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夏の旅人  作者: NiKO
14/14

夏空





 夏が来たら、海に行きたいね。

 そんな何かの歌詞みたいなセリフを、入学式のとき、先輩は爽やかな顔をして志織に言った。彼の中でその計画は着々と進んでいたようで、志織の知らないうちに彼女の予定を周囲に確認し、いつの間にか親の承認も得て、夏休み二日目には志織は船の上で揺られていた。どこに行くのかと問うと、母親の実家だと返ってきた。せっかく海に行くなら、きれいな海を志織に見せたい、と先輩は事もなげに言ってのけた。そして祖母に元気になった姿を見せたい、とも。彼の祖父は彼が産まれてすぐに亡くなったそうだが、祖母の記憶は物心ついた頃からちゃんと自分の中に残っているのだと先輩は志織に話してくれた。足が悪いのを押して、彼女は何度も先輩を見舞いに来てくれていたらしい。

 慣れない船の動きに志織は何度か酔いそうになったが、先輩は志織の隣で平然と本を読んでいた。海も時化てはいないため、こんな揺れは軽いほうだと彼は言った。冬の天気が悪い時期なんかは船体が揺れに揺れるらしく、「バイキングに乗っとったがまだマシ」とその様子を遊園地のアトラクションと比較して説明され、志織はもっと自分の顔が青ざめていくのを感じた。

 港を出て一時間ほどで着いたところは志織にとっては名前しか知らない日本海に浮かぶ島だった。歴史の古い島であると日本史で習ったことはあるけれど、まさか自分が訪れることになるとは思ってもみなかった。

 船から降りて乗船券を係の人に渡したとき、そのチケットの手配もすべて先輩がしてくれていたことをふと思い出す。志織はそれがいくらするのかも知らないし、訊いても彼は「そこまでせんやったよ」と言って教えてくれなかった。大学一年という同級生であるはずなのに、彼と過ごすようになって至るところで年の差を意識させられる。甘やかされて調子に乗らないように、どれだけ志織が苦労しているかわかってるんだろうか。

 港に足をつけてほどなくして、出迎えに来た人たちが「○○レンタカー」「△△様ご一行」などと書かれたボードを掲げている中に、こちらに向かって手を振っている人影を見つけた。先輩が「よっちゃん」と呼ぶ彼女は、民宿を経営している彼の伯母だそうだ。

 彼女の運転する車の中でお互いのことを紹介し終えて五分ほど経過したとき、木目の見える厚い木の板に墨字で『よっちゃん』と書かれた看板が志織の視界に入ってきた。民宿の名前を自分の名前にしているところにもだが、彼女の言葉をなかなか聞き取ることができない自分にも志織は驚いていた。方言には日頃から染まっているはずなのに、島の言葉はこれほどまでに訛っているのか。先輩が「俺もばあちゃんと電話で話すときは半分もわかっとらんよ」と車を降りるときに笑いながら言った。

「ばあちゃんは今どこおると?」

「下ん畑に出とらすよ」

 「行こっか」と先輩が志織の手を自然にとる。今さっき車で抜けた雑木林を通り、舗装された道に出ると、道を挟んだ先には一面に段々畑が広がっていて、それを上から見下ろすという経験は志織にとって初めてのことだった。

 その中で何かもぞもぞ動く茶色いモノがあり、「ばあちゃーん!」と突然先輩が大きな声を上げて手を振った。声が届いたのか彼の祖母が「よう来たねえ」と声を張り、孫に手を振り返す。一瞬彼女が猿のように見えてしまったことは、一生胸の中に留めておこうと志織は思った。

 来た道を戻ると、既に乗ってきた車は駐車場にぴったりと収められていた。民宿の入口と思われる引き戸をガラッと引いて「おはよーございまーす」と慣れた様子で先輩が入っていく。田舎って本当に鍵を掛ける習慣がないんだ、というか鍵穴自体がそもそもないという事実にびっくりしながらも志織は先輩のあとに続いて「お邪魔します」とか細い声を出した。

「あらあ、あーたソウちゃんかねえ。いい男になってえ」

「コウちゃんも元気しとう?」

「いつまでおれるんない?」

「かわいか嫁さん連れてからあ。もう結婚の日ぃは決まっちょうとで」

「かぁっぺこしゃあくなしりくそつけんごちしちょけよ」

 話が錯綜していて、いったいどこから手をつけていいのかわからない。とりあえずコウちゃんというのは、先輩のお兄さんのことだろう。この民宿の従業員さんなのか、はたまた近所の人たちが話をしに集まっているだけなのか。食堂と思しき座敷に進むと五人ほどのお年寄りが座って寄合を開いていた。最後のおじいさんが笑いながら発した言葉は志織にはまったく以て理解できなかった。先輩は「明日には帰るっちゃん」と言ったあと、「ゼンじいは相変わらず厳しいな」と苦笑した。先輩には彼が何と言ったか理解できたらしい。あとで志織が通訳を頼むと、「きれいな言葉でどう説明すればいいんかようわからんけど……、『小癪なやつだな。あんま調子乗んなよ』って感じ?」と困ったように先輩は笑った。

