12 ハツコイ
東京に住んでいたとき、志織たち家族はマンションに住んでいた。屋上は庭園になっていて住民にも開放されていたから、志織は夜に星を眺めるため、毎日のように足を運んでいた。
「シリウス、プロキオン、ベテルギウス、……シェダル、カフ……、アルデバラン、エルナト、……カストル、ポルックス、……アルファルド――」
「……見えないな」と目を凝らして、志織は息をついた。吐く息が白い。このまま、柵の向こう側に行って飛び降りたら、一瞬で死ねるだろうかと志織は考えた。あの日から、何度飛び越えようと思っただろう。誰にも必要とされない。こんな自分、いないほうが世界はキレイに回ってくれると思った。いや、いてもいなくても、結局世界は変わらず回り続けるのだ。
「志織ちゃん」
自分のことを、ちゃん付けして呼ぶのは一人しか知らない。
返事をせず、後ろを振り向く。四歳年上の幼馴染みがスウェットにダウンを引っ掛けた姿で手をひらひらさせていた。屋上へのドアが開いた音で彼が来たことはわかっていたが、志織はわざと知らない顔をしていた。このところ、ここでよく遭遇するのは偶然じゃないのだろう。
「……勉強は?」
「息抜き息抜き」
「寒いなー」と言って、志織の隣に並ぶ。「また天体観測?」と訊くので、こくりと頷いた。本当は上でなく下を眺める時間のほうが長いのだけれど。彼がいつ来るかわからないから、ときどき思い出したように、志織は天上の世界へと思いを馳せているのだった。
「もう、やめたい」
何もかも。と志織は呟くように言った。彼が目線を空から志織に移したのを感じる。
「やめたい、もう、やめたい」
「でも、今やめたら、志織ちゃんは、その、先にやめた子と何も変わらないんじゃない?」
一月。空手部には在籍したままだった。後輩たちとは目も合わせていない日々が続く。挨拶をされても、無視してしまう。どうしても心と躰が受けつけなかった。彼女たちと会話することを。逆に、よく何もなかったかのように振る舞えるな、と彼女たちの厚顔無恥さに感心してもいた。だが、それでも部活に出続けているのは。この男のせいでもある。
坂本遼介は志織と同じ棟の二階下に住む高校三年生だ。センター試験を先週受け終え、私大と国公立の二次試験に向けて勉強している最中らしい。志織の姉は私大が第一志望だから、この男とは初めて進路を別にすることになる。小中高と同じ道を歩んできて、どうせなら大学も、というわけにいかなかったのは、単に彼が選択した学部が理系で、姉が文系だったからだ。
遼介は、毎日のように零時を過ぎて部屋を抜け出し、屋上に現れる志織に「学校で何かあったの」ではなく「何があったの」と尋ねた。志織は初め、彼に己の置かれた状況を話すのを躊躇った。なぜなら、とても恥ずかしかったからだ。クラスでも部活でも孤立していること。でもそれは自分が引き起こした現状であること。自分の言動が、誰かを傷つけ続けていたこと。それに心の隅では気づいていたはずだったのに、我を通していたこと――。
あの『円卓会議』から一週間ほど経った日の夜、志織は星よりも遥か遠くに見える地面に視線を落としながら吐露した。しかし彼は何も言わなかった。それに、志織はがっかりしなかったと言えば嘘になる。別に味方になってほしかったんじゃない。ただ彼は、「やめちゃ、ダメだよ」とだけ志織に言った。信じられなかった。もう、部活に出るつもりなんて、さらさらなかったからだ。だが、彼に失望されるのが、怖くて。これ以上誰かの信頼を失うのが、嫌で。志織は、もぬけの殻状態ではあるが、あれからも部活に出続けているのだった。
「二年生、ひとりなんでしょ?」
でももう、つらいのだ。明日が、遠いのだ。なぜ、なぜ、なぜ? 針の筵の中に、居続けなければならない理由は何? きこえるのだ。きこえる気がするのだ。なぜ、まだ続けているのだと。なぜまだ、ここにいるのだと。お前が犯した罪を、忘れたのかと。
「でも、私がいたら、迷惑だから……っ」
「誰が言ったの、それ」
遼介の少し抑えられた声が、志織の涙を一瞬だけ遮る。
だがその後、堰を切ったように彼女の涙は止まらなくなった。
ぶんぶんという音が聞こえてきそうなほど、志織が首を横に振る。
本当は、逃げたくなかった。
でもどこまでも弱い自分が、いつもいつも、甘美な声で誘うのだ。
