呼吸するように生きること
仕事を終えて帰宅し、冷蔵庫の中身を眺める。
余った野菜、卵、わずかに残ったひき肉。
それらをどう組み合わせるかを考えているとき、私は静かに納得した。
これも、創作というものだ。
食材は、すでに誰かの手を経てここにある。
私はそれらを受け取り、自分の感覚で組み合わせ、味を調え、誰かの「おいしい」に変える。
手を動かしながら、私は世界とつながっている。
長らく、私は「創作」という言葉を、特別なものだと思っていた。
絵を描く人、小説を書く人、旋律を紡ぐ人。
そういう人たちだけが、「創る」という営みに手を染めているのだと思っていた。
でも今は違う。
人は、誰しも、日々の中で創っている。
たとえば、日々の営みの中に潜むノイズを整えること。
滞りをほぐし、少しだけ風通しのよい流れをつくること。
誰かの見えない困りごとを、手のひらでなぞるようにほぐしていくこと。
それは、ペンを取らなくても、絵筆を握らなくても、人ができる創作だと思う。
情報を受け取り、感情を受け止め、気づきを取り入れ、
ゆっくりと咀嚼して、何かに変えて差し出す。
それは呼吸に似ている。
吸って、溜めて、吐き出す。
人は日々、インプットとアウトプットを繰り返して生きている。
意識していなくても、すでに世界と関わり、内側を動かし、何かを返している。
アウトプットばかりだと思考が疲弊し、言葉が擦り切れていく。
インプットばかりだと、思考は他人の言葉で膨れ、曇ってしまう。
偏れば、枯れるか、濁るか――どちらにせよ、自分を見失う。
だからこそ、うまく呼吸するんだ。吸って、吐いて。
自分の輪郭が滲まないように。
そう考えると、人間は変換装置のようなものかもしれない。
食べ物も、情報も、感情も。
私たちはそれらを受け取り、自分の中で温度を加えて変えていく。
ときに言葉に、ときに沈黙に、ときに何気ない行動に変えて。
それらの出入りを、「人生」と呼ぶのだとしたら、
私はいま、ちょうどその真ん中を生きている。
誰かの表情がほっとほどけたとき、
私はうまく変換できたのだと、少しだけ嬉しくなる。
宇宙の尺度で見れば、一瞬のことだろう。
けれど私たちはその一瞬を生き、何かを受け取り、何かを残す。
今日もまた、私はひとつ吸って、ひとつ吐き出す。
インプットとアウトプットを繰り返しながら。
呼吸のように、静かに創作しながら。