「ソウちゃん、最初は海ん行くとやろ? お弁当用意しとうけん、持っていきなあね」

 バスケットの中にお弁当やクーラーボックスを入れていく伯母に先輩が「よっちゃんありがとね」と返す。そのあと「志織こっち来て」と言われ、促されるまま彼についていって通されたところは、サッパリと片づけられた誰かの部屋だった。ジョニー・デップのポスターが壁に貼られてあるので、女性の部屋だろうかとひとりで勝手に思う。

「ここで水着に着替えてきぃ」

「え、もうですか?」

「こっちで着て、海に行ってから上に着たもん脱ぐんよ」

「あ、そうなんですか」

「志織どんな水着持ってきたと?」

 「え」と志織が顔を強張らせる。先輩は特に何も気にしていない様子で「ん?」と首を傾げた。いま正にバッグの中から取り出すつもりだった水着を先輩におずおずと見せる。茜に相談して二人で一生懸命悩んだ末に用意した水着は一応ビキニであったのだが、返ってきた彼の反応は志織が予想していたものとはまったく異なっていた。

「そんなかっこで泳ぐのって観光客だけやない? 日焼けもするし、水着の上にいらんTシャツと短パン着て泳いだが身のためよ」

 先輩から「これイトコが置いてったのやけ、好きに使って」と、箪笥から引っ張り出してきた服の上下を渡され、志織は「はあ」と気の抜けた返事をした。なんだか拍子抜けだった。別に水着に興味をもってほしいわけではないけれど、女としてはもたれなさすぎるのも些か悔しいような寂しいような気がする。もう男子高生ではないから、そういったピークは過ぎたということだろうか。だがシュノーケルを海に行く前から首に下げ、ウキウキと浮き輪を膨らませる姿を見ていると彼がただの小学生のように思えてくる。

 着替え終わった先輩の格好は半袖のパーカーを上裸に羽織って、下は海水パンツという出で立ちだった。たぶん少しドキドキしているのは志織だけなのだろう。先輩の水着は志織のと同じ藍色をしていた。志織のビキニは小さな白いドットが散りばめられていて、首の後ろで結ぶタイプである。中のパッドは何だかアイドルみたいに谷間を狙ったように見えるのが嫌になって、すぐに取り外した。茜に、もったいないからちょうだいと言われたが、いったい何に応用するつもりなのだろう。民宿からビーサンを借りて、いざ出発。なんと歩いて行けるところにビーチはあるらしい。

 先ほどの舗装された道を、車で来たほうとは逆のほうへ下っていくと、だんだん海が視界に入ってきた。きらきらと太陽の光を反射していて眩しいくらい。海の匂いが風に乗って、しだいに濃くなってくる。

 観光客に向けてはあまり開かれていない場所なのか、泳いでいると思われるのは地元の子どもたちばかりだった。なるほど。確かにみんなTシャツを着て泳いでいる。先輩がイトコに教えてもらったという磯近くの小さな砂浜には、人がまったくいなかった。岩場に荷物を置いて浜に直接足をつけると、砂の熱さに志織はびっくりした。白くて、さらさらしていて、所々にカニの巣穴が見え隠れしている。

(私ほんとに、海に来たんだ)

 実は海に入ったのが始めてであることを告げると、先輩に得体の知れない何かを見るような目で見られた。「え、日本人よね」と確かめられ、「川なら、あります」と志織がムッとして返す。だって祖父母の家は海と反対方向にあったし、夏の海水浴場はどこも人が多く、きれいとは言いがたい海には入る気も起きなかった。こんなにきれいなのに人の()いたビーチがあるのか、と志織は驚きを隠せない。 

「志織ぃ、サザエおったよー。あとでよっちゃんに刺身んしてもらお」

 先輩が磯を散策して、「とったどー」と志織にサザエを掲げて見せてくる。こんな短時間でサザエって見つけられるものなのだろうか。

「壺焼きじゃなくて?」

「俺は刺身にするほうが好きやなあ」

 どちらにせよ食べたことがない、と言えばまた憐憫の眼差しを向けられそうだったので志織は黙っていた。

 シャチ型の浮き輪を使って遊んだり、大きな浮き輪に二人で入ったり、磯から遠いほうの浜までゆっくり泳いだり、思い思いに海を満喫して、ちょうどお腹が減ってきたところで「飯食おっか」と先輩が言った。

