第四章:小さなほころび
タワーマンションのロビーに立つと、どこか誇らしい気持ちになった。
けれど、その誇りはいつしか、見えないプレッシャーに変わっていた。
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■ 「タワマンの見栄代」
「○○ちゃん、もうインター入れたの?」
「うちはベビーシッター週2でお願いしてるわよ」
エレベーターでの何気ない会話が、じわじわと家計を侵食してくる。
SNSには、ホテルビュッフェ、外車、新築祝いの花束――。
“普通の生活”の水準が、どこまでも高く感じられた。
妻は、気を張っていた。
ブランドのベビー服、ママ友とのランチ、ちょっとした記念日にも外食。
もちろん、見栄だけじゃない。子どものため。家族のため。
だが、社宅時代の月2万円という家賃からは想像もつかない水準に、生活コストは膨らんでいた。
俺も同じだった。
スーツをオーダーし、時計も買い替えた。
見栄とは思わない。ただ「周りに合わせているだけ」――そう思いたかった。
支払いは、すべてクレジットカード。
キャッシュレスの快感。スマートに見える決済。
俺は、物欲に素直だった。何も考えずに、何でも買える“あのカード”を使い倒していた。
「支払いはボーナスが入ったら払えば良い」
そんな意識だった。先送りにしているつもりはなかった。ただ、目先の欲に応えることで“今の自分”を肯定していた。
だが――
それは、目に見えない借金を、静かに、確実に積み上げているだけだった。
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■ 変動金利の“罠”
ある日、銀行から届いた返済明細を見て、違和感が走った。
「あれ……?元金と利息の割合、前と違う?」
変動金利ローンの仕組みはこうだ。
金利が上がっても、最初の5年間は毎月の返済額は据え置き。
だが、増えた利息分は“元金返済分を圧迫”し、溢れると後回しになる。
結果的に――35年後もまだ返済が終わらないというリスクを孕んでいる。
ローン契約時、営業マンは言っていた。
「大丈夫ですよ。長らく金利は上がってませんし、
今後も急激な変化はないと思いますよ」
当時、固定金利と悩んでいた俺は、
「変動の方が安いですし、今は皆さんそちらを選んでますよ」
という一言に背中を押された。
「でも、金利が上がったら……?」
「まあ、もし返済が追いつかない場合は、後ろに回るだけですから。
資金に余裕ができたら、繰り上げ返済すればOKです!」
――当時は、なんとなく納得したつもりだった。
だが、今になって思う。
そもそも俺は固定金利を選ぶことなんて、最初から“できなかった”んじゃないかと。
変動金利ならギリギリ通るが、固定金利にすると返済比率がオーバーしてローン審査に落ちる。
実際、営業マンに相談した時も、
「……あ、そうですね。固定金利にすると、融資額が少し届かないかもしれません。
差額分、自己資金でもう少し出せそうですか?」
突然の言葉に、心臓がドクンと跳ねた。
「(……無理だ)」
「じゃあ……変動でいきます」
それが、あのとき俺が選んだ“答え”。
いや、“選ばされた現実”だった。
固定金利にする余裕資金は、俺にはなかった。
だけど本当は――憧れのタワマンに住みたかった。ただ、それだけだったのかもしれない。
変動金利という名の“賭け”に、気づかぬうちに身を委ねていた。
そのリスクがどれほどの重さを持つかを、まだ俺は知らなかった。
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◆そもそも、年収の10倍もの住宅ローンという時点で、すでに無理がある。◆
住宅ローンの借入額の目安は、一般的に「年収の6~7倍程度」とされている。これは、金利上昇や収入減少といった将来的なリスクをある程度織り込んだ“安全圏”だ。
だが、主人公はその限度を大きく超えた。
さらに問題だったのは、毎月の住居関連費用――ローン返済、管理費、修繕積立金、駐車場代など――これらが、手取り月収の50%を優に超えていたことだ。
生活費、教育費、保険、突発的な支出。それらを支える余力など、どこにも残されていない。
こうなると、家計は“綱渡り”だ。
金利のわずかな変動。妻の育休。子どもの進学。想定外の出費。
たったひとつ、どこかの歯車が狂っただけで、家計は音を立てて崩れていく。
そして実際、それは思ったよりも早く――静かに、だが確実に始まったのだ。
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■ わずかなズレが、深い亀裂になる
