13 扉の向こう
中学の卒業式なんて、なんの感慨もなかったのを憶えている。ありふれた卒業ソングを歌いながら泣いている周りの女子たちを十五の志織は冷やかな目で見ていた。そういったところが彼女が周りから敬遠される一因でもあったわけだが、式のあとにひとりで帰路についた志織は、そのときの心境を寂しいというよりは解放されてせいせいしたというような無味乾燥なものとして捉えていた。もう、この土地に住まなくてもいいという安堵だけが志織の胸を占めていた。
高校の卒業式で、志織は初めて、あのとき泣いていた彼女たちの気持ちがわかったような気がした。それでも涙は出なかったのだが、彼女たちは、あのときあの場所にはもう二度と戻れないことを知っていたから、あんなに人目も気にせず泣いていたのかもしれない。楽しかったねって、苦しかったねって、そんな、色々なことを思い出して、でも泣くことでしかその感情を表せなくて、もどかしい想いをしたのだろうか。だから、またねって言って笑いあったのだろうか。
あの頃の自分に戻れたら、私は私になんて言うだろう。なんて言えるだろう。
本気で怒って、本気で怒られる友だちに出逢えたよ。
バスケ部に入って、これ以上ないくらい、楽しくて悔しい想いをしたよ。
大好きな人と、高校生最後の夏を、過ごせたよ。
シャーペンを握れなくなるほど勉強して、座りすぎてお尻にタコができたこととか。いま思えばちょっとしたかわいいことに思えてくる。
卒業式の時点で大学の合格が決まっている者は少数だが、志織の合格発表は式から六日後のことだった。受験番号をパソコンで確認しているときはさすがの志織でも手が震えた。落ちていたら、親に頭下げてもう一年浪人させてもらえるよう頼もう。そんな決意を胸に祈るような気持ちで、既に記憶してしまった自分の受験番号を画面上に見つけたときの感動は、うまく表現することができない。
家族に真っ先にメッセージを送り、茜に電話してお互いの喜びを確認しあった。彼女も学部は違うが志織と同じ大学を志望して合格していた。
『今から学校行くよね?』
「うん」
『じゃ、駅で会おうね』
「ばいばい」と言って電話を切ったあとに、そのまま携帯で電車の時刻を確認し、支度を始める。制服を着ようか私服で行こうか迷ったが、志織はもう最後だからと思い、制服を選んだ。去年、一つ上の先輩たちが卒業式後に合格を報告しに来ていたときも制服を着ていたから、コスプレと言われることもまずないだろう。
ローファーを履き、筆記用具以外特に何も入っていない鞄を持って、玄関を出る。
三月の、少し肌寒くて、でもコートを着る必要はないような陽気のなか、志織は思わず、といった感じで軽くスキップした。こんなに浮かれているのは、いつぶりだろうか。早く茜に会って、今後のことも話したい。春休みに二人でどこか行きたいね、と言ったきり、計画は立てていないままだ。
あ、でも長谷川くんとの仲をジャマしてはいけない。どうしたものか。というか長谷川くんは受かったんだろうかいや彼が落ちるはずはないとは思うけどもまず彼が不合格だったら茜の声があんなに弾むこともないか、とごちゃごちゃ思考が巡っていくのを止めることなく駅のほうへ足を進める途中で、志織はふと立ち止まった。
先輩は、どうだったんだろう。
しだいに彼の笑顔しか思い出せなくなっているのが、もどかしい。
でもまだ、憶えている。
いつか彼のことを思い出さなくなる日が、来るのだろうか。
そんなこともあったねって、笑える日が。
もし先輩も合格していたら、同じ大学に通うことになるのかもしれない。
それとなく、笠木先生に彼のことを訊いてみてもいいだろうか。
個人情報とかの問題で教えてはくれないかもしれないけれど、訊くぐらいは、許される、よね。
志織は、よしと頷き、再び前を向いて歩き始めた。
*
「三浪したとでも思えばいいやんね」