 少し坂になった岩場に座り、よっちゃんがバスケットの中に用意してくれた昼食をとる。太巻きやサンドイッチが敷き詰められた弁当箱、その下に備え付けられたクーラーボックスにはジュースまで入っていて、至れり尽くせりだなと志織は思った。濡れていた躰はすぐに乾いていき、海水のせいか髪の毛がパサパサしている。志織はあまり日焼けしすぎないように、持ってきたタオルを腕にかけて直射日光を遮った。でも海風のおかげなのか、こんなに空は晴れているのに暑いとは感じない。涼しくて、心地よい。ふと一年前の自分を思い出して、志織は笑った。先輩とのこんな未来が待っていたなんて、あのときは思いもしなかったからだ。

「やっとここまで肥えたけど、まだまだやなあ。俺、まだまだ骨皮くんやわ。スネちゃまやわ」

 先輩が自身の左腕を触りながら、悲しそうに息をついた。ここから離れた浜辺のほうで、地元の高校生と思われる少年たちが日に焼けて鍛え抜いた躰を惜しみなく晒しているのがちらほらと見える。彼らに比べると色も白く線も細い先輩は「俺も高校んときは……」と何やらごにょごにょと言葉を濁した。

「ホネカワくん? スネ夫の名字のホネカワだったら、カワは皮膚の()じゃないですよ」

 「流れるほうの川です」と志織が言うと、先輩が感心したように口笛を吹いた。

「へー、そやったん。志織よう知っとうね」

「別に、ふつうですよ」

 入院していたときの先輩を知っている志織の目には、彼の腕や脚には既に十分筋肉がついているように見える。しかし確かに先輩の左脚は右よりも少し細い。リハビリの筋力測定のときに音声を発する測定機器から「がんばって! がんばって!」と励まされるのがつらい、と前に先輩がぽつりとこぼしていたのを志織は思い出した。

「まあ、ぶつかったんが右の頭でよかったって思うしかないわな。左やったら、右利きの俺にはもろ影響あったやろうし。今こうして喋ることもできんくなっとったかもしれん」

「……そう、でしたか」

 先輩は高校を卒業して一週間ほど経った合格発表の日、事故に遭ったそうだ。胴体への外傷は奇跡的にほとんどなかったが、頭を強く打っていたところが致命傷になったらしい。今でもそのときの傷跡が、ふとした瞬間に見えることがある。

「――話すのと右利きは、どう関係があるんですか」

「右利きやったらほとんどの人の言語中枢が左脳にあるけんね。……ま、目ぇ()かんのもゾロみたいでかっこよかろ?」

 先輩の左目は事故の後遺症のためか、あれからずっと閉じたままだった。だが視力が落ちているというわけではなく、自然回復を望める可能性もあるということで一年様子を見ていたそうだが、結局先輩は夏休みの間に手術を受けることになった。そんなに難しい手術じゃない、と笑う彼を見て、深刻なことをなんでもないことのように軽く言うクセは残っているみたいだ、と志織は思った。これ以上瞼の開かない期間が続けば失明の危険性が高まってくる。左半身の麻痺も完全になくなったわけじゃない。今でもリハビリを続ける先輩の姿を見て、自分は少しでも彼の力になれているのか志織は不安を拭えなかった。でも、いま自分のやるべきことは彼の隣で暗い顔して過ごすことよりも、笑っていることなのだと志織はわかっていた。

「……先輩みたいな人がお医者さんだったら、患者さんも安心するでしょうね。それに、先輩の性格に、合ってると思います」

 彼の幼い頃からの夢が医師になることと知っていた志織は、彼が医学部に合格したと聞いたとき、自分のことのように嬉しかったのを憶えている。それに、先輩には患者の気持ちが痛いほどわかるだろう。彼曰く、夜中に見回りに来た看護師が本当に天使のように見えてくるそうだ。恥ずかしさや申し訳なさよりも、感謝の気持ちが湧いてくるのだという。きれいな部分だけでなくその裏を知っている彼には天職といえるのではないか。先のことなど誰にもわからないけれど、何か確信をもってそう言うことができる。

「俺の性格に合っとるって?」

 志織の言葉をよく理解できなかったのか先輩が首を捻った。

「えっと、……先輩は、人に共感はするけど、同情はしないでしょう?」

「なんか俺がすっげえ冷たい人間に聞こえるっちゃけど」

「違いますよ。人と自分との距離をどうとるか、という問題です。……私はそれを見誤って、何度も人を傷つけてしまいましたから」

 なんで、志織に、そんなことまで言われなくちゃいけないの。

 泣きながら訴える彼女の目が今でも志織を責め続けてくる。中学生のとき、志織は彼女のことを唯一無二の親友だと思っていた。なんでも言い合える、トモダチだと。でも、本当に大切にせねばならない人を、志織は無下に扱った。傷つかない人間なんか、いるはずないのに。いつも笑っていた彼女に甘えて、志織は心無い言葉を吐いた。当然、志織の味方になってくれる人は一人もおらず、誰も志織に関わろうとしなかった。ほんの些細なことで終わった関係。それから彼女と話したことは一度もない。

