1 扉の向こう
図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序でくり返し現れることを確認するだろう(くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ)。この粋な希望のおかげで、わたしの孤独も華やぐのである。
J・L・ボルヘス、鼓直訳(1993年)『伝奇集』、岩波文庫、「バベルの図書館」
二〇一三年七月
「ねえ志織、知っとる?」
「知らない」
三者面談期間に限り、この図書室は満席になる。一学期終業式前の一週間は授業が午前で放課となり、午後からは生徒とその親、クラス担任との三者面談が始まっていく。今日はその三日目である。
生徒は自分の順番になるまで部活をするか図書室で自習、または本を読みながら待ち時間を過ごす。七月の中旬である今の時期、インターハイや国体に出場する生徒以外の三年生は大部分が引退しているため、彼らは冷房も効いているこの図書室で時間を潰すのだ。教室で三者面談が行われるのを理由に生徒は自身の教室を早々に閉め出される。そのためいつもは閑静な図書室がこの期間だけは賑わいを見せる。だがうるさいというわけでもなく、県下でも進学校の名で通っているだけ「静か」という部類に入る。いつもより人がいるぶん、活気があるだけのことだ。
「即答ですか」
「今いいとこなんだから邪魔しないで」
「あそこに本棚があるやろ?」
「聞いてる?」
活字を追っていた目線を真正面の席に座る友人に移す。彼女は何か企んでいますとでも言うような妙に快活な瞳を志織に向け、形のいい唇を小さくすぼめた。
「いいやん。面白い話っちゃん」
「センセー、木下さんが私語をやめませ」
「シャラップなんてことを言うんだきみは」
高校三年間同じクラスであり志織の友人でもある木下茜は、口に人差し指を当てながら慌てたようにきょろきょろと周りを見回した。志織の声は独り言のように小さかったため、ここから十メートル以上離れた司書の先生がいるカウンターにまで届くはずがない。大げさな彼女の仕草を見て志織は小さな溜め息を一つついた。
「で、本棚ってどの本棚。ここには本棚と机と椅子しかないけど」
「志織の後ろの、ちょーっと他と違う趣深い本棚があるやろ?」
首だけを後ろに回し、その趣深い本棚とやらを見る。確かにそこには他の本棚とは違う形状のものがあった。何が違うかというと、食器棚のようなガラス張りの扉が付いている点だ。金色の取っ手には何やら凝った細工が施されているのが遠目にもわかる。中に入っている本も背表紙がきちんとした大きなものばかりで、ここ数年の間に用意された代物ではないことが感じられた。
「まあ、あの本棚はあんま関係ないっちゃけどね。問題はその後ろ」
「後ろ?」
志織は視線を本棚から茜に戻した。ハードカバーの本に付属している栞紐を開いていたページに挟み、本を閉じる。
「お、聞く気でてきました?」
茜が嬉しそうな声を上げる。志織は外していた腕時計を手首に付け、床に置いた鞄の中を整理し始めた。
「面談まであんまり時間もないし、どうせ喋りたくて仕方ないんでしょ」
「そうなんよ。今までこんなふうに志織と図書室おったことなかったけん話す機会なかったっちゃん」
「ついさっきまで忘れとったっちゃん、の間違いじゃないの」
「まあそうとも言う。聞いたの去年の引き継ぎんときやったし」
「そういえばガラにもなく図書委員長だったね」
「なんと。あたしほど本を愛してる人なかなかイナイヨ」
「理系なのにね」
去年の引き継ぎ、要するに十月のことだ。それまで帰宅部として自由な放課後を享受していた彼女は、中学で同じ部活の先輩だったという当時の図書委員長にまんまと目を付けられ、今に至っている。当然、任期は三年の十月まで。にもかかわらず生徒会のメンバーとも楽しげに活動している姿からは面倒くさいとかそんな負の感情は読みとれない。それには彼女の性分もあるのかもしれないが、そのときまで図書室に足を踏み入れたこともなかった彼女が足繁く通うさまを見て、人って変わるもんだなと志織は独りごちた。
「じゃ図書委員長さん。話聞いてあげるからこれ元あった場所に返してきて」
「えー。そんぐらい自分でしいよー。てか借りんと?」
「借りたら勉強しなくなるから。そろそろしなきゃまじやばい。絶対、面談でも期末と模試のこと言われる」
「そういやケツりよったもんね。数学のαかβ」
