れ込んできた。駅のアナウンスが乗り換えのホームを告げているのが聞こえてくる。
「寒ぃ」
「言わんでもわかっとったい」
「いっつも思うけどさ、このアナウンスの女ん人、言い方独特よね」
「それ前も聞いた」
「うん。俺も言った覚えある」
改札を出ると雪はもう止んでいた。いや、この地区は最初から降っていなかったのかもしれない。だが風は強く、これから自転車に乗って帰らねばならないのを思うと気分が沈む。
「はよ春にならんかなあ」
「そのためには勉強せないかんな」
「マジメやなあ、かっちゃんは」
「うるせー」
駐輪場まで歩いていく足取りが重い。普通は勝広も同じ方面に自転車で帰るのだが、彼は塾で夜の十時まで勉強して帰るのを受験期の日課としていた。宗一は周りの友人たちが次々と予備校に通うのをこれまた傍観者のように一歩離れた輪の外からひとり眺めていた。
「じゃ、また明日」
「おう。明日は遅刻すんなよ」
「善処するわ」
先が見えない不安。それに自分はどう対処すればいいのか。どのような姿勢で臨むのが一番正しい解答なのか。少なくとも今のままではいけないとわかっている。
あー、なんで自分は受験生なんだろう。なんで勉強しなきゃいけないんだろう。なんのために? 自分のためだってことはわかってる。わかってるけど。
なんだかなあ。
全然、想像できない。受かってる自分を想像できない。
てか、俺のやりたいことって、なんやったっけ。
「先輩、大丈夫かなあ」
可愛がってくれた先輩。あんときは楽しかったなあ。まだ受験とか自分とは縁のないものと思いよった時期。もう今はそんなこと言っとられん。
ペダルは漕ぐたびに、前に進んでくれる。でも勉強はしても、前に進んでくれるとは限らない。宗一は自転車のハンドルをぎゅっと握りしめた。容赦なく向かってくる風に対し、腹の奥底に溜めていた息を、どこに据え置けばいいのか未だに迷う想いを吐き出す。
*
あのとき、志織が彼の差し出した手を握ることができなかったとき、志織は初めて彼を自分とは違う存在だと認識した。その瞬間までは彼と自身との境界線はひどく曖昧で、不確かで不透明なものだった。彼の姿を見ることができた志織自身、よくわかっていなかった。
「あの、あなたは、幽霊なんですか」
志織は彼の座っていた椅子に座らされていた。よく見ると、その椅子の上には新聞紙が敷いてあった。机の上にも本が三冊ほど並べてある。見ているようで見えていなかったものに驚きながらも、志織は彼のことが知りたい一心でこの部屋に残っていた。――というのもあるが実際は茜から置いてけぼりにされたと言うのが正しい。彼女は委員会の仕事があると言って一人図書室に戻っていった。あとで話をたんまり聞かせるという約束に似た責務を全うするためにも彼に関する情報を収集せねばならない。
「おそらくね。俺もようわからんけど。……死んだときのことは、憶えとらん」
志織は椅子に敷かれていた新聞紙を畳み直し、それを机の上に置いた。彼は先ほど志織が暑さに我慢できなくなって開けた窓の外を眺めている。窓のすぐそばには木の青々とした枝葉が見えた。
「……あなたの、お名前は」
「俺の名前? あー。俺、それも憶えてないっちゃんねー。シオリちゃんの好きなように呼んでくれていいよ」
好きなように呼べと言われても、どう呼べばいいのかすぐには頭に浮かばない。志織は畳んだ新聞紙の見出しを視界にいれながら彼の呼び名を考えた。
(幽霊さん、はいくらなんでも安直すぎるな)
お化けさん。Q太郎。……幽さん、幽助。
「――じゃあ、先輩で」
考えるよりも先に声が口から出た。彼が首だけを後ろに回して振り向く。
「先輩ぃ? 名前じゃないやん。ま、別いっけど」
一番簡潔で、なおかつ呼びやすい。なんの捻りもないが、突然思いついた呼び名にしては我ながらナイスアイデアだと思った。
「……先輩」
「ん? なに」
「なんでもないです」
「なにそれ」
先輩が乾いた声を上げて笑うのを志織は顔を隠した指の隙間から見ていた。
窓から心地よい風が流れてきた。うなじまである志織の黒髪を静かに揺らす。彼の様子を見ると、木漏れ日に目を細めて何やら考え事をしているようだった。
「あ、暑くないんですか」
窓から太陽の光を上半身いっぱいに浴びている先輩は濃いグレー地の学ラン姿という見るからに真冬の出で立ちだ。
「うん。俺、なんも感じんけん。いや、なんも感じんっつうのはなんや語弊があるな」