逃げろ。逃げろ。逃げてしまえ。
お前なんか、いらないよ。
この世界には、必要ないんだよ。と。
しかし誰も志織に辞めろとは一言も言わなかった。でも逃げたかった。躰が拒否して学校のトイレで嘔吐したこともあった。練習中に堪らなくなって、武道場を抜け出し、誰にも見られない校舎裏で嗚咽を漏らしたこともあった。自分は、もっともっと強いと思っていた。こんなの、怖くないと。ひとりになるのなんて、ぜんぜん、へいきだとおもっていたのに。
「……僕が何を言ったって、志織ちゃんの周囲を変えることはできないけど」
遼介は昔から、自分のことを「僕」と言う。それは彼が一人っ子であることに少し関係しているのかもしれない。一人称の形成には兄と姉の有無が大きく関わっているという可能性も否めないからだ。兄が「オレ」と言い出せば、弟もそれを真似して「オレ」を使い始める。姉が「私」を使い始めると、妹はそれまで自分のことを自分の名前で呼んでいたのに、急に大人ぶって「私」と言い出す。志織も昔は自分のことを「しおりね」と言っていたはずなのに、いつの間にか「私ね」といったふうに一人称が変わっていた。それがいつだったか自分でも憶えていないぐらいだ。それほど、姉の言動を目で、耳で追って、真似ていたのだ。
ほとんど無意識のうちに、姉を真似て、でもいつだって姉のようにはうまくいかなかった。どうして彼女はあんなにも器用に、何事もこなせるのだろう。誰からも好かれる人間なんているはずない、と思っていたのに、その権化であるかのような人間が目の前にいる。彼女のことが羨ましかった。妬ましかった。憧れていた。彼女のようになりたかった。でもなれなかった。その限界に気づいたのは、おそらく随分前のことだ。その頃にはもう、可愛くない子どもだな、と自分自身のことを客観視していた。
でも、いつかは。
と、そう、信じていた。信じたかった。こんな自分をわかってくれる誰かが、現れてくれることを。
それが愛未だった。由佳だった。後輩たちだった。それなのに。
一番大切にしなきゃいけない者たちを蔑ろにした。自分の言いたいことだけをぶつけた。当然の報いなのだ。これは。彼女たちが与えてくれたものを、捻じ曲げて、引きちぎって、ばらまいた結果への。
こんなに、毎日飽きもせず涙は出てくるのに、どうして一向に枯れる気配を見せてはくれないのだろう。
もう泣くことに、疲れてしまった。泣くという行為は逃げ道にはならない。ただの発散行為だ。生きていくにはいらない感情表現だ。現に動物たちは悲しさで涙を流すのだろうか。少なくとも志織はそんな場面を見たことがなかった。
「……その後輩のやり口は、卑怯だと思うね。先生も、男子の部長もそうだ。一方の意見しか聞かないで、そんな会議開いて。志織ちゃんの意見なんか、全然通んなかったでしょ」
はっとなって隣に立つ遼介を見上げる。涙で濡れた彼女の頬を、冬の冷たい風が撫でた。
驚いた。
彼が志織の身に実際起こった悲劇のような喜劇、喜劇のような悲劇、劇中劇のように笑えてくるようで、だけれどプレイヤーとしての本人には笑えない、事実に基づいた物語について言及したのは、これが初めてのことだったからだ。
「それに、その場にやめた人間を持ってくるのは、論外だ」
「誰だ。その、男子の部長」と眉を少し顰めて遼介が尋ねる。志織が「……知らないと思うけど」と前置きして部長の名を答えると、意外なことに、それは遼介も知った名前であったらしい。中学までは、私立に通う者以外は徒歩圏内で行ける区立に通うのだから、偶然というには、あまりにもそこらへんに溢れている偶然でもあった。
「ああ。そいつの兄貴も、正義感MAX男だったな」
「悪いやつじゃ、ないんだけどね。僕らの代の、生徒会長」と軽く肩を竦める遼介を見て、そういえば部長も生徒会長に立候補して当選していたな、と彼が終業式の日に壇上で話す姿を無表情で見ていた自分を思い出しながら「……うん」と志織は頷いた。
彼は、彼で、彼なりに、与えられた情報を咀嚼し、吟味・分析した結果、志織を諫め、諭すほうへ回った。
ただ、それだけのことだ。
国の数だけ歴史が存在するように、話す者の数にしたがって、物語は存在する。
どうしたって、人は、自分のいいように物語をつくる。傾向にある。