「人を傷つけたことない人間とか、おらんと俺は思うけどね」

「いないとしても、先輩は、私ほど多くないはずです」

「でも、自分でそれがわかっとるってことは、傷つけられた痛みも志織は知っとるってことやろ?」

 なんで、そう言ってくれるんだろう。

 自身の奥底に沈んでいたモノが、少しだけ軽くなったような気がする。

 思い出したくないことは、たくさんあるのだ。

 ごめんね。って今だったら言えるのに。とか。

「――誰かからも同じようなこと言われた気ぃするんよね」

 「人に興味ないとか、人のことはどうでもいいとか」と先輩が太巻きを咀嚼しながらぶつぶつと呟く。私そこまで言ってないけどな、と思いつつ、志織もバスケットの中の太巻きに手を伸ばした。

「……かっちゃんか?」

「あ、私、あの人けっこうタイプなんです」

「え! それ初耳なんやけど」

 春休み、リハビリに励む先輩を離れたところから見守っているとき、志織は偶然彼に会った。「シオリちゃん? 俺、ソウの幼馴染みの『かっちゃん』です」と気さくに志織に話しかけてきた彼を見て、この人モテるだろうなあ、と志織はひとり思った。M大薬学部に現役で合格して、なおかつこの容姿にこの身長。女子の皆様がこんな優良物件を放っておくはずがない。でも性格に難あり、といったところだろうか。何となく、腹黒そう。という志織の推測はさほど間違ってもいなかった。先輩と話す彼は普通の口が悪いお兄ちゃんだった。でもそんな二人を見て、彼らが共に過ごしてきた年月も感じられ、志織は羨ましくもなった。いつか茜とも、こんなふうになれたらいいな。なれてるといいな。口には出さないけれど、ささやかに志織は願った。

「なんか、初恋の人に似てるんですよね」

「それも初耳なんやけど」

「言ってませんもん」

 なんでそんな顔されなきゃいけないんだろう。先輩の初恋が自分じゃないだろうことも志織は何となくわかっている。先輩は、「ま、いっけど」と言ってクーラーボックスからコーラを取り出し、ぷしゅっといわせながらペットボトルの蓋を開けた。

「でも、そのかっちゃんにさ、志織のおらんとこで『お前、変わったな』って言われたっちゃんね。『前はもっと自分のことばっかやったのに』って」

「……私、先輩が人のことをどうでもいいと思っているように感じたことはありませんよ?」

 確かに少し淡泊なところはあるかもしれないが、先輩は志織の話をいつも親身になって聞いてくれるし、志織の背中を押してくれる。でも、がんばれ、と先輩に言われたことはない。がんばろうね、と自分も同じ気持ちでいることを彼は示してくれる。それが本当に心強くて、とても嬉しいのだ。しかし志織はそれが自分にだけ向けられるものであるとは知らなかった。

「じゃ、志織のおかげかいな」

「……私は何もしてませんが」

「人は自分が意識しとらんところで誰かを変えたり、助けたりしよるんかもね」

 それを言うなら、先輩のことだ。と志織は思わずにはいられない。今だって、さっきだって、先輩の言葉は志織を救ってくれた。これからも、きっとそうなのだろう。いつだって、自分が言いたいことを言っただけだから気にしなくていい、と先輩は言う。彼にとっては本当にそうなのだろうが、意識せずとも志織の支えになってくれている彼に、志織はいつも、ありがとうございます、と言いたくて、でも何だか気恥ずかしくて言えなかった。

「そいえばさ、志織って俺のこといつまで『先輩』って呼ぶん。あと敬語も」

 「ちょっとよそよそしい感じが、しないでもない」と、ぱちぱち瞬きする志織を見て、先輩が口を尖らせる。

「だって、……先輩は、先輩ですから」

「でも学年的には同級生やんか」

「学部も違いますし、別にいいじゃないですか」

「名前で呼んでみてよ」

「やです恥ずかしい」

 バカップルか、とひとり者が聞いたら毒づきたくなるような会話。しかし先輩との間に好き、とか、付き合う、とかそんな言葉は今まで一切なかった。でもお互いがお互いの気持ちをわかっていたし、友だちに「彼氏?」と訊かれたら「そうかもしれない」と返す。そんな曖昧で、でも決して脆くはないと思える関係。

 電話はあまりしない。先輩も志織も、電話がそこまで好きではないから。かといってメッセージを送り合うのもそんなに頻繁ではない。冷めた間柄と思われるかもしれないけれど、不思議と不安にもならない。だって会えば先輩は人目を憚ることなく「志織!」と呼んで手を振ってくれるし、二人の時間が合ったときには一緒に帰ろうと誘ってくれるからだ。前期の試験期間は二人で一緒に勉強もした。先輩の教え方は本当にわかりやすくて、塾や家庭教師のバイトもしている彼にタダで教えてもらうのが申し訳なくなるほどだった。先輩に対する尊敬の想いは、彼を知るたびにどんどん積もっていく。