「αね。言い訳がましいけど、αは平均が欠点だったし。βのほうは私、平均二十点以上超えてたもん。それに茜にだけは言われたくない。私はあと一点だった」
「一点の重み~」と笑いながら茜は志織の読んでいた本を返すため席を立った。素直な反面、正直すぎる彼女のことをとやかく言う者もいるが志織はそんな陰で罵る輩より断然彼女のほうが好きだった。また、「ケツる」というのは「欠点をとる」の略語であり、定期考査で各科目個々に四十点未満の点数をとった者には試験後、自身の成績カードに赤字で点数が描かれて返却されるというシステムがある。つまり赤点のことだ。
期末考査には中間考査と違い、日常の提出物や授業態度を鑑みた点数が上乗せされるため、解答用紙には〈39〉と無情にも描かれてしまった者でも成績カード上では〈50〉などという点数になって命拾いする者が出る。志織もそのうちの一人であるが、ここでも四十点未満であると次のテスト前に一週間の強制収容――補習が待っている。通称「バカ補」といわれるその補習の経験はいくら茜にもないが、クラスのラグビー部や柔道部などという根っからの運動部であるメンツには常連が多い。
「ありがと」
「どーいたしまして」
本を言われた通り元あった場所に返して再び正面に座った茜に、志織は腕時計の文字盤を見ながら話を切り出した。
「あと五分で話してね。それ以上はムリ」
「おっけい」
茜はグッと親指を立てたあと、んんっと喉の調子を整えて話し始めた。
「――あの本棚の後ろにはね、ドアがあるんよ」
「……ドア? なんだ、本棚の後ろになんか仕掛けがあるのかと思った」
「違う違う。こっからは見えんけど、あっこ横から見たらね、人が一人入れるぐらいのスペースがあるっちゃん。そのドアは資料室に続くドアでね。まあ生徒は立ち入り禁止。前ちょっと触ってみたけど、鍵掛かっとって開かんやった。でも、」
「でも?」
「……ある時間だけ、開いとるんやって。図書室が閉まる、五時に」
この高校は生徒完全下校の時間である十九時半、十月から三月の間は十九時まで図書室が開いているというわけではない。十七時にはもう閉鎖されてしまう。その点が納得のいかないところで、志織は茜に何度か自習のためにも時間の延長を掛け合っていた。その甲斐あってか九月からは完全下校の五分前まで延長することに決まっている。さすが口の達者な茜だ。言い方は悪いが「受験生のためにも」などと言って先生たちをうまく丸め込んだのだろう。部活を引退した今、教室に残って勉強しても別にいいのだが、受験生としての自覚が未だにでていないのか、志織のクラスにはやたらと騒がしい生徒が放課後にも教室に残っていた。
「それ、どういう意味」
「さあ。ようわからんけど。先輩は開けてみたんやって。そしたら昼なのに真っ暗で、電気のスイッチも見当たらんくて、もう帰ろうかなって思ったとき」
そこで溜める茜にもどかしさを感じながらも志織は彼女の次の言葉を待った。ゆっくりと開く彼女の唇を見つめる。
「見つけたんやって」
茜は志織の反応を確認しながら舌の上で言葉を滑らせていった。
「資料室の奥に、もう一つのドア」
内緒話をしているように片手を口に当て、彼女は話を続けていく。
「そこだけはドアの隙間から光が漏れとったみたいで、先輩はその光を頼りにドアの前まで行けたって言いよった。鍵も掛かっとらんですぐ開いたって。でもその部屋にね、出たんやって」
「……幽霊?」
面白い話じゃなくて怪談じゃないかと心の中で数分前の彼女を責める。あまりホラーとか怪談話は得意じゃない。ただ志織の場合、それが顔に出にくいのだ。茜もこの手の話は苦手で、修学旅行のときなんかは友だちが本気で作成してきた怖い話に涙目になりながらも最後まで聞いていたのを思い出す。オチは気になるタチらしい。
「どうっちゃろ。……その部屋には窓があったけん資料室と違って明るかったらしい。んで、ドア開けた先には机と椅子があって、その上には一冊の本が置かれとった」
「……それだけ?」
志織は溜めていた息をふうと吐き出した。なんだか拍子抜けだ。ぞぞぞと立っていた腕の鳥肌を撫でる。
「それが、ページが捲られたんやって」
茜の言葉を聞いた瞬間、志織の涙腺が少し緩みそうになったことは彼女にもわからなかっただろう。悪寒が背中にまで広がっていく。
「窓も開いとらんのに、ページが捲られていくんやって」
