10 栞
「いい? 大丈夫? ひとりで歩ける? 階段きつかったら無理せんでエレベーター使いなさいよ」
「わかっとる。俺は幼稚園児か」
事故に遭う前とは打って変わって過保護になった母親に、宗一は少しだけうんざりした様子で息をついた。車の後部座席からゆっくりと降りて、砂利の地面に足をつける。
「やっぱ私も行ったほうがいいとかいな」
「いいよ。卒業してから親と一緒に面談するやつとか聞いたことない」
それだけは勘弁してくれ、とでも言うように宗一が首を横に振る。
「……それもそうよね。森永先生によろしく言っといてね」
「わかった」
宗一はスライド式のドアが自動で閉まっていくのを確認して、学校の駐車場を出た。約三年ぶりに足繁く通っていた母校の門をくぐる。
九月の初めに意識が戻っておよそ五か月が経った。その間にも何度か入退院を繰り返し、リハビリに勤しむ日々の中で、最近やっと壁や手すりを使わず自分ひとりの力で歩けるようになったのだ。兄曰く、驚異的な回復力ではあるそうだが、宗一は自分の躰とは思えない有様に、ひどく失望してもいた。左半身に根強く残る麻痺が否応なく宗一の心身を蝕めていく。何度、事故に遭ったことを呪っただろう。何度、トラックの運転手を憎んだだろう。自分でも知らない負の感情が沸々と生まれていくのを宗一は止めることができなかった。だが相手も背負いきれないほどの罪を償い続けているし、あのときの宗一が注意散漫になっていなければ事故は起こらなかったともいえる。
今、こうして生きてるから、いいじゃないか。
宗一が眠っているときにはとても言えなかったようなセリフを、兄の光司は笑いながら言った。
母のやつれ具合と父の増えた白髪から、宗一はどれだけ彼らに心配をかけていたか知った。家族だけじゃない。幼馴染みの勝広は、目覚めた宗一を見て、今まで人前では絶対に見せたことのなかった涙を流した。「よかった、よかった、」とこぼす彼の掠れた声は、今でも宗一の耳に残っている。
利き手である右手にはかろうじてペンを握るだけの力は残っていたようで、宗一は自身の今後を考え、リハビリと並行して受験勉強にも取り組み始めた。周囲からは一年余裕を持つように勧められたが、手当たり次第にセンター試験と二次試験の過去問を漁っていくと、驚いたことに現役のときには丸投げしていたような問題でもすらすらと解くことができた。勉強を見てくれていた兄も驚きを隠せなかったらしく、「お前、幽体離脱して予備校にでも行っとったんか」と宗一をからかったが、彼の協力がなければリハビリもして勉強にも打ち込むなど到底できなかっただろう、と宗一は思った。
十月に慌てて出願したセンター試験は念のために個室で受けたのだが、簡単すぎて時間が余り、日本史なんかは十分ほどで解き終えてしまった。自己採点では九割を軽く超えていて、両親には頭打って頭よくなった、と笑われた。特に今年は平均点の低かった国語で点数を稼ぐことができたのもある。
そして今回、願書を大学に出すために必要な成績証明書を発行してもらうため、宗一は三年前に卒業した母校に再び足を踏み入れた。荘厳な装いの正面玄関から入るのはなぜか躊躇われたので、半地下になっている昇降口を抜けて地上に出たあと、中庭を突っ切り、三階に位置する職員室へと向かう。校舎の間取りは何となく憶えているようで、自然と宗一の足は進んでいった。もう放課後であるのか、生徒の姿もぱらぱらと見える。運動場から聞こえる部活動生のかけ声が、昔を思い出しているのか宗一の心を強く揺さぶってきた。
「で、結局どこに決めたんか」
「S大にしました」
地元の国立大を告げると、宗一が三年生のときに担任であった森永先生が「そうか」と頷いた。左足を引きずりながらもひとりで立って歩いている宗一を見て、先生の瞳に微かな潤みが生まれたのは気のせいじゃないだろう。宗一は彼が休みのたびに見舞いに来てくれていたことを母から聞いていた。
「模試の判定は」
「Aっす」
「まあS大は二次の配点がでかいけん、一概に大丈夫とは言えんけどな。油断すんなよ」
「はい」
「しっかしなあ。眞鍋がこんな点数叩き出すとはなあ。満点五教科て修学でもおらんぞ。お前、三年前の面談で二次すっぽかして修学の話したの憶えとうか」
「うっすらと」
修学、というのはこの学校に併設されている予備校のことだ。現役の半数は国公立大に進学し、不合格だった者は浪人することも別段珍しくはないため、冗談半分、本気半分で、この高校は三年制ではなく四年制といわれることもある。
「夢ん中で勉強しよったっちゃろ」
「それ、親にもよう言われます」
眠っていたときのことはまったく憶えていないため何とも言えないが、周りが言うように自分は夢の中でもう一度高校生をしていたのだろうか。お気楽なやつだな、と宗一は自分のことながら他人事のように思った。
「他ん先生には会わんとか? 笠木先生やったらたぶん体育館おるぞ」
「……そう、っすね。でも、今はやめときます。合格発表んときに、また」
「かーっ。えらい自信やなあ。もう俺は見舞いに行かんぞ」
「十分、気をつけます。今日は、ありがとうございました」
最後に「横断歩道渡るときはちゃんと右左右見て手ぇ挙げて渡れよ」と小学生に言うような指導をされ、宗一は苦笑いを浮かべた。親には幼稚園児扱いされ、先生には小学生扱いされる自分は、知らぬ間にもう二十一になっていた。
