第二章:理想の暮らし
「やっぱり、買ってよかったね!」
引っ越して3週間。
リビングの窓から、東京湾とレインボーブリッジが一望できた。
スカイツリーも、天気の良い日には富士山さえ見える。
まるで絵葉書のようなその景色が、“自分の持ち家”から毎日見えるのだ。
高層階、角部屋。リビングダイニングは20帖超、天井高3メートル。
日当たりと眺望は抜群で、窓はトリプルガラス。
昼も夜も、空間はまるでホテルラウンジのような静けさと高級感に包まれていた。
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■ 優越感と満足感
エントランスにはホテル顔負けのコンシェルジュが常駐し、
宅配やクリーニング、タクシーの手配まで全て対応してくれる。
共用部にはジム、パーティールーム、ゲストルーム、キッズルーム。
「これが、“持つ者”の暮らしなんだな……」
正直なところ、優越感はあった。
同じ年収帯の同僚が郊外の中古マンションを買って喜んでいるのを見て、
内心、「いやいや、せっかくの上場企業勤務めなんだから」と見下していた。
教育環境も充実していた。
住人の多くは、いわゆる“意識高い”ファミリー層。
インターナショナルスクールやプログラミング教室の話が飛び交い、
SNSには日常的にホテルのアフタヌーンティーやパーティーの写真が並ぶ。
「うちの子たちも、ここならしっかり育つ」
そんな安心感すらあった。
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■ 高揚と消費の連鎖
家具はすべて新調した。モデルルームを参考に、統一感のあるインテリアを選び、
ソファは革張り、カーテンはフルオーダー、ダイニングセットも上質な木材製。
総額300万円――ローンではなく、現金で支払った。
さらに、周囲の雰囲気に合わせて、国産の高級ミニバンを残価設定型ローンで購入。
住宅購入では諸費用で約200万円が消え、
気がつけば、貯金は底をついていた。
でも、「今が一番幸せだ」と思っていた。
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◆ 家具と資産価値◆
ここでひとつ、現実的な視点を持っておきたい。
家具は資産ではない。
いくら高額を支払っても、引越し時には中古扱いとなり、売ってもほとんど値はつかない。
一方で、購入時は「家の雰囲気に合う」という理由だけで、何十万~百万円単位が平気で飛んでいく。
マンションや戸建ての資産性を語る前に、
リセール価値がゼロに近いものに大金を投じるリスクは、本来もっと語られるべきだ。
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◆ 残価設定ローンの“罠”◆
また、車の残価設定ローンは、一見お得に見えて非常に危うい。
月々の返済額が抑えられる代わりに、契約終了時には
「追加の支払い」「車の返却(走行距離や損耗で減額)」「ローン組み直し」などの選択を迫られる。
しかも、残価はディーラーが設定した“希望価格”に過ぎず、実勢価格ではないことも多い。
つまり、3~5年後に再ローンや一括支払いができなければ、
「手元に何も残らないまま、ローンだけが繰り返される」構造になる。
この家と車の“ダブルの高額固定負債”は、
のちの主人公にとって、首を絞める綱となって返ってくる。
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■ 「静かな侵食」の始まり
子どもたちは広いリビングで走り回り、妻も嬉しそうに家事に励んでいた。
毎週末は家族でお出かけ。買い物、外食、旅行。
そのたびに写真を撮り、SNSに投稿する。
「幸せな家庭」の象徴のような日々だった。
だが――
ある日、マンションのポストに一通の封筒が届いた。
《修繕積立金 次期改定のご案内》
建物全体の長期修繕計画の見直しに伴い、現在月額1.8万円の積立金を
月額3.2万円へ増額する方針となりました。
「……え?まだ築5年も経ってないよ?」
妻が目を丸くする。
俺も驚いた。だが、どこかで「まぁ仕方ないか」とも思っていた。
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◆ 実はこの“修繕積立金の値上げ”◆
物件購入時の重要事項説明書や長期修繕計画書の中に記載され、購入時にしっかりと説明されていることがほとんどだ。
「10年後をめどに段階的に増額の可能性あり」
「30年後には月額5万円台に達する見込み」
そうした文言は、小さな文字で、しかし確実に明記されている。
だが、契約当時には憧れのタワマン購入に舞い上がっていた。
希望に目が向き、不都合な未来には蓋をする。
この主人公と妻も、例外ではなかった
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■ 総会への“不参加”という沈黙
「管理組合の総会? うーん……出る?」
「まあ、うちが何言ったって変わんないでしょ」
「ていうか、今週末は予定入ってるしね」
俺たちは、そう言って結局、出席しなかった。
議決権行使書も提出せず、そのまま放置した。
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◆ 決議の仕組み◆
マンションの総会では、出席者の議決権の過半数で可決される。
つまり、棄権は事実上“白紙委任”と同じ。反対しない限り、反対とは見なされない。
その結果、住人の半数以上が出席しなくても、
出席した一部が賛成すれば、「全体決議として成立してしまう」。
「よく分からない」「めんどくさい」と言って参加しなかったその瞬間から、
“将来のコスト”は、他人の手によって静かに決められていく。
それでも俺は、まだこの時点では「少し厳しくなるかも」くらいの感覚だった。
まさか、これが破綻への第一歩になるとは――その時は思っていなかった。