でもそれは、ひどく普遍的で、誰にも否定できない、もはや本能とも言えるんじゃないか。
だから人は嘘をつくんだよ。だから人は泣くんだよ。だから人は笑うんだよ。
僕たちは、この物語を紡いでいかなくちゃならないから。
「図太い顔して、続けてやんな。その代わり、自分の言動には気をつけなきゃいけないよ。あと、挨拶されたら、きちんと返すこと。無視はよくないね」
ぐさっと、彼の言葉が志織の心臓を突き刺す。人として当たり前のことを、注意された気がした。それができるなら、志織だってしていた。でも、あとに続く彼の言葉に、何も言えなくなった。もう、目の前はぐちゃぐちゃで、洟をすするのに精いっぱいだった。
「変わろうなんて、無理に思わなくていい。そいつらが志織ちゃんに変わることを強要したのは、自分たちを省みようとはしなかったからだ。何で志織ちゃんが厳しく当たったのか、ちゃんと考えたのかな。理由もなく、志織ちゃんが怒るわけないのに」
「――ただね。これは、大人になるにつれて、わかるもんなんだけど」とそこまで言って、遼介は一息つくように夜空を見上げた。その瞳に映るのは、広大な宇宙だった。でも都会の壁に切り取られた狭い滲んだ世界だった。
「世の中には、正論をぶつけられて反感を抱くやつのほうが、よっぽど多いんだ」
「でないと相当な人格者だろうね」と言って、彼は本当に面白そうに笑った。一瞬、その奇妙な姿に目を奪われる。志織は、そんな彼のことをもっとはっきり見たくて、この目に留めておきたくて、引っ張った自身の袖で涙を乱暴に拭った。
おかしいな。四歳しか変わらないはずなのに。四歳も違うからなのか? 高校生で、こんなに物事を達観できるものなのだろうか。
遼介は、ちょっと変わっていた。いや、ちょっとどころではないのかもしれない。どことなく摑めないのだ。志織は彼のことを知っているようで、ほとんど何も知らない気もしてきた。幼馴染みといっても、正直よくわからない。両親どうしが仲のいいわけでもなかった。彼の父親を志織は見たことがなくて、彼の母親にも数えるほどしか会ったことがない。同じマンションに住んでいるといっても、けっこう希薄な関係なのだ。彼と半年ほど付き合っていた惟織ならば、彼のことをもっとちゃんと知っているのだろうか。
「リョウちゃんは、なんで、お姉ちゃんと別れたの?」
「へ?」
志織は、遼介のことをリョウちゃんと呼んでいた。自分でも憶えていないうちからだ。
唐突に場に不似合いな問いを投げかけた志織に心底驚いたのか、ぎょっとした目で遼介が志織を見る。だが、そこにはちゃんと、さっきまで泣きじゃくっていた少女がいて、今の発言が他の誰でもない彼女から発せられていたことに、彼は安心したようだった。
「まあ、色々あって?」
「まだ、お姉ちゃんのこと、好き?」
確か告白したのは遼介のほうからだったのではないか? 詳しくは志織も聞いていないから知らないが、きっとそうなのだろうと思った。なぜなら惟織は、幼馴染みという確固たる関係を崩してまで恋人という不均衡で不安定な関係に至ろうと考える者ではないからだ。だが、あまりにも彼らは志織の目から見ても似合いの男女だった。一対の人形のように感じたことさえある。それなのにどうして、彼らは同じ道を歩まないことを選んだのだろう。
「さあ、どうだろうね」
遼介が宙を仰いで笑った。
好きなんだろうな。と彼の返答を聞いて志織は反射的に思った。なんだか無性にムカムカしてくる。それは志織の中で久しく生まれなかった感情だった。どうせ、子どもの自分には、彼らの心情や思惑なんて、わかるはずないんだ。
志織は咄嗟に、自らに沸き上がった欲望を吐露した。
「キスして」
「は?」
遼介が隣に立つ志織を見下ろす。志織は彼のことを、まっすぐ見上げた。
「お願い」
「え、無理」
「なんで?」
「勘弁してよ……」
即答した遼介に憤慨しながら、「意気地なし」と志織は口の中で毒づいた。しかしそれは彼の耳にもしっかり届いたらしい。「だってさ」と遼介が非難するように目を細めて志織を見る。
「志織ちゃん、初めてでしょ?」
うるさいな。だったらどうした。
「初めてだから、リョウちゃんにしてほしいんだよ」
「こういうのは、ちゃんと好きな人にとっときな」
別に、そんなの気にしないのに。