修繕積立金が上がった。
学資保険を解約した。
ボーナスが減った。
住宅ローンの金利も、わずかに上がった。
だが、それだけで全てが崩れるわけじゃない。
少しずつ、じわじわと、気付かぬうちに。
気付けば、クレジットカードはリボ払い。
キャッシング枠はすでに使い切っていた。
次に手を出したのは――消費者金融のカードローンだった。
「一時的に借りるだけ」「給料ですぐ返せるから」
そう言い訳をしながら、金利18%の借金に手を染めていく。
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◆リボ払い――その実態は“分割払いの皮を被った高金利ローン”だ。◆
18%という金利は、住宅ローンとは比較にならない程、高い。
月々の支払いが軽くなる分、元本がまったく減らない。
どれだけボーナスで補填しても、利息と最低支払い額で帳消しにされる。
「払えども、減らない」――それがリボ払いの本質である。
さらに、消費者金融のカードローン。
「限度額30万円。最初は少額だから大丈夫」――そう思わせる入り口がまた巧妙だ。
「ポイント還元」「キャッシュバック」――
甘い言葉に彩られたキャンペーンの数々。
賢く使えばお得――そう信じていた。
だが実際は、“逃さない仕組み”が最初から仕組まれていたのだ。
主人公は、知らず知らずのうちに、現代資本主義の巧妙な罠、
消費を加速させる“蟻地獄”へと落ちていった――。
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■ SNSと“俺たちの現実”
SNSでは、今日もキラキラした生活をアップしていた。
笑顔の子ども。洒落たレストラン。誕生日の飾り付け。
“普通の幸せ”を演じることで、なんとか自分を保っていた。
けれど、本音を言えば――
「もう、しんどい」だった。
誰に見せるための生活だったのか。
何を守るための支出だったのか。
あのときの“ちょっとした背伸び”は、もう引き返せない高さにまでなっていた。
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■ ふたり目の誕生日と、静かな距離感
今日は長女の3歳の誕生日。
去年の誕生日は、まだ違っていた。
都内の高級レストランの個室にて、両家の親も招いた華やかな席だった。
妻は赤いワンピースに身を包み、笑顔を振りまいていた。
義父はワイングラスを掲げながら言った。
「やっぱり上場企業勤めは違うね」
その言葉が、自分の“選択”を肯定してくれたような気がした。
見栄でも、虚勢でもいい。
家族の前で誇れる自分でいたかった。
けれど、あれから一年。
今年は妻の手作りケーキと、プレゼントは絵本と小さなぬいぐるみ。
夜景の見える部屋には、誰も招かなかった。
こだわりの高級ソファにもたれる妻の横顔は、どこか遠くを見ていた。
無理に笑おうとして、笑えていない。
その空気に気づいて、俺はそっと言葉をかけた。
「もう、無理して笑わなくていいんだよ」
そのひと言が、すべてを語っていた。
虚構の幸せを保ち続けることに、もう疲れ果てていた。
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小さなほころびは、誰にも見えない形で広がっていく。
誰かが責めたわけじゃない。
誰かが悪かったわけでもない。
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◆家計が破綻に向かう典型的な経路は、支出の固定化と柔軟性の欠如にある。◆
住居費が月収の50%を超えた時点で、家計は“耐性のない構造”となる。
本来、住宅ローンを含めた住居関連費は手取り収入の25~30%以内に収めるべきだとされるが、この原則は住宅購入の高揚感にかき消されがちだ。
また、クレジットカードやリボ払い、カードローンといった高利回りの負債が家計に組み込まれた瞬間、資産形成は急速に停滞する。
これらは年利15~18%の“複利で増えるマイナス資産”であり、たとえボーナスで補填しても焼け石に水だ。
生活水準を下げるには「固定支出の見直し」が最も有効だが、心理的ハードルは高い。
特に教育費・交際費・住宅費は、支出の三大聖域と呼ばれ、削減に強い抵抗が伴う。
所得が追いつく前に支出が先に膨らむ「逆累進構造」は、可処分所得を圧迫し、リスク耐性を奪う。
家計の健全性を保つには、“見栄消費”を理性的に切り分け、金融的な視点から生活を再設計する必要がある。