話者であった茜自身も腕をさすっている。寒気がするのは冷房が効きすぎているせいもあるが、この鳥肌はたった今、話を聞いてからできたものだ。
「それは、」
一呼吸置いて唾を呑み込む。
「怖いね」
「よし。志織の『怖い』頂きました」と茜が小さくガッツポーズを作って笑った。なんだ自分も怖がってたくせに。「いいね!」じゃないんだから私の「怖い」なんてもらってどうすんだ、と志織は少し口を尖らせた。
「ちょっと背すじがぞってするぐらいは怖かろ? ま、先輩もそこで怖くなって逃げ出したって言いよった。あたしに初めて話したって。その先輩も前の図書委員長に聞いたんやったかな。代々図書委員長に伝わる話っぽい。なんかあの本棚見よったら、この話思い出したっちゃん」
「茜のことだから、もう一人で行っててもおかしくないんじゃない」
「まあね。でもそのドアが開いとうときに巡り合わんくてさあ。最近、鍵の置き場がわかったんよ。司書の先生に訊いてみたら、五時に開いとうわけやなくて先生が使ったあとに閉め忘れたんだろうってさ。電気のスイッチもちゃんと奥にあるんやって。プラス入っちゃだめよって言われた」
「つまらんなぁ。大山ちゃん」と溜め息をつく茜の言葉には司書の先生である大山先生への親しみが込められていた。
「先生には、その、捲られてく本のことは言わなかったの」
「うん。だって、大人に言ってもおもんないし。――志織、気にならん?」
そこで彼女の双眸に一筋の光が走ったような気がした。少なくとも志織はそう感じた。楽しくて仕方がないとでも言うように茜が口の端を上げる。
「なるに決まってんじゃん」
怖い話が苦手でも好奇心が旺盛なのは志織も同じだった。そのため遊園地なんかに行ってもお化け屋敷には必ず入らないと気が済まない性格だ。
「よね。やけん明日ぐらいに行こうよ。明日やったらあたしも三者面談あるし。鍵は委員長権限で入手するけん」
「いいわけそれ」
「図書委員長なめんなよ」
「いや別になめてないけど」
そこまで言って、志織は自身の面談時間が迫っていることに気がついた。
「ごめん、私もう行くね。帰りは親の車に乗って帰るんだけど、一緒帰る?」
「いやいいよ。あたしまだせないかんことあるし。引き留めて悪かったね」
「また明日」と互いに手を振り、志織は図書室を後にした。
*
「もうまじ、四者面談やったし。ありえん。超ありえんあのクソ親父」
茜の三者面談もとい四者面談が終わり、図書室へと向かうなか彼女の口から飛び出す罵詈雑言は止まらなかった。志織は進路指導室へ大学要項を見に行った帰りに教室から出てきた木下家御一行と鉢合わせし、彼女の両親から直々に娘を託された次第だ。彼女の父親は仕事がちょうど休みになったらしく、十五分とかからない面談でもあるため軽いノリでついてきたのだという。
「クソとか言いません」
「うんこ親父」
「来てくれてありがとうでしょ」
「頼んどらんのになんで来るんよ。お母さんだけと思いよったのに!」
「可愛い一人娘のためじゃん」
「あたし兄貴おるけどね」
そういえば茜には三つほど年の離れた兄がいると志織は聞いていた。入れ違いになってしまったが彼女の兄もまたこの高校出身である。今は一浪して隣の隣の県の大学二年生だそうだ。
「でもまあ、今お兄さん家にいないんだったら一人娘も同然だよ」
「しょっちゅう帰ってくるけどね」
「か、た、く、な」
「カタカナ?」
「もういいよ」
志織と茜は靴を脱ぎ、それらを靴箱に入れて用意されてある図書室専用のスリッパを履いた。志織の学校では基本、新館や体育館以外はすべて土足だ。そのためスリッパにはあまり慣れていない。しかし歩くときにスリッパを履くことでパタッ、パタッと鳴る軽快な足音が志織は好きだった。
図書室への扉を開けた瞬間、本の匂いと相まって静寂な空気を肌に感じる。受験生ということもあって本を読む時間が確実に減っている今、本棚に手を伸ばさないように我慢するのが志織にはやっとだった。昨日は茜に薦められた本に手を付けてしまったが続きはおそらく受験が終わってからになるだろう。なぜならシリーズものであり、最終巻に行き着くまでに片手では足りないほどの冊数を読まねばならないため、キリがないと判断したからだ。
「鍵借りてきたよー」
「先生に言った?」
「まさか。先生ちょうどおらんやったし。ラッキー」
茜は勝手に拝借した鍵に付いているリングを指にはめ、くるくると鍵を回しながら志織に答えた。