「受かっとった」と宗一が携帯で合格を確認すると、そばに控えていた母親が「おめでとう!」と声を上げて拍手した。「ようがんばったね」と少し涙ぐむ彼女に「まあね」と宗一が照れ隠しにそっけなく返す。
三年回り道して、ようやく自分は大学生になれるのか。
奇跡、なんて言葉はあまり好きじゃない。けれど、またこうして一人のヒトとして人生を送れることが素直に嬉しかった。
「感謝、しとるよ」
宗一が携帯の画面に視線を落としたまま、母親に話しかける。
「今まで、ずっと俺に付き添ってくれて、ありがとう。……いっぱい心配かけて、ごめん。……これからは、母さんの好きなこと、していいよ」
まだリハビリは続けていかねばならないが、足を引きずってでも少しは歩けるようになった。母の手をいつまでも借り続けるわけにはいかない。宗一は自分が事故に遭ってから彼女が仕事を辞めたことを知っていた。
母から何も応答がないことを怪訝に思い、宗一が顔を上げる。彼女は手を口に当てて、信じられないものを見るような目つきで息子のことを見ていた。しかし彼女の頬には涙が伝っていて、「なんで泣くん」と焦ったように宗一は目を泳がせた。
「ばかね。子どもに振り回されるのが、親の仕事なのに」
ほんとばかね、と言って、小さい子にするみたいに彼女が宗一の頭をわしゃわしゃと撫でる。いつもだったら避けているところだったが宗一は今だけはされるがままにしていた。
「それは、知らんやった」
「そうなんよ。親ってそういうもんなんよ」
無償の愛、とでも言うのだろうか。なんの見返りもなく、人は人を愛せるのか。人だけじゃない。これはもう動物の本能なのかもしれない。子孫を残していく、という原始の記憶が親から子へと受け継がれてゆき、人ではそれを言葉を通して伝え遺すことができる。
自分は自分を愛してくれた者たちに何か返すことができるのだろうか。彼らはそんなこと、欠片も望んでいないかもしれない。でも、決して忘れてはならないのだと思う。自分ひとりの力で育ってきたような顔して、周りを平気で見下すやつにはなりたくない。
宗一は母には一生敵わない気がした。
「……大変そう、やね」
「あんたも親になったら、わかるとよ」
「たぶん」と最後に付け加えるあたり彼女らしい、と宗一は思った。親の心、子知らず。本当にその言葉の通りで、親になって初めて、子どもは彼らの気持ちを理解することができるのだろう。
「それはそうと、はよ学校に報告行かなあね」
「ほら、さっさ準備しなさい。車で送っちゃあけん」と母がいそいそと立ち上がって、宗一の肩をポンと軽く叩いた。
「いいよ。ひとりで行ける」
こんなときまで母親を頼るのは何だか気が引ける。宗一としてはハタチを過ぎてまで親の庇護下でのうのうと過ごしていること自体があまり褒められることじゃないと思っていた。そのため、自分はもう大丈夫だから、というメッセージを込めて宗一は母を見上げた。
がしかし。
「――あんたね、またそんなこと言ってから。いい? 合格発表の日やったんよあんときも! わかっとる!? 全ッ然わかっとらんやろ!? もう一回事故らなわからんとね!! ぇえ!?」
「わかっとうよ……」
とは言っても何が母の逆鱗に触れてしまったのか宗一はよくわからなかった。彼女の怒号に気圧されながら、ぼそっと「電話じゃダメなん」と呟く。母に送ってもらうぐらいなら、家から出ずに電話で済ませたほうがまだマシな気がした。
「なん寝ぼけたこと言いよるん。三年間、森永先生がずっと宗一のこと心配してくれとったの、忘れたわけやないやろうね」
有無を言わせない母の低い声音に、宗一は「……わかりました」と大人しく頷いた。まだまだ言い足りないことがあるのか彼女が再び口を大きく開けたとき、タイミングよく固定電話の着信音が鳴り響いた。ほうっと息をつく。解放の音だと宗一は思った。母が「誰かいな」と言って手早く受話器を取り、にこやかに微笑む。
「はいもしもし眞鍋ですぅ」
