11 トモダチ
二〇〇九年十一月
「なんで四拍子くらいできないの? できないんなら指揮に立候補したりしないでよ。練習してきてって言ったよね? なんでできてないの? てかなんでできないの?」
意味わかんないんだけど。
志織がそう吐き捨てると、愛未は目に涙を溜めながら、震える声で言った。
「なんで、志織に、そんなことまで言われなくちゃいけないの」
「だって、愛未ができないからじゃん。伴奏する身にもなってよ。こっちは指揮見てるのに、だんだんズレてっちゃ、指揮の意味ないじゃん。もう私、愛未に合わせてないよ? 愛未の動き、傍からみたら気持ち悪いんだけど」
なんで泣くわけ。私、間違ったこと言ってる?
志織は目を露骨に眇めて溜め息をついた。本当はこんなこと、志織だって言いたくないのだ。でもここで言っておかねば、ずっと彼女はできないままだ。志織はそんなこと、絶対にゆるせなかった。愛未は必ずできると信じていた。彼女のことを諦めていたら、どうでもいいと思っていたら注意なんてしない。
放課後の合唱練習が終わって、教室には志織と愛未の二人しかいなかった。もう合唱コンクールまで一週間を切っていた。時間が無尽蔵にあるわけではない。その焦りが、志織を日に日に追い立てていく。確かにテンポも速くて難しい曲ではある。だが、四拍子を刻み続けられないほど複雑な曲とも思えなかった。自分の伴奏が悪いのかと志織も最初は自身を疑った。しかしメトロノームに合わせてみても、ズレていくのは彼女の指揮のほうだった。彼女の指揮がなぜ、途中で伴奏とズレてしまうのかが本当に理解できないのだ。
志織も初めは彼女にずっと付き添って丁寧に教えていた。
小節の最初の音に注意してね。歌いながらするとわかりやすいかもしれない。CD持って帰ってもいいから、楽譜見ながら練習していこう。大丈夫、愛未はできるよ。
それが一か月前のことだ。しかし何も変わらない現状に、志織の堪忍袋の緒は今日でとうとう切れてしまった。
「とりあえず、月曜までにできてなかったら、私はもう指揮見ないから」
志織は音を立てて椅子から立ち上がった。教室で練習するときに使うキーボードを箱に直すときもその苛立ちを終始隠そうとはしなかった。無性に腹が立っていて、無性に悲しかった。失望したくないのだ。期待を裏切ってほしくなかった。彼女が「志織が伴奏するなら、私が指揮する!」と言ってくれたとき、本当に嬉しかったのに。
私が目指すのは、こんなんじゃない。こんな、不完全なモノでいいわけがない。
志織は教室の引き戸をガンッと閉めた。しかし中に残された彼女がその音をどう聞いたか、志織にはわからなかった。
愛未とケンカしても、次の日にはちゃんと仲直りできていた。いつもみたいに笑って「昨日はごめんね」と言えるはずだった。今回もそれは変わらないと志織は思っていた。
だが週の明けた月曜日、志織がクラスに足を踏み入れた瞬間、空気の流れが一変したのがわかった。音が消えたのだ。
「? おはよ」
入口付近にいた一人の女子と目が合ったので、いつも通り挨拶する。しかし彼女は曖昧に笑って、志織からさっと目を逸らした。そのとき、自身を取り巻く状況が先週とは一八〇度変わっているのを志織は瞬時に理解した。しかし志織の中に沸き起こった感情は、これからどうしよう、というような困惑ではなく、ただの失望だった。おそらくこの空気を作って志織を出迎えたのは、愛未なのだろう。彼女も、そこらに溢れる徒党を組んでしか行動できない女子と同じであっただけだ。志織は、ふうと一息ついて、教室の後ろのほうに屯している連中に目を向けた。
「別に、いいよ。避けても。それであなたたちの気が済むんなら」
「私は、かまわない」と、愛未の座る席を守るように取り囲んで立ち、親の仇をとるが如き目つきでこちらを見る者たちに対して、志織は言い切った。