「今日もけっこう人多いね。昨日ほどじゃないけど。変に思われないかな」
「大丈夫大丈夫。あたし図書委員長やし。志織といつも一緒におるの見られとうし、ノープロブレーム」
茜の言う通り、生徒はみな静かに自習か読書をして目の前のことに集中している。その中の一人で見覚えのある装丁の単行本を立てて読んでいる生徒を見つけた。本を立てて読んでいるといっても、角を机上に付けず、その角を片手で持ち上げるようにして綺麗に読んでいる。
(長谷川くんだ)
彼が読んでいる本は志織が続きを断念したシリーズの最終巻だった。一クラス四十人、一学年に十クラス、全校生徒およそ一二〇〇人のこの県立高校で人の名と顔を一致させるのは他人にさして興味のない志織にとっては至難の業であり、加えてSNSにすら参加していないため学校内での世情にも疎い。あの子とあの子が付き合ってるんだよ、あの子とあの子は別れたんだって、などという情報は専ら茜から入ってくる。そんな志織が彼の顔と名を憶えていたのは彼とは一年生のときに同じクラスだったからだ。
(長谷川くん、あの本読むんだ)
野球部に所属していた彼はピッチャーとして二年生のときから活躍していた。野球部は最も過酷で休みのない部活と称されているが、なぜか頭のいい御仁も多く、スポーツもして勉強もできるってなんなん、と茜が以前口を尖らせていたのを思い出す。また、彼と茜は出身中学も同じであるため、彼がこの高校の野球部顧問に当時から目をつけられていた、というどこから仕入れてきたのかわからない情報も同時に教えてくれた。しかし野球部は先週、県予選の三回戦で私立の強豪校を相手に敗退し、惜しくも県大会への出場権を逃していた。彼の正確な成績はクラスが離れているのもあって知る由もないが、志織よりいいことは確かだ。
例の本棚の横まで来ると、なるほど、正面からは見えないが本当にドアがあった。見た感じでは普通のドアである。何の変哲もない、白い壁に設置されたブラウンのドア。茜が鍵穴に鍵を差し込んで回すと、思いの外すんなりドアが開いた。あまりドアを開ける間隔もないため一人ずつ躰を横にしながら中に入っていく。
「やっぱ暗いね。わっ。用意よすぎやろ。どんだけ楽しみにしとったん」
志織がスカートのポケットから小型の懐中電灯を取り出して点けたのを見て茜が笑った。後ろ手にドアを閉めながら「備えあれば憂いなし」と志織が呟く。
「志織っていつもは冷めとうのに時たま面白いよね」
顎の付近で懐中電灯を上に向け「どこが」と志織が自身の顔を映し出すと「そういうところが」と茜が再び声を出して笑った。
資料室の中は真っ暗だった。冷房も効いていないため、むわっと蒸し暑い空気が二人の躰を包み込む。懐中電灯の光の筋に見える埃のせいで余計に中の空間が埃っぽく感じられた。空気の入れ換えも特にしていないのか、やけにカビ臭い。
「あ、あれかいな。奥に続く扉って」
床に置いてある段ボールやファイルがぎっしり敷き詰められた棚をよけながら奥に進んでいくと、隙間から光が漏れ出ている扉を見つけた。その扉の横には電気のスイッチもある。茜がそのスイッチを点けるとブンという蛍光灯の点いた鈍い音が聞こえた。途端に視界が明るくなり、瞬きを数回繰り返しながら目をすぼめる。
志織が手に持っていた懐中電灯のスイッチを消すと同時に茜はその扉をなんの躊躇いもなく開けた。些か彼女のその行動にびっくりしたが、次の瞬間目の前に広がった空間を見て志織は少しの間何も考えられなくなった。
図書室と同じ白いリノリウムの床。ブラインドの上がっている窓が向かいに一つ。教室にある机とは違う、ダイニングに置いてあるようなベージュのテーブル。それと対に思われる椅子が一つ。そして本が一冊と、それを読んでいる――ひと。
そこにいたのは、一人の男子生徒だった。この学校の制服を着ている。怪訝に思ったのは彼が冬服である学ランを身につけていることだ。背中に汗が伝っていくほど部屋の中は蒸し暑い。どこからか蝉の鳴き声も聞こえてくる。
彼は顔を上げて志織たちを認識したあと、興味はないとでも言うように視線を再び本に戻した。
「ほんとに、誰もおらんのに、ページが捲られてく」
茜の呟きが聞こえたのか、彼はページを捲ろうとしていた手を止めた。
「……茜、見えないの」
「え、志織なんか見えると?」
「いるじゃん、ヒト」
茜は志織と彼のほうを交互に見て一瞬間を置いたあと、「はあ!?」と短く叫んだ。
