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第五章:崩壊の序章

■ 健康診断と“想定外”


数週間前のことだった。

会社の年次健康診断で、再検査の案内が届き――精密検査の結果は「初期の胃がん」。

幸いにも早期発見で、内視鏡による切除で済んだ。

命に関わる段階ではなかった。それでも、胸を抉られるような衝撃だった。


もっと大きかったのは――

自分が加入していた住宅ローンの団体信用生命保険に、「がん特約」を付けていなかったという事実だった。

"もし"、あの時に特約を付帯していれば、住宅ローン残高が0になったのだ。


「"もし"、進行がんだったら? "もし"、再発して、働けなくなったら?」


"もし"が止まらなくなった。

この“家”が、一瞬で“足かせ”に変わる可能性に気づいたとき、

住宅ローンはもはや“未来への投資”ではなく、“首輪”のように感じられた。


あの時――契約時に、

「特約を付けると月々の支払いが増える」と言われ、惜しいと思い付帯しなかった。


積立型の生命保険も、数ヶ月前に解約していた。

毎月のキャッシュフローが苦しくなり、元本割れしてでも“現金化”せざるを得なかった。

「掛け捨て型の共済に入り直せばいいや」

そう思っていたが、手続きを面倒くさがって先延ばしにしていた。


――何一つ、備えていなかった。

そして、気づいた時にはもう「かもしれない」ではなく「起きてしまったこと」だった。


手術費や入院にかかった費用は、俺の父が立て替えてくれた。


「何も気にするな。いざという時のために蓄えてきたんだ」


そう言って封筒を差し出す父の手は、年齢以上に大きく、どこか温かかった。

俺は反射的に頭を下げたけれど、本当は――言葉が出なかった。


父は、俺の家庭の事情を詳しくは知らない。

けれど、察していたのだと思う。

妻と子どもの姿が見えないこと。声に張りがないこと。

そして何より、俺の目がどこか虚ろであることに。


「困ってる事があるなら、いつでも言えよ」


ただそれだけ。詮索も、説教もない。

けれど、その一言に、胸の奥の何かが緩んだ。


“守るべき家族”を築いたつもりが、

気付けば――また“守られる側”に戻っていた。



■ 妻の限界


俺の体調を気遣いながらも、妻の様子は明らかにおかしかった。

寝不足。食欲不振。言葉数が減り、笑顔も消えた。

それでも無理に笑い、子どもの世話をし、買い物をし、家計をやりくりしていた。


そしてある日、静かに言った。


「……私、病院に行ってきたの。うつ病って診断された」


家計のこと、子どものこと、そして俺の病気。

全部が少しずつ彼女を削り取り、いつの間にか立っていられないほどにしていた。



■ 単独債務という現実


妻は、子どもを連れて実家へ帰ることになった。

妻の実家は郊外の一戸建てで、しばらく両親の世話になるという。


だが、問題はここからだった。

このタワーマンションの住宅ローン――名義は俺ひとり。

そう、妻は銀行のローン審査では「連帯保証人」にはなっていない。

つまりこの部屋は法的には、幸か不幸か「俺の借金」でしかなかった。



■ 売却という選択肢


手術を終え、職場に復帰した頃には、妻と子どもの姿はもうこの家にはなかった。


最初のうちは、帰宅してもテレビをつけっぱなしにしていた。

寂しさを紛らわせるため――と、自分に言い訳して。

けれど日が経つにつれ、それすらもしなくなった。


家は静まり返っていた。

高級マンション特有の遮音性は、今ではただ孤独を強調する壁でしかなかった。

キッチンに立つこともなく、ソファにも座らず、ただ寝て起きるためだけの箱。


ある夜、カーテン越しに見えた夜景を眺めながら、ふと思った。


「この部屋、俺には広すぎるな」


それは贅沢への後悔ではなく、空虚さへの呟きだった。

ローンの残債が重くのしかかってくる。

この部屋が、家族の“幸せの象徴”だったはずなのに、

今では“誰もいない現実”を突きつける場所になっていた。


「売ろうか…もう、ここにいても仕方ない」


そう決意するまでに、時間はかからなかった。

それは敗北ではなく、ただの現実受容だった。



■ 売却相談と、現実との乖離


「一度、査定してみましょう」


友人に紹介してもらった不動産業者に売却査定を依頼した。

しかし返ってきた数字は、想像以上に厳しかった。


・同じ棟で複数の売却物件がある(価格競争)

・高層階・角部屋ではあるが“築浅中古”というだけで価格は目減り

・問い合わせすら来ない価格設定では意味がない


査定額:8,600万円

諸費用・仲介手数料を差し引いた手取り額:約8,300万円

ローン残債:約9,800万円

差額、マイナス1,500万円


---


「ちなみに今回の売却動機をお聞きしても?」


「いやー、妻が子供の為に自然の多い所に移ろうって言い出して…」


「なるほど!そしたらお住み替えという事ですね!購入物件はお決まりですか?」


その場を取り繕う為に吐いた嘘だったが、売却損を手持ち資金で補えるはずもなく、俺は売却損を次の物件へと上乗せする形でローン審査を進めることになった。



■ 審査の壁と、信用情報の現実


次の仮購入物件(仮):1億円

売却損の補填:1,500万円

合計融資希望額:1億1,500万円


結果は、審査を申し込んだ三行全てで“否決”。


「お勤め先やご年収には問題ないようですが……何か、お心当たりは?」


ある。ありすぎる。

・クレジットカード:限度額まで利用

・リボ払い:残高多額

・消費者金融:複数社から借入中

・自動車ローン:残債あり


住宅ローンの審査においては、信用情報機関を通じて“すべて”が金融機関に筒抜けになる。

融資不可は当然の結果だった…


最初はテンションの高かった不動産営業マンも、

「何か良い方法がないか考えてみます…」の言葉を最後に、連絡が来ることは無かった。

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