「愛未」
志織が名指しすると、セーラー服の犇めく隙間で、彼女の肩が、びくっと小さく跳ねた。
「愛未は、そのままでいいよ。私が期待しすぎちゃったんだね」
ざわざわざわと空気が動くのを気にも留めず、自分の席につく。「なにあいつ」「何様?」「愛未、泣かないで」「気にしなくていいよあんなやつ」と昨日まではフツウに話していたトモダチが手のひらを返したように愛未を慰めているのを見て、志織はまた一つ溜め息をついた。
「立花、お前、何したわけ」
志織の前に座る橋野という男子が、後ろを振り向かないまま、重心だけをこちらに寄せ、ひそひそと尋ねてくる。
「ちょっと、言い過ぎたみたい。いや、けっこう、かな」
「愛未の指揮のことでね」と志織が目を伏せると、「あー、とうとう言ったかー」と橋野が苦笑いした。彼も吹奏楽部でトランペットを吹いているから、当然愛未の指揮が伴奏とズレていることに気づいている。気づいていないのは、彼女を取り巻く女子たちぐらいなものだ。
「謝れば? 『言い過ぎた』って」
「でも私、自分が悪いとはどうしても思えないんだ」
「こーゆーのは、早目に謝ってたほうが、いいと思うぜー」
「それが賢明な判断でしょうね」
頭ではわかっているのだ。でも、心の中では、どうしても譲れないものがあって、素直になることができない。それに、志織は彼女に裏切られたような心地がしていた。一番仲のいいトモダチだと、思っていた。どんなことでも言い合える信頼関係も、築けていると思っていた。しかしそれは志織の勘違いに過ぎなかったらしい。
「言葉を選ぶって、難しいね……。もうさ、喋らないほうが、楽じゃない?」
「それで世のコミュ障が増えていく、と」
「日本人の九〇パーセント以上は対人恐怖症らしいよ」
「なんだよそのデータ」
かっかっと笑う橋野に、教室中の視線が集まったのを志織は感じた。おそらく、こちらが何も気にせず男子と会話していることさえ彼女たちは気に食わないのだろう。その空気を感じ取ったのか、橋野が声を一段と小さくして、「ひー」と言った。
「女子ってこえーなあ。昨日の友は今日の敵ってマジなんだな」
「きみも女子になればわかるよ」
男に生まれたらよかったと、このときほど思ったことはないかもしれない。ひそひそひそ。ひそひそひそ。終始こちらの動きが気になるのか、客観視できない曇ったレンズで監視されているような気分になる。生物学的に自分と彼女たちが同じ括りとされているのが、何だか納得いかなかった。なぜ、文句があるなら直接言ってこないんだ? それなりの対応で返させていただくものを。あいつら全員ぐうの音も出ないほど論破してやるのに。
(めんどくさいなー)
頬杖をついて窓の外に目を向ける。早く大人になりたいと思った。この小さくて内に閉じた世界では息がしづらい。肋骨の中に指を突っ込んで、無性に心臓を握り潰したくなってくる。
「慣れし故郷を放たれて……夢に楽土求めたり」
夏休みにはもう暗譜し終えていた合唱曲、『流浪の民』のワンフレーズを、誰にも聞こえないような声音で口ずさむ。楽土、なんて本当はどこにもないのだ。どこにもないから、ユートピアというのだ。それでも人は願わずにはいられないのだろう。ここではないどこかを。目の前にある現実から、逃げたくなる。自身の置かれた境遇を認めようとせず、人のせい、環境のせいにして、すべてを投げ出すのだ。そして自己嫌悪に苛まれて、欝々欝々欝々とした日々を過ごすようになる。志織はそんな人生の送り方はごめんだと、他人事のように思っていた。肌に当たる風がだんだんと冷たくなってきた十一月の初めだった。
*
「ねえ、これ、昨日も同じこと言ったよ? ちゃんと意識してやってる? 小学生でもできるよこんなの」