どっから出してんだ、っていうようなウグイスボイス。いつも話している声より確実に一オクターブは高いと断言できる。「いえいえそんなあ。ありがとうございますぅ。もうほんっとご心配をおかけしましてぇ」と受話器を片手にお辞儀する母を見て、宗一は相手が誰であるか大方予想できた。その予測通り、「森永先生から」と彼女から受話器を手渡される。
「はい」
『おう眞鍋ぇ。お前、番号あったなあ』
「ありましたね。なかったらどうしようかと思ってました」
『んなこと言ってからくさ、最初から落ちるとは思っとらんやったっちゃろうが。でもなあ、よかったなあほんとに。今日、学校には来るんか?』
「迷ってたところでしたが、この前笠木先生に会ってなかったの、いま思い出しました」
森永の声を聞いて、バスケ部顧問の笠木先生には合格発表のときに会いに行く、と言ってしまっていたのを唐突に思い出した。これはもう行かねばならないパターンなのだろう。母が「お、れ、い。お、れ、い」と口パクでプレッシャーをかけてくるのを横目に見て、宗一は、わかっとるから、と小刻みに何度か頷いた。
『そうかそうか。笠木先生、いま隣おるけどな』
「え」
『まあ、ぼちぼち顔見せに来いよ。気ぃつけてな』
「あ、はい。わざわざ電話ありがとうございます」
きちんと最後に礼を口にした宗一を見て、母親が満足げに笑う。しかし宗一がそのままのジャージ姿で外に出ようとしたら案の定、彼女から怒りの鉄拳が落ちた。渋々と箪笥から数少ない小綺麗な私服を取り出し、それを宗一が一通り身につけ終わったとき。
「そういえば、これ」
「はい」と言って母から渡されたのは、四角に折り畳まれた一枚のルーズリーフだった。開くと自分の顔が描かれており、紙の右上には「先輩へ」と書かれていた。そして、これを描いたと思われる人物の名前も記されてある。
「なんこれ」
「何って知らんの? あんたが入院しとったとき使いよったバッグに入っとったんよ。昨日、部屋掃除したときに見つけたっちゃん」
手提げの、口を閉めるものがない生成りのバッグのことだ。事故に遭う前は、よく通学鞄に入らないものを入れるために使っていたが、その後は宗一の入院セットを入れるものとして使われていたらしい。そういえば入院していたとき、病室に備え付けてあるチェストの横に引っ掛けられていたのを何となく憶えている。
「なんで洗濯物はすぐ出さんかね。いつのパンツよってパンツが一緒に入っとったんやけど」
そのまま部屋にほっぽり出して発酵しかけていたところを、母が発見してくれたらしい。
でも今、宗一は、それどころではなかった。
「その似顔絵あんたそっくりねえ。美術部ん子に描いてもらったと? でも書いとる年が何年かズレとるわね」
紙に書かれてあるのは去年の日付だ。去年の七月三十一日。でもその頃、自分はまだ意識を取り戻していなかったはずだ。
立花志織
ドクン、と宗一の心臓が大きく鼓動する。
たとえばこの、涙の滲んだ痕を見て、何か思い出すことはないのか。
「俺が見えると?」
「あの、あなたは、幽霊なんですか」
「じゃあ、『先輩』で」
「名前、志を織るって書くんやね」
「そのかっこ暑苦しいです」
「俺、どんな顔しとる?」
「そんなこと、ありません」
「でも本は、ただ本でしかない」
「三割増しぐらいで描いてるかもしれませんよ」
「たーまーやー」
「かーぎーやー」
「俺、逃げたんよ」
「生きとるやつら見て、さ」
「彼は最後、目覚めるんです」
「志織、ありがとう」
「ありがとう」
その涙を拭うことも、震える肩を抱きしめることもできない自分にもどかしさを感じたのは。
誰だ?
思い出せ、という確かなメッセージ。
忘れるな。
思い出せ。
お前はどこで生きていた。
思い出せ。
お前はいったい何をしていた。
思い出せ。
あの夏、隣にいてくれたのは。
思い出せ。
忘れるな。
あのとき、涙を必死に堪えていたのは。
誰だ?