「医学部は、どんな感じですか」

 少し彼の周りのことが気になって、志織がオレンジジュースを手に取りながら尋ねる。そのとき自分は炭酸が飲めないということを先輩はあらかじめ言ってくれていたのかもしれない、と今になって志織は気づいた。

「眼鏡率が高い」

「……それだけ?」

「ぽやーっとした可愛い感じの子もおる」

「もういいです」

 嘘だ。一瞬で不安になった。

「どうしたん」

「なんでもないです」

 勉強もできて顔も可愛くて性格もよさそうな子に立ち向かう(すべ)を誰か教えてくれないだろうか。今は志織と同じキャンパスに通っている先輩だが、二年次からは別のキャンパスに通うことになる。もう今のようにキャンパス内で偶然会うこともないのだと思うと、不安は余計に広がっていく。ペットボトルの中身が半分になるくらいまで一気にジュースを呷る志織を見て、先輩が笑った。

「志織のほうがずっと可愛いよ」

 鼻からジュースが出そうになり、寸前のところでそれを回避してゲホゲホッとむせ返る。

「な、何を仰いますか」

「俺、ウソは言わんもーん」

 先輩は本当にタチが悪い。ほんっとうにタチが悪い。こうして不意に志織を「可愛い」と言ったり、街中でも平気でキスしてきたりする。志織が嫌と思っていないことを知ってやっているところをタチが悪いというのだ。

「……すみません嫉妬深くて」

 もう、自分の性格のほうがほとほと嫌になってくる。先輩が大学生男女の出会いの場となるサークル活動に一つも参加していないことが、どれほど志織を安心させているか彼は知らないのだろう。でも彼のバイト先に関することまでは志織もよくわかっていない。噂ではこの前、高校生に告白されていたとか、小学生からプロポーズされて困っていただとか。先輩から直接聞いたわけでもないのに、彼と同じバイト先に勤める長谷川が流した情報を、茜を通して志織は知っていた。というか茜が面白半分で訊いてもいないのに志織に話してくるのだ。彼もそんなスパイまがいのことをさせられて少々気の毒に思う。茜と長谷川は同じ学部でもあるため、彼女に詰め寄られたら彼も逃げ場がないのだろう。色々後悔していないといいが。

「そんぐらいで嫉妬深いとか言いよったら、世の中に溢れとる嫉妬の大半は刃傷沙汰になるやろうね」

 志織の言葉を冷静に分析するあたり、先輩らしい。論理的に物事を組み立てて話す先輩が志織の前で感情論に走ったことはないし、感情を荒げたこともない。志織ばかりが彼のことを知らないようで何だか面白くなかった。

 先輩がサンドイッチを、ど、れ、に、し、よ、う、か、な、と選び、具が卵のを手にしながら「それに」と少し抑えたような声を発する。

「俺もめっちゃ嫉妬深いよ?」

 志織が、信じられない、とでも言うように目を細めながら首を振った。

「ウソだ。全然そんなふうには見えません」

「ガチって」

「たとえば? 今までにそんなことありました?」

「ん? たとえばねえ」

 志織の知る限り、そんな場面に出くわしたことは一度もない。志織が高校の同級生(男)と話しているときに先輩を見かけても、彼は志織に話しかけないまま、にこっと笑って何事もなかったかのように立ち去ってしまうからだ。それが逆の場合、志織は先輩に話しかけるとまではいかないが、彼が自分に気づいてくれるまで先輩の視界をちょろちょろとうろついてしまう。

 やきもちをやいてほしいわけではないけれど、少しだけ寂しい。先輩の答えを待っているあいだ、さっき、かっちゃんをタイプだと言ったことでも持ち出されるのか、と考えていた志織にとって、先輩の次の発言は完全に不意打ちであった。

「志織のファーストキス奪ったやつぶん殴りたい、とか?」

 聞き間違いかと一瞬思った志織は、ニヒルな笑みを浮かべる先輩を見て、自身の背すじが凍っていくような心地がした。 

「……な、んで、そんなこと」

「野生の勘ってやつ?」

 否めない。

「かっちゃん似の? 年上男子……。志織のお姉さんの、トモダチってとこやな。いや、元カレか?」

 当たりすぎてこわい。

 ――確かに、先輩が言ったように、ファーストキスは中学生のときに済ませていた。いや、してもらったと言うべきか。当時、憧れていた人に。

 若気の至りだったのだ。できればあの頃の調子に乗った自分は思い出したくない。

「いいもん。志織の処女は俺がもらうし」

 そう言って先輩は、サンドイッチを食べて汚れた手を舐め、志織を見て扇情的に笑った。志織はというと何も言えずに固まり、危うくペットボトルの蓋を海に落とすところだった。「よし。まだまだ泳ぐぞ」と先輩が立ち上がって、海の中にざぶざぶと入っていく。すると彼は「志織のDカップは俺のもんやー」といきなり海賊王におれはなるポーズで叫びだした。