先輩は窓の外から志織のほうに躰を向き直して答えた。
「一応、俺、視覚も聴覚も正常っちゃん。でも腹は減らんし、喉の渇きもない。暑さ寒さの感覚はないけど、自分が着とう制服の衣擦れとかはわかる。呼吸はしてもせんでも関係ないな。味覚はどうなっとーか知らんけど紙は食おうと思ったことないわ。ま、なんにも触れんのは事実。自分と、本以外には」
「本、以外?」
「幽霊のわりには変わっとうやろ? 本ってか、紙? にはなんや知らんけど触れるんよねえ。こーやって窓の台にも触ることはできんけど、紙ごしで物とか本にだけはなんでか触れる」
そういえば彼は窓の外を見るときも躰を少し乗り出していただけで、どこにも触ってはいなかった。本を読んでいたとき椅子に新聞紙を敷いていたのも同じ理由だ。それがないと彼は座れないのだ。そして机の上で頬杖をついていたのではなく自分が唯一接しえる本の上に肘をついていたのだ。
「たぶん、神さまが、これだけは俺に残してくれたんやと思う」
先輩は愛おしそうに本を持ち上げ、その表紙を撫でた。感触を確かめるようにゆっくり、優しく彼の指先が踊る。
陽の光に照らされ、古拙の微笑を浮かべる彼こそが神さまなのではないかと志織は思った。
誰が信じてくれるというのだろう。今ここに在る彼の確かな存在を。
先輩、あなたはいつから、ここにいるんですか。
ずっと、ひとりだったんですか。
ずっとひとりで、本を、読み続けていたんですか。
そんなことを、今の志織が口に出して言えるわけなかった。その代わりとは思わないけれど、志織はふと疑問に思ったことを彼に訊いてみる。
「……でも先輩、歩いてますよね」
彼は本以外のモノに触れることができないと言いながらも、ちゃんと床の上を歩いていた。
「お、いーとこに気づいたね。これはね、靴ん中に紙いれとるんよ。インソールってやつ? これいれんと俺、どこまでも落ちてってしまうっちゃん」
「どこまでもって、いったいどこまで落ちるんですか」
まさか地球の反対側にまで行ってしまうというのか。そこまで行ってしまうとどこまでが落ちているのかわからなくなってくる。
「落ちたーと思ったら躰がふわーって浮いてね。地面がめっちゃ遠なって、そんときに、あ、自分は浮けるんやって気づいた」
「ほら」と先輩は床から三十センチほど浮いて見せた。
「まあ、対流圏から出たことはないよ、たぶん」
じゃあ先輩は空を飛べるのか。短絡的ではあるが志織はそう思った。しかし彼は暑さ寒さを感じないと言っていた。とすると空気の流れも感じないのだろうか。今思えばその窓から風が吹いてきたときも彼の髪や服が動いた形跡はなかった。先輩は「風」を感じないのだろうか。志織には想像することすらできない経験を彼はしてきている。いや、強いられている。
「その靴に入った紙は茜にも見えないんですか」
ただの紙とはいえこの世に存在する物質であることに違いはない。彼の躰を透かして、歩いているときにも靴にいれた紙だけ人に見られてしまうのではないだろうか。
「うーん。要するにこーゆーことやろ。俺が今、本を持ちました。それをこう、制服ん中にいれました。シオリちゃん、この本見える?」
「……見えません」
「やろ? アカネちゃんは俺やこの制服ん中の本を全然見ることができん。シオリちゃんは俺のことは見えるけど、この本は見えん。シオリちゃんが見えんのは彼女にも見えんのやないかな」
「見えないということは向こう側の景色が透けて見えるってことですよね」
「そゆことかな? うん」
先輩は宙に浮いたまま胡座をかき、膝の上に本を載せていた。よく見るとその本は洋書のようだ。この図書室に洋書なんてあったかなと首を捻る。その本を持ち上げ、パラパラとページを捲る彼の姿を見て、ある疑問が志織の頭をよぎった。
「先輩は今、本を持ってますよね。私にはその、先輩が手で持っている部分の表紙は見えません。その部分って、茜にも見えないんですか。茜の目にはどんなふうに見えるんですか」
「え? ……たぶん、本が浮いとうように見えると思う」
「なんでですか」
「説明すんのムズいなあ。んーとね、俺の躰自体を透明マントみたいに思ってみてくれん? ほらあのハリポタみたいなの」
「死の秘宝の一つですね」
「……よう知っとうね」
「一応小説は読みました」