三年生が引退して数か月が経った今、二年生の志織は女子空手道部の部長として練習を取り仕切っていた。しかしどうしても道場の練習と比べてしまう自分がいた。まずきちんとした指導者がいないのが問題である。それもそのはずで、志織の通う中学ではまだ、この空手部の歴史は浅かった。四代前の部長が道場の仲間を率いて創部したのが最初であり、そしてその四代前の部長とは、志織の姉、惟織のことだった。
しかし一つ上の先輩たち三人を最後に、道場の中でこの中学に通うのは志織一人だけになった。道場には他にも同級生がいるものの、みな別の校区に住んでいるため通う中学は異なる。ゆえに今、女子の中では志織を除いて経験者は誰もいない状態だった。二年生は志織だけ。あとは一年生が四人の合計五人。男子は、一、二年合わせて八人いるが、経験者はその半分。しかも志織と同じ道場に通う者はいないため、男女間の仲がいいとは決して言えない。
道場が違えば、流派や基本も異なるし、教え方にも差異が生じてくる。道場名を背負って出場する大会では勝つべき相手となる。それに、志織は彼らのことを敵視していると言っても過言ではなかった。髪を小学生のときから短くして、男子以上に筋力もある志織のことを、陰で「立花くん」と呼んでいるのを知っていたからだ。そして、志織の成長し始めた胸が、動くたびに揺れて見えるのをからかう中学生男子特有の幼さを、心の底から嫌悪していた。一言でいえば、大嫌いだった。
強かった先輩たちもいなくなり、志織は何のために部活をしているのかわからなくなった。道場の練習に出たほうが何十倍も自分のためになるのに、と溜め息をつく。最近では週の半分も練習に出ていない。道場で十年来の気の許せる仲間と切磋琢磨して練習するほうが志織には楽しかった。でも志織が指揮を執らねば、教えられる者は他にいないのだ。「志織に、任せたよ」と言って引退した先輩の言葉が、志織の動きを縛っていく。部長としての責任と、選手としての矜持。どちらを優先させるべきなのだろうか。両立は不可能だと、冷静に考える自分が、今日も頭の中で囁く。
もう、やめちゃえよ、と。
「……ちょっと、誰。靴の踵踏んでるの」
練習が終わり、武道場から出るとき、志織は踵が踏んづけられた一足の運動靴を見つけた。「あ、私、です」と一人の後輩が答える。その何とも思っていないような態度に腹が立ったのを志織は無理に隠そうとはしなかった。
「注意されるの、何回目?」
後輩が履く前にその靴を手に取り、彼女の目の前に掲げて見せる。彼女は志織の低い声に委縮したのか、ただただ気まずいだけなのか志織と目を合わせられないようだった。
「外を裸足で走ったことある? ないでしょ。靴のありがたみ、まだわかってないみたいだね」
最初に言ったはずだ。靴は揃えて、きちんと並べるようにと。懇切丁寧に。しかしそれが何度言っても身につかねば、厳しく言うしかない。志織の中で後輩に優しく諭す時期は、とうの昔に過ぎていた。
「靴履く資格、ないよ」
志織は外にその靴を投げ捨てた。信じられないモノを見るような目で、後輩が志織を見る。
「てか、空手する以前の問題」
こんなこと、志織の道場では常識だった。人に言われる時点で終わっている。言われても直らないのは、治らないのは? 病気なのだろうか、と志織は本気で思った。礼儀作法を守り、心身を鍛えてから、ようやく空手の道を、技術を極めていけるのだ。どんな家庭で育ってきたのだろう。打っても響かない者たちに教えるのは、勉強でも何でも志織にとって、ただただ苦痛でしかなかった。
*
合唱コンクールが翌日に迫った日の放課後、志織は部活に顔を出したが、そこには男子の姿しか見つけられなかった。そして、武道場に現れた志織を見て一人の一年生男子が、「なんか、2-6に来るよう、先生が言ってました」と言った。志織が怪訝に思い、眉を寄せる。
(何の呼び出し?)