「母さん車で送って!」
突然血相を変えて声を上げた宗一に、彼女が目を見開く。
「何よいきなり。さっきまであんなに渋っとったくせに」
「いいけん早く!」
確かに託した。
目覚めたあとの自分を信じて。
でもそんな確証、どこにもなかった。だから約束もできなかった。叶えられない約束に、実現できない未来に彼女を縛る権利も自分にはない。彼女に対して、俺は何も言えなかったんだ。芽生えた想いの名を知っていても。それを伝えることができなかった。
伝えられなかったんだ。
*
卒業式以来訪れていなかった学校に行く道では案外たくさんの同級生とすれ違った。学校へ報告に来た者たちは全員が合格していたようで、不合格だった者たちは後期に向けて勉強を始めているところなのだろう。前期の結果次第で浪人を決める者や私大への進学を決意する者も少なくない。もとから私大志望だった者は、もう二月下旬には合格が決まっていたりしたから卒業式後にわざわざ学校へ足を運ぶこともなかった。
受かったー? うん! はよ家探さないかん。あと家具も。そっか。私は一年だけ寮に入るよ。寮かぁ、寮もいいよね。てか私、今から死ぬ気で自炊覚えな絶対生きてけん。一人暮らしとかやってける気せんっちゃが。大丈夫、なんとかなるってうちの姉ちゃん言ってたよ。ほんとにぃ?
今日こんなふうに他愛ない話を交わしたクラスメイトとも、次に会うのはいったいいつになるのだろう。県外に出る者、長期の休みでしか帰省できないようなところに行ってしまう者。そんな人たちに次会えるとすれば成人式前後の同窓会とかになるのだろうか。もしかしたら、彼らとはもう一生、会うことは叶わないのかもしれない。「ばいばい」と笑顔で志織に別れを告げる彼女たちの心情とは裏腹に、志織はそんな想いで彼らに手を振り返した。
職員室に入ったとき、自分の世話になった先生たちを囲む生徒の中には私服姿の浪人生も何人かいて、志織は無意識に先輩の影を探してしまった。でも彼の姿は当然のように見つからず、浮上していた気持ちが志織の中で少しだけ沈んでいったのを隣に立つ茜に悟られたくなくて、志織は「長谷川くんには会わないの」と唐突に尋ねた。志織の予想通り彼も合格していたことは彼女から聞いていたが、茜は照れ隠しなのか何なのか「別に、そんないっつも会う約束しとうわけやないし」と口を尖らせた。
「あれ? 立花って、眞鍋のこと知っとったっけ」
「風の噂程度に」
志織が笠木先生に合格報告のついでといった感じで、眞鍋宗一のことをあくまでも深い意味でとられないよう尋ねると、彼は「眞鍋も受かったて、さっき電話で言っとりましたな」と横に座る先生に話を振った。そのとき初めて志織は笠木先生の隣の机が国語科の森永先生のものであったことに気づいた。
「……森永先生は、眞鍋、先輩とはどういう、」
「俺は、眞鍋の担任やったとよ」
「そうだったんですか……」
先輩と三つ違いの志織は、このとき初めて彼の学年が教わっていた先生たちが自分の学年も受け持っていたことを知った。森永先生であれば、志織たちの話もきちんと聞いてくれたのだろうな、と彼女は職員室を出たときに思った。
「よかったね、先輩」
「うん」と志織は惜しみない笑顔を向けてくる茜に対して頷いた。
また、先輩に逢えるだろうか。
もう二度と、逢えないわけじゃないんだ。
希望を失ったわけじゃない。
最初に戻るだけなんだ。一から、やり直せる。
まだ、縋りついても、いいのかな。
ムリに忘れようとしなくてもいいんだと思うと、自分の胸がすうっと軽くなっていく心地がした。
「あ、志織、ちょっと図書室寄ってもいい?」
「いいよ。大山先生?」
「うん。お世話になったし、報告しとかなよね」
渡り廊下を通って新館に入りこの緑色のスリッパを履くのも、二次試験前に図書室で勉強したとき以来だった。そしてもう履くことはないのだろうと思うと、胸が詰まるような想いがするのは気のせいじゃない。