「先輩ッ!」

 だから、なんでわかるの! とは口が裂けても言えなかった。

 全然ピークじゃん水着通り越して関心は中身か! と憤然としながら志織も海に入り、潜って逃げる先輩のシュノーケルを目指して彼をクロールで追いかける。最接近して、なんの躊躇いもなくシュノーケルの管に指を突っ込んだ途端、ぶくぶくと泡が海面に発生し、先輩が、ぶはっと息を吐き出しながら浮き上がってきた。

「殺す気か!」

「生きておられましたか」

 志織が、つーんとして、そっぽを向く。しかし、さっきの先輩の目を思い出してしまった志織は彼と近くで顔を合わせるという普段は何でもないことが急に恥ずかしくなり、再び猛スピードで砂浜に泳いで戻った。「志織、ごめんって」と先輩が謝るのも志織の耳には届かない。

 砂浜に上がった志織は先輩に背を向けたまま座り込んで、ひとり黙々と砂の山を作り始めた。ふんだ。こうなったら童心に返って砂遊びに徹してやる。いつもそうだ。先輩が怒ったところを志織は見たことがない。その姿を見せてくれないのかまではわからないけれど、志織が悪くても先に謝るのはいつも先輩のほうだ。大人の余裕というやつなのだろうか。

「志織! これキャッチして!」

 砂山がやっと山の形になってきたところで先輩から声をかけられる。振り向いた志織の手元に落ちてきたのは、石のような、あまりきれいとは思えないものだった。

 なにこれ。貝殻?

 しかし志織が先輩の投げた暗い色の貝殻を手に置いて見ていると、突然にょきっと貝の中から何かが顔を出した。

「ひぃっ」

 ヤドカリ!?

 手に感じた何とも言えない感触と予測しえなかった宿主の出現に驚き、志織は咄嗟にヤドカリを海に投げ込んでしまった。鋭角で海に叩きつけられたヤドカリに、ごめんなさいと申し訳なく思う一方で、腹を抱えて大笑いする先輩を見て、志織は、ただただ悔しかった。ヤドカリなんて図鑑でしか見たことがなかったし、こんな海の中に普通にいるものだとは思わなかった。海に着いたとき、岩陰いっぱいに潜んでそこらじゅうを蠢くフナムシの大群に志織が「ゴキブリ! 先輩! 大量のゴキブリです!」と叫んで先輩に飛びついたときよりも彼は笑っていた。

「ごめんね。志織も一緒入ろーよ」

 先輩に笑われてぶすっとしていた志織を迎えにきた彼が、持ってきた浮き輪を志織にかぶせ、志織の手を取りながら海に入る。浮き輪についた紐を引いてもらって自分はただ浮かぶだけ、という何とも贅沢に思える時間。こういうことを言わずにしてくれるところがまた、志織の心を高鳴らせた。同時に調子に乗ろうとする自分を戒めるのも忘れない。

「――先輩、人を殴ったことなんか、あるんですか」

 「ぶん殴りたい」などという物騒な言葉が先輩から出てくるとは思ってもみなかった志織は、ふと疑問に思ったことを口にした。

「そりゃ、男なら売られたケンカは買わなやろ」

 普段から飄々としている先輩にそんな男らしい一面があったとは。

 相手は、かっちゃんなんだろうな、と何となく思う。それともかっちゃんと二人で買ったケンカなのだろうか。いずれにせよ、先輩にとって珍しいことに変わりはない。

「殴ったときは、テレビみたいにあんなドカッてかっこいい音出らんもんよ。自分が殴られたときやったら、確かに衝撃はあるけど。音までは聞こえてこんやったわ」

 シュッと拳を突き出して先輩が誰かを殴るような真似事をする。

「先輩よくご存知じゃないですか」

「? もう知っとったみたいな言い方やね」

「私、中学までは空手してたんで」

 先輩が「へ?」と訊き返すように志織を見た。

「まあ、空手は一応、寸止めが基本なんですけど。相手が向かってくるときは、どうしても当たってしまうものなんです。映画やドラマなんか見てると、どうしてもそこんとこ厳しく見ちゃうんですよね。拳がなってないとか、腋が空いてるとか引手が甘いとか」

 拳とグーは一と百ほど違うし、拳頭で突くのを正拳突きというのだ。ただまっすぐに突けばいいってもんじゃない。拳がきちんと作れていないから殴ったときに自分が痛みを感じてしまう。それに腋が空いていたら、そのぶん突きのスピードも鈍くなる。キョリと道のりの違いは小学生でもわかるだろうに。