二年六組の担任、浜田は空手道部の顧問だった。志織の姉、惟織が二、三年生のときの担任でもある。
道着姿のまま武道場を出て、校舎に向かう。放課後の誰もいない廊下に、その教室だけ電気が灯っているのが、何となく不気味に見えた。
一応、ノックをして、「失礼します」と一言呟いてから教室の引き戸を開く。
突き刺さるような視線が志織に集中した。
教室にいたのは、顧問と、男子の部長に後輩の女子が、四人。それと、辞めていった同級生が一人。みな制服姿で、志織が一人だけ道着を着ているのが、何だか滑稽に思えた。つまり、彼らは今日、部活に参加する意思さえ持っていないということだ。
(何、これ。円卓会議?)
ご丁寧に、志織の分の椅子まで用意されている。
その椅子を取り囲むようにして、座る彼らを見て、一瞬、裁判所で弁明させられる被告人のような気持ちになった。
嫌な予感しか、しなかった。
「志織先輩は、そもそも部活が何だかわかってないんですよ」
いきなり、何を言い出した? 志織は席についた途端、口を開いた一人の後輩に対し、眉を顰めた。先日、志織に靴を投げ捨てられた張本人だった。彼女は後輩の中で一番素質のある者だったが、最もプライドが高かったのか、志織に注意されていつも小さな不満を露わにしていた。彼女は志織が気づいてはいないとでも思っていたのだろうが、もうこの子は伸びないだろうな、と志織は一人で静かに考えてもいた。しかし今その後輩は、堂々としてさえ見える。
「靴の踵を踏むな、とかさ、別に部活で言うことでもなくね? 親じゃないんだから」
そこで志織に言い聞かせるような口調で声を発したのは男子の部長だった。志織は目を見開き、その者を凝視する。
(……こいつ、なに言ってんだろう。本気で言ってるの?)
彼は男子空手道部の中でも志織が唯一認めていた者でもあった。しかし今の発言で、今まで彼に寄せていた信頼が一気にどこかへ消え失せた。全中に出場を決めたとき、一瞬でもかっこいいと思ってしまった自分がバカだった。
男子の部長が目配せするように、後輩たちを見る。するとそれを皮切りに、それまで俯いて志織と目を合わせられなかった者も、おずおずと口を開き始めた。
「志織先輩は、いつも、言い方が、キツいです」
「靴を捨てるのは、やり過ぎだと思います」
「毎日練習に来ないのに、その、来たときだけ仕切られるのは、ちょっと……」
「個人競技だから、協調性なんかいらないと思ってます? それって大間違いですよ。先輩は、部長なんです」
……なんで、こんなことまで言われなきゃいけないんだろう。
突然の罵倒の嵐に開いた口が塞がらなかったし、咄嗟に言葉が出てきてくれない。
そして、ふと頭に浮かんだ自分のコトバに、志織は既視感を覚えた。
因果応報という四字が脳裏を掠めた。
「志織、あたしにも言ったよね。小学生でもできるよこんなの、って。そのとき、どんな気持ちになったか、わかる? わからないよね。志織、言ったこと、すぐ忘れちゃうもんね」
そのときそれまで後輩の訴えを慈愛に満ちた態度で聞いていた者が、口を開いた。九月に新学期が始まってから顔を出さなくなった、同級生の一人だった。もともと志織の学年も、志織を合わせて五人ほど部員がいた。しかし、みな途中で辞めていったのだ。理由はわからなかった。が、原因は志織なのだろうという予測は間違っていなかったらしい。
「――なんで、由佳が、ここにいるわけ」
志織が、それまで閉ざしていた口をやっとの思いで開くと、彼女はきょとんとしたように首を傾げ、「三島に頼まれたから」と男子の部長の名を口にした。
「言葉ってね、重いんだよ。志織が思ってる以上に。ずっと、残るの」
「できない人の気持ち、考えてみたことある?」とまるで小さい子を諭すように志織を見る彼女に、目の前が真っ赤になるような衝動を覚えた。
「志織が、頭もよくて、空手もピアノもできて、運動神経いいのも知ってる。でもそれって、そのレベルで、そんなに威張られてもね、全然説得力なんてないの」
「その、レベルって言った? 由佳、今、そのレベルって言った?」
「だからなに」
「わ、私が、どんなに……っ」
努力してるか! と言おうとして、志織は思わず口を噤んだ。そうだ、この者たちは志織が努力している姿なんて、一度も見たことがないのだ。
「あとテンションの高いときと低いときの差? が激しすぎて、ついていけません」
「教え方が抽象的で、よくわかりません」
――もう何を言っても、こいつらは話を聞いてくれないのだろうとどこかで諦めている自分がいる。
楽しかった日々も、確かにあったのに。最初は素直な後輩がとても愛おしかった。夏休みは一緒に遊園地にも行ったし、年相応にプリクラを撮ったりもした。でも、先輩が引退してから、いつからか部内で不協和音が聞こえるようになったのだ。自分の何が悪いのか、志織には本当にわからなかったし、言っても言うことの聞かない後輩たちに苛立ちを覚えていたところだった。
「みんな、立花に変わってほしいんだよ。言い方とかは、意識すれば直せるだろ? 道場と部活は、違うんだから。それを人に、それも初心者に押しつけたら、酷だ」
「上から目線で物を言われてもね、誰も動いてくれないんだよ?」
だんだん、だんだん、自分の肩が縮こまっていくのがわかった。
……みんな、私のこと、そう思ってたの?