確かに、遼介を好きかと問われたら、よくわからないと首を傾げる自分もいる。
でも、好きにならないほうがおかしいのだ。
彼と話していて楽しいと思う。彼ともっと一緒にいたいと思う。
それに、遼介のことは昔から知っている。
一目惚れなんかじゃないのだ。これは。決して。
れっきとした、恋なのだ。
そう結論づけた志織だったが、どうも彼が首を縦に振る理由にはならなかったらしい。
「もうお子さまは寝る時間のようですね」
ポケットに入れていた携帯で時刻を確認した遼介が、「さあ帰りましょう」と言って、携帯を志織に対して掲げてみせ、時刻を表示させる。一時を過ぎていた。確かにもうそろそろ戻らないと、明日がきつくなる。それに、自分のことよりも遼介にこれ以上の負担はかけられない。仕方ない。今日のところは諦めてあげましょう。志織は、ちぇっと軽く舌を打って、「うん」と素直に頷いた。
「おやすみ。いい夢みなよ」
それは階下に降りていく彼からいつも言われるセリフだった。だが志織は初めて、その言葉の意味を理解した気がした。
その夜から少し経ってからのことだ。放課後になって、後輩の一人が志織の前に現れた。志織を弾劾した張本人だった。彼女と目を合わせて対峙するのは何か月ぶりだろう。思わず警戒心を隠せなかった志織に、彼女は少し慄いたようだった。しかし彼女は、ぽつりぽつりと今の自身の心境を告白し始めた。その声には涙が入り混じっていて、よく聞き取れなかったというのが本音だが、強気な彼女の涙を見るのはそれが初めてだった。
理解できたのは、どうやら一年生の間でも何かモメゴトがあったらしいこと。みんながもう部は辞めると言っていること。でも自分は続けたいのだと。どうしてそんなに続けたいか尋ねると、「空手が、好きなんです」と返ってきた。志織はそれを聞いて、心の底から驚いた。彼女は、自分にはないものをもっていると感じた。自分は、空手を好きだとは、どうしても思えないからだ。志織にとって空手は、好きとか嫌いとか、そういった次元で済むモノではなかった。躰の奥に染みついた恐怖と戦わねばならない。畏怖の対象だった。なのに、どうしてこの子はそれを好きだと言える?
「楽しかったからです」
先輩と過ごした日々が。と彼女は言った。じゃあ、なんで。そう言いかけた言葉を志織は呑み込んだ。今ここで尋ねても、明確な答えは得られないだろう。そして、知る必要もないと感じた。いや、わかっているはずだ。本当は。志織の後輩たちへの態度に、彼女たちの痺れが切れたのも事実。志織が彼女の行為を叱ったのも事実。その行為は繰り返されたものであったことも事実。だが、志織の言動が目に余るものであったのも事実――。
その日、二人は数か月ぶりに並んで下校した。彼女と何を話して帰ってきたかはよく憶えていない。他愛ない話だったと思う。結局、部員は彼女と二人だけになった。前のように彼女と話せるようになることはないだろう。だが、それでも、お互いがお互いを必要としていたのには変わりなかった。敗者どうしの傷の舐め合いとも思えた関係だったが、彼女と部活動に参加して、汗を流し鍛錬するのは、十四の志織が学校に通う唯一の理由ともなった。
三月になった。今日、遼介はこのマンションを発つ。屋上から彼を見送ろうと思っていた志織は、扉を開けると、彼が既になぜかそこにいたので少なからず驚いた。曰く、けっこうお気に入りの場所だったから、最後に見ておきたかったのだそうだ。
遼介が合格した大学は、ここから徒歩で行くとすれば松尾芭蕉でさえ一月半かかるようなところだった。でもそこは彼の父親が単身で赴任している地でもあるそうで、彼の進学を機に家族そろって住むことになったらしい。そのとき初めて、志織は家族のことを話す遼介を見た。何だか嬉しそうで、だが少し子どもっぽくも見えた。やっと志織の目に彼が年相応の青年に見えたと言っても過言ではなかった。
「そうだ。リョウちゃん。お別れの印しにね」
「非常に嫌な予感がする」
「キスしてほしいんだけど」
「ほらきた」
はあ、と遼介が溜め息をついた。だが今日の志織は、この前の志織とは違う。ダメと言われても安易に引き下がる気は毛頭なかった。それに遼介も気づいたのか、気づいてしまったのか、しょうがないな、とでも言うふうに、「目ぇつぶってな」と少し億劫そうに呟いた。「うん!」と彼の諦念を含んだ声音も気にせず、言われたとおり目を瞑る。