額に汗が浮かんでいくのを感じ、タオル地のハンカチを取り出してそれを拭う。懐中電灯を握りしめていた手のひらにもじわじわと汗が滲んできている。今はちょうど昼の二時。大気が最も温められる時間帯であり、ブラインドの上げられた剥き出し状態の窓からは容赦ない日射しが部屋の中へと入ってきていた。図書室がある新館の立地と今まで歩いてきた道順から考えてみると、この窓は南向きに作られていると思われる。
「落ち着こう。少し落ち着こうか」
「まず茜が落ち着こうか」
志織も十分に驚いていたが茜の動揺の仕様は志織のそれを搔き消すほどに凄まじかった。頭を抱えながら「ほんとに? ガチで幽霊? え、でもなんで志織にだけ見えるん」と口の中で何やらぶつぶつ言っている。
「俺が見えると?」
志織は目線を茜から声かけられたほうへゆっくりと移した。声の主が頬杖をつきながら顔をこちらに向け、志織のことをじっと見つめている。志織はその返事として二回ほど首を上下に小さく振った。茜が「なんか訊かれたと?」と志織に耳打ちする。それにも首を縦に振って答える。
彼は目をしばたかせながら「へえ」と声を発した。
「こーゆーこともあるったい」
彼が開いていた本を閉じ、椅子から腰を上げるという一連の動作を志織は不思議な気持ちで見ていた。座っていた姿勢からはよくわからなかったが彼の背は見上げるほどに高い。志織から一歩ほどの距離を置いて彼が歩みを止める。
「名前は?」
「え」
「きみの名前」
見ず知らずの、しかも幽霊疑惑が浮上しているヒトにこうも軽く名を訊かれるとは思ってもみなかった。でもなんだろう。彼を見た瞬間から感じる、この、安心感みたいなものは。このヒトが言うことに嘘や偽りはない。証明できるものなんて何もないけれど、確かにそう思える。
志織は震える声を振り絞って彼に自身の名を伝えた。
「立花、志織、です」
「橘?」と彼は首を傾げ、何か考えるように腕を組んだ。
「あ、もしかして立つに花のほうの立花?」
「まあ、はい。そうです」
「じゃあ立花城の末裔さん?」
二年のとき、日本史の先生にも同じことを訊かれた。残念ながら志織の家は戦国武将がご先祖様でも何もない。と志織は思っている。中学を卒業するまでは東京に住んでいたし、父の転勤で高校入学と同時に九州のほうへ越してきたのだ。確かに父の育ちはこの辺りであるが世間一般からみても普通の家庭であるため、彼や先生の言う大友氏の流れを汲む立花氏とはおそらくなんの関係もない。
「いえ、うちは、たぶん無関係です」
「そっか。ちょっと残念。あ、俺は見ての通りここの住人。でも俺が見える人にあったのは初めてやん。なんやめっさ嬉しい。……こちらの固まっとう子は?」
彼は視線を志織から茜に移した。志織が右肘で茜の横腹を突く。
「名前はってよ」
「え? あっ、木下、あ、茜、です!」
この上なく上擦っている茜の声を少しも気にしない様子で、彼は「わかった。アカネちゃんね」と頷いてみせた。
「やっぱアカネちゃんには、俺のことが見えんみたいやね」
「……そう、みたいです」
こうやって彼と普通に会話ができていることも傍から見れば信じがたい話だろうが、事実、話せているのだから見えない者には説明のしようがない。それに茜や彼女の先輩には彼のことが見えなかっただけで、志織以外の人物でも見える人はいるのかもしれない。司書の先生である大山先生なんかはもしかしたら彼のことを知っているのだろうか。彼は今さっき「俺が見える人にあったのは初めて」と言っていたが、まさか先生がこの部屋の存在さえも知らないということはあるまい。
「これからよろしく。シオリちゃん」
目の前に差し出された手と彼の顔を交互に見つめる。人懐こい笑みを志織に向けている彼は志織と同級生のようにも年上のようにも見える。いや、あるいは年下かもしれない。
(て、手汗はいかんだろ手汗は)
志織は右手に握りしめていた懐中電灯を左手に持ち替え、スカートで右の手のひらを拭った。ふうと息をつき、ぎこちない微笑みを向けながら今しがた拭ったほうの手で彼の手を握る。
あれ?
確かに握ったつもりだった。しかし志織の手は彼の手をすり抜け、何もない空を摑んでいた。
何度も何度も握りしめようとしても、握れない。摑めない。この目が映し出しているものに、触れることが、できない。
志織は不安になって彼の顔を見上げた。
彼は少し寂しそうに笑っているだけだった。
蝉の断末魔のような叫びが志織の頭の中で轟々と響いていた。