「泣いて済む話じゃないからね」
由佳にそう言われて初めて、志織は自分の目が潤み始めたのに気づいた。
私だって、泣きたくない。
涙なんか、簡単に見せたくないよ。
でも、今まで信じてきたものが、目の前でガラガラと崩れていって、その瓦礫を真正面から、仲間と思ってた、少なくとも先輩が引退するまでは家族よりも密な時間を過ごしていた者たちから容赦なくぶつけられてる、そんな、こんな状況で。
泣くなって言うほうがムリだ。
そんなに、私、強くない。
なんで私を味方してくれる人は誰もいないんだろう。
「それに、避けられてるんだって? 教室で、みんなに」
顔にカッと熱が集まるのがわかった。今、ここで、それを言うか。教室で孤立していることを、後輩や先生の前でも言うか。いや、だからこそ、彼女は言うのだろう。徹底的に、自分が優位にあることを示すために。
「いつかこんな日が来るって、あたしは思ってたよ」
「途中で、辞めた人に、色々、言われたく、ない」
志織が、目の前に座る由佳を、キッと睨む。彼女に「由佳が空手部に入ってくれてホントに嬉しいよ」と言ったのは遠い昔の、過去の出来事だった。
「途中で、諦めた人に、言われたくないよ……! 言えばよかったやん、今のは傷ついたって、そんな言い方されたらムカつくって、直接そのとき私に言えばよかったやんか!」
「なにいきなり、方言になってんの」
「は」と由佳が嘲笑し、憐れむような眼差しを志織に向けて、言った。
「志織は、言えない人の気持ちもわかんないんだね」
一瞬、何を言われたのかも、志織はわからなかった。
しばらく、志織は立てなかった。彼女たちがぞろぞろと帰るとき、三島が「佐伯、今日はありがとな。もう関係ないのに、呼び出してごめん」と由佳に言うのを、呆然とした意識の中で聞いていた。おそらく、後輩らが三島に相談し、三島が由佳に相談したのだろう。彼ら二人は二年六組で、同じクラスだった。
「ううん。あたしも、みんなのこと気になってたから」
「いい機会だったよ」と三島に笑顔を向ける彼女を、志織は身震いがするほどおぞましく感じた。互いの家に泊まりあって、一緒に気になる男子や将来のことを語り合い、眠りについたことがあるのを、本当に自身の記憶違いかと、思った。
気づけば辺りがすっかり暗くなり、下校時間もとっくに過ぎていたが、志織は放心状態を抜け出せなかった。そのとき顧問の浜田が黙って志織にティッシュの箱を手渡した。
志織は今日初めて、人からの気遣いに触れたような心地がした。
更に涙腺が崩壊して、志織はお礼もまともに言えなかった。でも彼女の中では彼への不信感が募りに募っていた。
さっき、一言も口を挟まなかったのは、なぜですか。
あなたも、彼らと同じような目で、私を見ていたんですか。
「……せん、せい」
社会科の教師なのに体育教師のようなガタイをした浜田は腕を組み、背中を丸めて志織の斜め前に座っている。その体勢を終始崩さなかった理由は志織にもわからなかった。浜田は、志織が道場にも足を運んでいることを知っており、腰の症状にも理解を示してくれていた。何より姉のことも知っているから、志織が入学した当初からよく目をかけてくれた教師の一人でもあった。
「……ときどきっ、思うんですっ、」
普段のアルトからは想像のつかないような甲高い声が志織の喉から絞り出される。
「私、なんか、いない、ほうが、いいんじゃないかって……っ」