「姉と一緒に、『今のじゃ相手は倒せないよね』って言ってました」

 先輩に満面の笑みを向ける志織に対し、彼は顔をひくっと引きつらせながら笑った。

「……俺、きみたちのこと、怒らせんようにせなやね」

「大丈夫。そちらから向かってこない限り、寸止めで終わりますので」

 相手が向かってこなくても寸止めで終わらなかった事例もあるということを、志織は素知らぬ顔して先輩には伝えなかった。

「てか志織、泳ぐのも速くない?」

 おや気づかれたか、と志織は浮き輪の端につかまっている先輩を見下ろした。

「一応小学生のときに水泳習ってましたから」

「空手と並行して?」

「はい」

「忙しかったろ?」

「その他にピアノバイオリン英会話合気道も習ってました」

 絶句。の由来ってなんだっけな、と志織は先輩の顔を見て思った。

「だから放課後に友だちと遊んだという記憶が、ないわけではないんですけど……。でも全然後悔してませんよ。母が小さい頃にめいっぱい相手してくれたの、憶えてますから。父と姉は勉強を教えてくれましたし」

 率先して習い事の送り迎えをしてくれたのは母だったし、すべて姉がするのを見て自分もしたいと言って始めたことだったから苦痛でもなかった。逆に渋い顔一つせず決して安くない月謝を払ってくれた両親に感謝している。

「志織なんでもできるやんか」

「その代わり、何かに突出しているわけではないので。できない人に比べたらできるけど、できる人に比べたら、できないんです」

「器用貧乏ってやつ?」

「そんな感じです」

 コンクールで入賞はしても、金賞に輝くことはない。全国大会に出場しても準決勝で敗退して三位になるくらい。市や県の大会では優勝したこともあるけれど、それも昔のこと。自慢できることは何もないのだ。

「なんで? すごいことやん。志織はもっと、自分に自信もっていいのに」

「それを鼻にかけていたから、中学生のときに失敗したんですよ」

 なまじ何でも要領よくできたから中学の間はオール5しかとったことがなかった。でも生徒会に参加するようなマジメな性格でもなく、スカートも姉のお下がりで短かったし通学鞄も姉が改造済みで薄かったため、何かと志織は周囲の目の敵にされていた。そんな彼らのことを志織は、悔しかったら自分を超えてみろ、と見下し、蔑んでいた。臆病な自尊心、というやつだ。志織もあの頃の自分を思い返すと、李徴のように発狂して虎になりたくなってくる。

「女子って妬むもんなー。そゆとこ、男子にはあんまない気がするわ」

 「俺は自分にできんことできるやつ見たら、素直にすげえって思うけど」と先輩が言った。それは先輩が男だからではなく先輩だからですよ、と思ったが志織はあえてそうは言わなかった。志織も含めてみんなあの頃は子どもだったのだろう。彼のように考えることができていたなら、あんなふうにクラスで孤立することもなかったかもしれない。

 太陽が西に傾いて少し経ったころ、志織と先輩が砂浜に戻ると、いつの間にか小さな浜は潮が満ちてきたのかなくなっていた。海がもう帰る時間だよと告げているみたいで何だか寂しい。しかしこんなにはしゃぎ回ったのは本当に久しぶりのことで、志織の躰には既に疲労の波が押し寄せてきている。

 帰りに海の家に備え付けられた古いシャワー室で海水を流し、持ってきた着替えを身に付けているとき、突然志織の足下にアシダカ軍曹が降ってきた。危うく叫びそうになるのをすんでのところで(こら)える。でかいってもんじゃない。顔の大きさは軽くありそうな、キングサイズ。これが頭の上に落ちてこなくて本当によかった、と志織は心臓をバクバクさせながら息を呑んだ。イナカコワいイナカコワい。呪文のように口で呟いていると、何だか無性に心細くなり、早く先輩の顔を見たくなってしょうがなかった。急いで着替えを済ませて、最後に忘れ物がないか目を光らせる。海にはぜひとも何度だって来たいが、このシャワー室にだけは戻りたくない。

「そのタオル、まだ使いよるんやね」

 志織が猫のキャラクタータオルで髪を拭きながらシャワー室を出ると、既にシャワーを浴び終えて小ざっぱりした先輩が使った浮き輪類をしぼませてくれていた。

「憶えて、ましたか」

「うん」

 ときどき、先輩はあの部屋での出来事を志織に話してくる。ちゃんと憶えてるよ、と言うように。ぽつり、ぽつりと。志織が不安にならないように言っているのかまではわからない。ただ、嬉しかった。もう一人で抱え込まなくてもいいのだと思うと。奇跡のような、何にも代えがたい、あの時間(とき)のことを。

 ビーチを出て、朝に下ってきた坂を上り終え、ふうと息をつき、眼下に広がる海を一望する。一瞬、虫たちの音も聞こえなくなって、風の音だけが二人を包んだ。山があって、海があって。木々の緑と海の青と砂の白が折り重なって見え、至極美しい。今日一日過ごしただけで、志織はこの島が好きになった。

 また、来れたらいいですね、と志織が言うと、先輩は、そのつもりやったけど、とそっけなく返して、志織の手を握った。

 毎年、夏が来たら、海に行きましょう。

 そして、あの夏を思い出して、二人で笑いあえたらいいな。

 恥ずかしくて、口に出しては決して言えないけれど、志織は先輩との未来を、扉じゃない、空の向こうに想像して、描いてみた。

 だがそれをしたのは、志織だけじゃなかったようで。

「でもなあ、医者として働けるようになんのはずっと先やけんなあ。志織のこと待たせてしまうかもなあ」

「……なんのことですか」

「え、いま言っていいんだ?」

「けっこうです」

 なんだろう。さっきから負けた気しかしない。負けた気しかしない!