初めてのキスは、全然甘くなかった。
ただ唇と唇が触れただけだ。
これがキスというものなのかと志織は一瞬疑問に思った。なぜならこの感触が彼の唇であるという確証がどこにもなかったからだ。途中で目を開けられるほど、度胸があるわけでもない。確かに彼の匂いと、吐息と、熱は感じた。気がした。だが志織が目を開けたときにはもう、遼介は踵を返して歩き出してしまっていた。
慌てて旅立つ遼介の背に向かって叫ぶ。
「ばいばいリョウちゃん! 元気でね!」
遼介は後ろを振り向かないまま、ひらひらと手を振った。
ばいばい。私の初恋。
それから一年が過ぎた。三年生の夏には、志織は個人で全国大会に出場し、三位に入賞した。道場からもベスト4にまで進んだのは志織だけで、十分快挙だといえた。おそらく、あのとき、あのような経験をしていなければ必死になって練習に打ち込んでもいなかっただろうし、自分を過信して有頂天になったまま結果も残せず、志織の夏は終わっていたことだろう。あれは、起こるべくして、起こったことのようにも思えた。
「そういえばお姉ちゃん、なんでリョウちゃんと別れたの?」
卒業式が午前中のうちに終わって、午後にはもう志織は空港にいた。見送りに来ている姉と思いがけず二人きりになったので、この機会に尋ねてみることにしよう。惟織は突然の妹からの質問に驚いたのか、飲んでいたカフェラテをこぼしそうになった。あまり見ることのない彼女の慌てた様子に口角が上がるのを志織は隠そうとはしなかった。
志織と両親は十四時の便で、新天地へと向かう予定だ。と言っても三日前にも入試を受けに行ったし、既に新居への引っ越しも済ませている。志織の卒業式だけがイベントとして残っていただけだ。高校の合格発表は卒業式の四日後となっていたが、手応えは十分あり、自己採点もまあまあな出来だったので、合否についてはあまり心配もしていない。
「……いきなり、なんなのよ」
「ちょっと、気になってさ」
惟織だけが、この地に残る。だが、彼女も二年からはキャンパスが変わることもあって、どのみち一人暮らしをするのは当初から決まっていたことだった。
遼介の連絡先は、知らない。それは志織が携帯を持っていなかったことにもよるけれど、一応同い年の幼馴染みである惟織でさえ知らないそうだ。知らないなら知らないでいいと考える淡泊な姉妹ではあるが、おそらくそれは、彼の仕業なのではないかとも思えた。訊かせなかったし、自ら言わなかった。不思議なことに、いつもそれに気がつくのは、その場ではなく後になってからだという話だ。
「あいつにはあたしより、いい子がいるよ」
「あんたとかね」と言って、惟織は艶美な笑みを浮かべた。どうやら志織の遼介への想いには気づいていたらしい。だが志織は、姉に知られていたという恥ずかしさよりも、彼女の観察眼に対して素直な感心を抱いた。そして、彼女の中で自分は遼介に見合うような「いい子」に分類されていたらしい。彼女の自分への評価を初めて知って、面映ゆいようなこそばゆいような心地がした。
「だってさ、半年付き合って、何もしてこないんだよ?」
「……何も、してないの?」
「うん。何も。あんな清らかな付き合い初めてだったし」
これがまだハタチにもなっていない者が言うセリフなのだろうか、と志織は思った。しかも、遼介と付き合っていたのは彼女が十八の頃の話だったはずだ。志織は、何かが間違ってる、と思わずにはいられなかった。兄弟姉妹の遺伝子の共有率ってどれくらいだったかな、とぶつぶつ妹が呟いていると、姉が「ま、元気にやってるんじゃない? あいつも」と言って笑った。
「あれ?」
リョウちゃん、お姉ちゃんの他に誰かと付き合ったことないって、言ってたな。そういえば。
飛行機の中で、志織は、ある事実に気がついた。
でも今は、彼女くらい、いるんでしょうけど。
そんな彼とはもう、二度と逢うことはないんだろうな、と何となく思った。
その予感が当たったわけでは決してない。しかし彼は志織が中学を卒業したその日に、帰らぬ人となっていた。この世界から、跡形もなく消えたのだ。
まるで、元から彼の生きた痕跡などなかったとでも言うように。
そして、志織はまだ、そのことを知らないでいる。