階段の手すりを使って若い男が一段一段慎重に下りていく姿は珍しいのか、すれ違った何人かの生徒から奇妙なものを見るような目で見られているのを宗一は感じた。先生でもない人物が私服で校内をうろうろしているのも目立っているのだと思う。また、階段で上り下りするとき、一般的に大変そうに見えるのは上るときのほうだが、実際に怖いのは下りるときだ。母の言うようにエレベーターを使えばよかっただろうか、と少し後悔する。
そのとき、ふと一人の女子生徒と目が合った。それまで宗一が受け止めていた訝しがるような目つきではなく、本当に宗一を見て驚いているかのような眼差し。宗一は何となく彼女から目を離すことができず、視線を彼女に向けたまま階段を下りようとした。案の定、そのあと階段を二段ほど踏み外し、手すりが途切れた踊り場のところで豪快に尻餅をつく。恥ずかしさよりも鈍い痛みが宗一の腰を襲った。
「大丈夫ですか」
女子生徒が宗一に歩み寄り、すっと手を差し伸べた。宗一は少しだけ面食らったかのように顔を後ろに引いたが、すぐに「ごめん、ありがとう」とはにかむように笑った。右手で彼女の手をとり、左手で床を押しながら立ち上がろうとするも、手にうまく力が入らない。
「ごめん、両手借りてもいい?」
「あ、はい」
一歩間違えたら、セクハラ発言ととられても仕方ないような宗一の要望を彼女はさして気にもしない様子で、もう一方の手に持っていた問題集やノートを下に置いたあと、素直に両手を宗一に差し出した。彼女の腕を摑み、それらを支えにして、やっとの思いで立ち上がる。
「ごめんね大の男がこんなヨタヨタしよって。ほんとありがとう」
「いえ」
そう短く言いながら彼女は下に置いていたものを拾うため膝を曲げ、またすぐに立ち上がった。ふと彼女が胸に抱え込んだものに、目が留まる。ある本の表紙がノートに紛れて見え隠れしていた。
「あ、その本、面白いよね」
彼女が宗一の言葉にぴくっと反応し、彼を見上げた。再び目が合い、少したじろいだのは宗一のほうだった。
「読まれたことが、あるんですか」
「う、うん。俺は文庫版で読んだけど……。それ、旅人シリーズの最終巻やろ?」
「……はい」
本屋で兄とともに参考書を探していた際、受験には関係ない本も見て回りたくなって小説コーナーに立ち寄り、そのとき気になって手にとった本だ。読んだ覚えはないが、不思議なことに、自分はこの本を以前読んだことがあるらしい。一巻からぱらぱらとページを捲って内容を確認していき、最終巻だけ話の流れが頭に入ってこなかったため、宗一はその一冊だけを購入した。ラストは何となく予想できたが、やはり主人公である旅人は、異端者として物語の中から消え、彼が元いた世界に戻らねばならなかった。かぐや姫や鶴の恩返しなどのおとぎ話によくあるように、人間でないものは、その世界の秩序と平穏のために消え去らねばならない。旅人は作中、人間であって人間でないものだった。あやふやで曖昧な存在の最後は最終巻の序盤から予測しえたものの、旅人のその後や小話も知ることができ、読んでいて終始楽しかった。
「三年、よね? 赤本持っとるし。俺も、その大学受けるっちゃん。お互いがんばろーな」
宗一はもう一度「ありがとう」と言い残し、彼女に背を向けてその場を離れた。彼女は宗一が階段の下に見えなくなるまで彼の後ろ姿を見ていた。
「へえ、いい子がおるもんやねえ」
マヌケにも階段で足を滑らせたことは伏せて、少し脚色を入れながら女子生徒に手を貸してもらったことを帰宅する車の中で母親に話すと、彼女は感心したように何か含んだ笑みを宗一に向けた。
「そういう子はね、大きくなってからも周りの人が助けてくれるよ」
母の予言めいた言葉に「ふーん」と相槌を打ち、宗一は次々と景色が移り変わる窓の外に目を向けた。きつい目をしていたが、人にさっと手を差し伸べることができる優しい子だと宗一は思った。もっと笑えばいいのに、と彼女にとっては余計なお世話だろうが、宗一は彼女の淡々とした抑揚のない声を思い出しながら小さく呟いた。
*
志織は誰かに顔を見られないよう廊下を走り抜け、逃げ込むようにして教室のドアを勢いよく開けた。幸い教室には誰もいなかった。電気が消えて薄暗い教室の中で蹲り、志織は堪えていた嗚咽を漏らした。
あれからずっと持ち歩いていた本。何度も図書室で貸し借りするのが憚られて、最終的には自分で買った単行本。茜には、先輩のことはホントにもういいんだと笑いながらも、これだけはどうしても手放すことができなかった。未練がましいのはわかっている。自分にウソをついていることもわかっている。それでも、そうしてでも彼を忘れたくはなかった。一日たりとも忘れたことはなかった。
「よか、った、」
これは神さまがくれたプレゼントなのかもしれない、と志織は思った。
彼の手を握ったときに、その温かさを初めて知って、涙が溢れそうになった。握られているという実感を覚えたことが、声を上げたくなるほどに嬉しかった。
私は、あなたのしおりになることが、できましたか。
もう一度、人生を歩もうと思えるきっかけに、なれましたか。
志織は「ありがとう、ございます」と誰に対しての言葉というわけでもなく、ただ誰かに伝えたかった想いを、今にも消えそうな涙混じりの声で告げた。
先輩、歩けるように、なったんですね。
話せるように、なったんですね。
完全に、あのときのことを、忘れたわけじゃ、なかったんですね。
それがわかっただけで、もう十分だ。
ダイジョウブ。
まだ、がんばれる。
がんばるから、
わたし、がんばるから、
いまは