 握っていた先輩の手をべりっとはがして、頬を膨らませながら志織がずんずんと彼の先を行く。待ってよ、と先輩が志織を追いかけるが、志織は頑なに速度を緩めなかった。しかし軽くなら走れるようになっていた先輩にすぐ追いつかれ、「志織っ」と肩をポンと叩かれる。

「ありがとう」

 先輩が「へへ」と照れくさそうに笑った。何がですか、とは訊かない。こんなふうに彼が志織に礼を言うとき、あのときのことを言っているのだと志織もわかっているからだ。あのとき俺に逢ってくれてありがとう、思い出させてくれてありがとう、と先輩は何度でも繰り返す。泣きそうな笑顔ではなく、心からの笑顔で。そんな彼を見ていると、志織のほうが自分でもよくわからないが泣きたくなってくる。

「いつまで言うつもりですか」

「ん? 俺の気が済むまで、かな」

「それっていつですか」

 正直にいえば、もうやめてほしい。嫌、と言うわけではないけれど、素直にこちらこそありがとう、と言えない自分を意識してしまうし、何だか水くさいと志織は思ってしまうからだ。そんなこと言われなくたって、わかってるんだと。彼の信用を得ていないようで、少し気持ちが沈み、志織は足下に視線を落とした。ふと地面に映る先輩の影が動かなくなったので、彼が歩みを止めたことに気づく。


「死ぬまで?」


 その答えに、志織は思わず彼を見上げた。

 何か声を発しようとしても、うまく出すことができなかった。

「志織がおばあちゃんになっても離さんよ、ずっと」

「覚悟しときぃね」と笑って、先輩が志織の額に軽くキスを落とし、「んーッ」と大きく伸びをして再び歩き始めた。「いい天気やなあ」と独りごちて体操めいたものをし始める。志織はその背中を見ながら、沸々と沸き上がってきた感情をどう発散させようか思考を巡らせて、わなわなしていた。ちくしょう。どうせ私が何もできないと思ってるでしょう。恥ずかしさと悔しさで混乱する頭の中で、志織はある結論に辿り着いた。

「宗一」

 突然名を呼ばれたことに驚いたのか、先輩が「え?」と後ろを振り返った。志織が先輩の首元に両腕を伸ばしたのと、彼が少し身を引いたのは同時だった。目いっぱい背伸びして、背の高い彼を自分のほうに引き寄せる。「え、え?」という戸惑いを含んだ声が上から降ってきた。それを呑み込むようにして唇を合わせる。彼の躰がびくっと動いたのが志織にはわかった。先輩の持っていたバスケットが地面に落ちた音を、どこか遠いところで聞いた気がした。

 何度か啄むように角度を変えたあと、志織がリップ音を鳴らしながら唇を離して、にこっと微笑む。

「受けて立ちます」

 初めて自分からした先輩とのキスは、彼と、少しだけ潮の味がした。

 志織が首にかけた手を外したあとも、先輩は口に手を当てて硬直したままだった。

 はあああ、と長い息をついて彼がその場に座り込む。

「覚悟せないかんのは、俺のほうやった」

 赤くなった顔を隠すように自分の顔を両手で覆う先輩を見て、志織は初めてこの人に勝ったと思った。照れると顔が赤くなる体質だったことにも初めて気づく。とても清々しい気分だ。普段見上げている者を上から見下ろすのもまたいい。志織に芽生え始めた嗜虐心のようなものを思う存分くすぐってくる。つむじをぐりぐりして、濡れた髪をわしゃわしゃにしてしまいたい。

 耳まで赤い先輩が何度目かの溜め息をつきながら立ち上がり、自身の顔を見られないようにして志織を抱きしめる。「志織」と耳元で囁くように呼ぶ先輩に志織は「はい」と答えた。

「好いとーよ」

 いま思えば、こんなふうにきちんと声にして彼から気持ちを伝えられたのは初めてかもしれない。その言葉が嬉しくて、志織は自分も胸いっぱいに広がる想いをそのまま口に出した。

「私も好きです」

 もう一度、息を大きく吸い込んで伝える。


「大好きです!」


 彼女の声は彼に届いた。

 その証として彼は彼女の躰を痛いくらいにぎゅっと抱きしめる。

 空がどこまでも晴れ渡った夏の日の午後、

 あの日と同じようで違う色に見える青い、青い空の下で、二人の笑顔が(はじ)けた。









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