この図書室が好きだった。明るくて、静寂な空気のなか、本が眠るところ。誰かの手に渡る日を夢みて、ずっと彼らが待っている場所。新たな出逢いを供してくれる、小さくて、無限で、夢幻に、広大な世界。
――それはね、バベルの図書館だよ
ふと、先輩が夏の日にそう呟いて、その言葉の意味がわからず首を傾げていた自分を、志織は思い出した。
「お待たせ」
司書室で大山先生に合格を報告し終えた茜が、図書室に佇んでいた志織に声をかける。「大山センセに、あたしが受かったって言ったらさ、めっちゃ驚かれたんやけど」と、なぜ驚かれたのかわからない、とでも言いたそうに茜が首を傾げた。彼女の驚きは相応のものであり、茜が受けた学部の二次の配点比率がセンターのそれよりも遙かに大きく、なおかつ試験科目が数学物理化学であったから合格したのだということを知らなければ、茜のあの文系科目の壊滅ぐあいを知っている者からすれば、彼女の合格は正に青天の霹靂であったことだろう。
図書室から出るとき、志織はふと後ろを振り返った。あの本棚が、目線の先で存在を大いに主張していた。あそこに足繁く通っていたのは、もう半年以上も前のことだった。
でも、私は……、ここに来ることはもう、ないと思います
確かに決別の音を聞いたのを憶えている。
でも、あのときの志織は先輩が生きていることを、まだ知らなかった。
そうかしら
志織は初めて、あのときの彼女の笑みを理解することができた。
「ねえ、茜」
「ん?」
「……私、……行っても、いいかな」
どこに、とは言わなくても茜には伝わったらしい。彼女は「おっけー」と言ってにやりと歯を見せながら司書室に引っ込んだあと、また図書室に戻ってきた。
「図書委員長権限で、許す」
茜が資料室の鍵を投げて寄越す。志織は片手でパシッとそれをキャッチしながら「元、でしょ」と笑った。
*
これほど自分の足の遅さに歯噛みしたことはない。
そして彼女が学校にいる、と誰かに伝え聞いたわけでもなかった。
でも、彼女は必ずここにいる、と宗一は確信していた。
逸る心のままに図書室へ続く外階段を駆け上がる。転んで手をコンクリートにつけたときも、前を見る宗一の目に翳りはなかった。
「あ、茜ちゃん!? やったよね? 志織どこおる!?」
図書室に躰を滑り込ませ、真っ先に視界に入ったのは、彼女とともに宗一の存在を疑わなかった茜だった。
彼の姿を呆けた面をして認めた茜が、半ば操られているかのように自身の指先を図書室の奥へゆっくりと向ける。その延長線上に本棚が隠した扉があるのを確かめ、宗一が「ありがと!」と叫んだ。それから五秒ほど経って、彼の背中を「ぇぇええええ!?」という茜の素っ頓狂な声が追いかける。大山先生が「木下さん、どうしたの」と驚きながら司書室から出てきた。
「……ここって、こんな歩きづらかったっけ」
資料室は開いていた。しかし中は一寸先は闇と言えるぐらい暗く、通路も狭い。
「ってぇ!」
中身がぎっしり詰まった段ボールの角で思い切り脛を打つ。
そのとき宗一は隙間から光が漏れ出ている扉を視界の奥に見つけた。
その光を目指し、障害物に幾度も邪魔され、蛇行しながら進んでいく。
ドアノブに掛けた自分の手は、何だかわからないほど熱くなっていた。
扉を開けると同時に大声で彼女の名を呼ぶ。
陽の光が部屋全体を包み、宗一の目が一瞬眩んだとき、
彼女が振り向いた。
*
こんにちは。このたびは『夏の旅人』をお手にとっていただき、ありがとうございます。前作から二十年ほどの時を経ていますが、こうしてもう一度皆さまにお逢いできたこと、本当に嬉しく思います。
最終巻と告げていた『夢幻の旅人』を世に出したとき、今までにないくらいたくさんの読者様からお声を聞かせていただきました。四分の三くらいは、ラストに納得がいかない、何という裏切りか!! といった悲痛な叫びと怒り狂われた感想でしたが。