何となく、気づいていた。いや、気づかないほうがおかしいのだ。なぜ自分の周りでは、こんなにも諍いが絶えないのだろう。原因は明らかだ。自分なのだ。すべて、自分のせいなのだ。人望がないのも。ぜんぶ、自分の言動が引き起こした。誰のせい? なんて笑わせる。諸悪の根源は私じゃないか。
この存在が、この狭い世界の均衡を乱し、本来であれば心地よいはずの包まれた空気を暗愚に搔き混ぜているのだ。
意味なんて、ないと思った。
もう、生きてる意味が。
「消えた、ほうが、いいんじゃないかって、」
「バカなこと言うな」
志織の嘆きを遮るように浜田が語気を荒げる。志織はびくっと肩を強張らせ、潤んだ視界を上げた。
「そんな、バカなこと、言うな」
初めて浜田の目を見た。真剣な瞳だった。それだけで、志織はもうわかってしまった。おそらく先生は、彼らがこの空間を準備していたときに、何をするつもりか尋ねたのだろう。そして彼らは言葉を濁したのだろう。だが、今まで志織の同級生が四人も辞めて、先生はそのつど、彼女たちの訴えを聞いていたに違いない。彼も彼女たちに辞めた理由を尋ねたに違いない。潮時だったのだ。このままでは、志織は孤立する。男子の部長も言っていたではないか。「変わってほしい」と。そこに彼女たちの私怨が所々介入しただけで。ぜんぶ、あなたのためよ、という正義感に満ちた女の声が聞こえてくる。浜田はどちらの味方もしなかった。何も言わなかった。それだけで、もういいと思った。
よかったね、由佳。
効果、バツグンだよ。
少しは、彼女の気も晴れたんじゃないだろうか。
時計は二十時を過ぎていた。浜田は志織の家に電話を入れて、かつその家まで送ってくれた。「明日、ピアノがんばれよ」と言われたとき、ようやく志織は明日が本番であることを思い出した。それに対して志織は自分がどう答えたのか、車の中で彼と他にどんな会話をしたのか、まるで憶えていない。
翌日の合唱コンクール。志織は何かが起きる予感はしていたものの、案の定いつもは決して間違えないところで誰にでもわかるようなミスをしてしまった。幸い途中で合唱が止まることはなかったが、志織は本当に消えたくなった。弱みを見せたくないのに、あいつらに足を取られたくないのに。彼女たちが、くすくすと笑っているのが視界の端に移る。「あれほど大口叩いてたのにね」とわざと志織に聞こえるよう話す。ただ、前の席の橋野や他の男子たちは「え? わからなかったぜ?」と言ってくれた。橋野がわからないはずがなかったのに、ウソでもそう言ってくれたことは志織の心をスッと軽くしてくれた。志織はよくも悪くも裏表のない性格だったから、女子からは目の敵にされ続けても、それが男子にも伝染することはなかったらしい。空手部の男子が同じクラスにいなかったのが、唯一の救いだった。
そして、志織のクラスは最優秀賞に輝いた。もともと候補として音楽の先生からもお墨付きを得ていたし、志織が男子を徹底的に鍛えてきたのが功を奏したのだと思う。指揮は相変わらずズレたままだったが、指揮と伴奏は合唱コンクールでは二の次であることも今回知ることができた。伴奏のミスが審査に影響せず、志織は誰にも気づかれないよう安堵の涙を流した。最近は枕を濡らさずに眠れる日がなかった。
それからの志織は感情を殺した。笑うことをやめた。人と目を合わせることを、徹底的に避けた。人そのものを、信じるのが、ひどく陳腐で浅はかなことに思えた。
その頃の記憶は、変に断片的で、でも鮮明に残っている。そのたびに、消えたくなってくる。何でかわからないほどに。近づいてくる者を、全力で拒絶し続けた、十四歳の自分。もう、そんな自分には誰も関わらないでほしかったし、関わりたくもなかった。