「おー、俺も読んだよー。この前は原作にもトライしてみた。やっぱ全部読むには半日ぐらいかかってしまうね。――イメージとしてはそれが一番近いと思うんやけど。どう? なんとなくわかった?」
原作を読んだということは英字の原本を読んだという意味だろうか。それって相当すごくないか。しかも半日で。あのシリーズ全作を、あの膨大な量を、英字で、半日とな。
このヒト、やっぱり神さまじゃないのか。
――本の、神さま。
「……はい。なんとなくですけど、わかりました」
志織の頭の中で引っかかっていたのは彼が手に本を持っている部分は本の背表紙が透けて向こう側の景色が手形に見えるのではないかという疑問だった。彼の手も制服も「彼」であることに変わりはない。そのため制服で本を見えないようにしても、手で見えないようにしても同じことではないのかと志織は考えた。しかしただ「持つ」のと「包む」のは違う。彼が本を包むように持てばそれはまったく見えなくなるが、部分的に持てば彼の躰自身がかの透明マントのように働き、本の背表紙が彼の躰を透けて見えるということなのだろう。
「すみません、なんか質問攻めにして」
小さい頃、自分の親にも「なんで、ねえなんで」と質問攻めをして最終的に「辞書を引きなさい」と言われていたのを思い出す。こちらとしては辞書にも載っていなかったから大人に訊いたというのに。わからないことは訊きなさいと言うくせに自分がわからないことを訊かれると話を変える大人のことを当時は不思議に思っていた。成長して物事を俯瞰的に考えることができるようになり、大人という存在は絶対的に正しい者でもなく、彼らも一人の人間であると理解してからは「大人って」などと思うこともなくなった。あと二年したら自分もその「大人」の仲間入りをするのかと思うと実感はまったくといっていいほど湧いてこない。
「んーん、全然いーよ。誰かと話すの、ホント久しぶりやけん。すっげー楽しい」
……本当に楽しそうに笑うヒトだな。
見ているとこちらまでも楽しくなってくるような笑い方。茜に似ているな、と志織は思った。彼女も彼と同じく花が開くように、周りの雰囲気がぱあっと明るくなるように笑う。そんな彼女のことを志織は羨ましく思っていた。妬ましいとか、そんな鬱々とした想いではない。彼女の隣で自分も笑えることがとても誇らしいのだ。
志織は中学まで友人関係でうまくいった試しがなかった。それまでの自分は思ったままに、それがたとえ人の傷つく言葉だとわかっていても口に出して人の心を傷つけていた。茜と違うのは彼女はすぐに謝ることができるところだ。ごめん、言い過ぎたと。今のは自分が言えることではなかったと。素直に自らの非を認めることが彼女はできるのだ。当たり前のようで全然当たり前のことではない。大人でも為しえるのが難しい行為を彼女はすることができる。
高校一年のとき、志織は変わりたいと願った。中学のときのような後悔はしたくない。そうやってびくびくして臨んだ入学式の日に偶然隣の席になった茜に声をかけられて、どれだけ志織が嬉しかったか声をかけた茜自身はまだ知らない。その日の夜、学校であった出来事を食卓で両親に話したのも本当に久しぶりのことだった。おそらく志織の表情も和らいでいたのだろう。娘の話を聞く彼らの嬉しそうな顔を志織は未だに憶えている。
相手のことをなんでもわかったつもりでいても、その人が見せていない部分というのはまだまだたくさんあるものだ。知りたいと思っても、どこまでが踏み入れてもいい範囲なのか。どこに境界線はあるのか。人と人との付き合いにおいて、十八になる志織には捉えかねる問題だった。
そしてそれは、幽霊である彼にも通じる。
「先輩は」
「ん?」
「……なんでもないです」
「またそれかい」
訊けなかった。彼がここで過ごした年月をこうも簡単に問うてはいけないような気がした。いや、本当は怖くて訊けなかったのだ。返された答えに自分はどのような反応を示せばいいのかも、それにどう答えればいいのかもわからなかった。
先輩も深くは追求しなかった。志織が自分から言い出すのを待つつもりなのだろう。だが志織はいつまで経っても口を再び開こうとはしなかった。
私にはまだわからない。
このとき彼に尋ねなかったことを、後悔しているのかという問いに対する答えが。
だが彼と過ごした一夏の日々を、
私は決して忘れないだろう。
先輩。
ねえ、先輩。
聞こえますか。
私の声が、届いていますか。