しかしながら私の中ではすべて書き終えたという実感があり、当時も言っていたように、もうこのシリーズの続きを書く気はなかったのですが、この二十年という月日のなかで、自分の小さかった子どもたちも高校生になり、大学に進学し、社会に出て結婚する、というような歳になって、ふと、この子たちのことを描いてみたい、書いてみたいと強く思うようになりました。
『夢幻の旅人』で、彼は言いました。
「ここがユートピアでもディストピアでもいいさ。
誰にとっても、誰かにとってはそうでありうる。
人はみな、夢の中を生きてるんだ。
互いに繋がりあって、紡ぎあってる。
僕が夢をみて、でも僕自身が誰かの夢であって。
そんなふうにして世界はできている。
きみは、僕のことを、八方美人だとか、自己犠牲も甚だしいとか、色々言ってくれるけど。
でも僕は、僕が僕であるためにやってるつもりだ。
明日もきみに逢えるなんて保証は、どこにもないからね。
今できることを僕はやるよ。
ぜったいに、あきらめない。
出逢うべくして出逢う者たちが、出逢えるように。
その手助けを――」
隣の人にはわからないけれど、本人にとっては人生を左右するような重大な事件が起きている。そんなことが時折あると思います。個々の物語に登場する人物はたくさんいますが、その中で語られるのは、彼らの中の、切り取られたほんの一場面であることを、私たちは往々にして忘れがちです。語られないことのほうが、多いのだと思います。今回は、そのひとかけらを紹介してみました。いかがだったでしょうか。
続きは書かないだろう、とは二度と言いません。
みなさんご存知のように、物語は、終わりませんので。
では、またどこかでお逢いできる日を願って。
よい夢を。
*
またどこかでお逢いできる日を願って。
よい夢を。
あとがきの短い最後の二文を読み終えたとき、そろそろ行こう、と席を立った友人に声をかけられた。
「読み終わった?」
「うん。ちょうど」
「それ、なんて本だっけ」
「この小説ね、二十年ぶりに新刊が出たの。小学生のときに、よく読んでたんだけど」
と言っても自分が読んでいたときにはもうすべて文庫版が刊行されていて、初版が発売されてから十年以上の歳月が過ぎていた。それが今回どうしてだか、再び続きが編まれたらしい。図書室にも注目図書として入荷されていたため、手にとって読んでみた次第だ。
「どんな話?」
「『荒野の旅人』とか、『天空の旅人』とか、まあ他にも色々あったけど、『夢幻の旅人』で最終巻だと思ってたのね。それまでは冒険ファンタジーだったんだけど、今回は、フツーの? いや、でもやっぱファンタジーかな。うん。私たちみたいな高校生の話だったよ。最初あまりに文体とか雰囲気が違いすぎて、びっくりしちゃった」
多少頭がこんがらがりそうになったものの、筆者の言いたいことは要するにそういうことなのだろう。
我々は、物語の中を生き、我々もまた物語である、と。
「へえ、なんかよくわかんないけど面白そう。タイトルは?」
彼女は図書室を出るとき、ふと後ろを振り返った。
彼は、おもむろに席を立った。彼女が今しがた棚に戻した本を手に取る。
「お前、この時期に本読むとか余裕だな」
「こんな時期だからこそ読むんだよ」
「さいで」
呆れたように肩を竦める友人の前に座って、本の表紙を開く。すると血迷った受験生が何を読もうとしているのか気になったらしい友人が、その背表紙を窺おうと首を傾げた。
「なんて本だ? それ」
「ん?」
ふと、入口のほうに目を向ける。
彼女と目が合った。
彼は急いで彼女から視線を外し、紙に印刷された文字の連なりを追い始めた。目の前の友人にその動揺が伝わらないよう、何も気にしていないふうを装って、その本のタイトルを告げる。
彼女も振り返り、小さな笑みを浮かべながら、呟いた。
「――夏の旅人」