「へえ、そんなことがあったんやねえ」
高校二年生になった志織の横には去年と変わらず茜がいた。昼休み。五本指に今日のおやつ、とんがりコーンをかぶせて、一つずつ口に運ぶ彼女を見て、あとでちゃんと手を洗わせにいかなきゃな、と志織は思った。
「志織も大変やったねえ」
あの頃はいつも何かにイラついていた。後輩にもトモダチにも、家族に対してもその不機嫌でコーティングされた態度を押し通していた。そして、不機嫌でないときは、よく冗談を言って笑わせたり、自分も笑っていたと思う。それに振り回される周囲のことなんか気にも留めていなかった。
「あたしがそんときそこにおったら、みんなぶっ飛ばしてやるのに」
とんがりコーンのなくなった指を舐めながら茜は憤慨したように眉を顰めた。
「靴の踵を踏まない、とか常識やんか。先輩が後輩に注意して何が悪いん。意味わからん。人としてどうかと思うっちゃが」
「でも、ホントに言われたんだよ」
「ひぇえ。価値観の相違ってやつですかねえ」
「まあ、私の言動も今思えばクズすぎたけど」
「あたしより?」
「それはないかな、とか言ってみる」
「ならいいやんか」
「よくないけどね」
中学のときにそういう経験もあってか、志織は高校で部活に入る気はしなかった。そんな志織を捕まえてバスケ部の体験入部へ強引に誘ったのはこの茜だった。当の本人は志織を盾にして、いつの間にかバックレていたわけだが。
ずるずると抜け出すタイミングも摑めず、気づいたときには、なぜかレギュラーの枠に収まってしまっていた。そして志織は自分が経験したことのないスポーツに足を突っ込んで、初めて初心者の気持ちがわかった。やれ、と言われて簡単にできるものではないのだ。初心忘るべからず、という諺がどうして世に広まっているのか理解したのはつい最近のことである。
レギュラーとは言っても、高校から始めた志織はまだ安定しないことも多いので、スタメンでない試合もある。だが、部をまとめる立場に自分がいないのはひどく楽だった。志織は監督の言うことを聞いて、自分なりに意味をきちんと解釈しながら、キャプテンの背についていくだけでよいのだから。発言を強要されず、背負う責任もほとんどない志織は黙々と練習に励むことができた。そのため今のところ部の調和を乱さずに済んでいる。そして、協調性の大切さを学んだのも、高校に入ってからのことだった。
「ほんとに誰も志織の味方してくれる人はおらんやったと?」
味方というか、志織には擁護できる要素がなかったと言っても過言ではない。すべて自業自得だったのだ。それに、外界の騒音すべてをシャットアウトして生きていたから、もしかしたら志織をかばってくれた人もいたのかもしれないが、当時の志織はそれに気づくことができなかった。子どもだったのだ。大人になりたかったのは、周囲のレベルに合わせるのが苦痛だったからではなく、自分が成熟していなかったせいなのだと、志織は悟った。
だが、そんな志織にも。
「ひとりだけ……」
「お?」
茜が志織の呟きにニヤァと頬を緩める。その鼻の下が伸びた顔を見て、志織は一瞬話すのをやめようかと思った。
「……お姉ちゃんの、元カレで」
「お、おおおう?」
それは、どうなのか? とでも言いたそうな茜と目が合う。姉の元カレと言えば元カレなのだが、彼は姉と志織の幼馴染みでもあった。つまり志織の認識では幼馴染みが最初で元カレは後だ。
「私の、話、聞いてくれた」
彼がいなければ、もしかすれば、茜と出逢うこともなかったかもしれないと志織は思った。




