第一章:成功者の入口
「ついに、年収1000万円を超えたか……」
35歳の冬。年末調整後の源泉徴収票を見ながら、思わず口元が緩んだ。
新卒で入社した大手上場企業。
社名を出せば誰もが知っているようなグローバルメーカーだった。
営業職として地道に成果を積み上げ、課長職に昇進。
同期の中でも出世組に入り、幸せな家庭も手にしていた。
妻は元受付の明るい女性で、綺麗な顔立ちをしていた。
2人の子どもの育児に日々奮闘してくれている。
朝は妻が子どもを保育園に送り届け、俺は都心のオフィスへ。
同じ毎日を繰り返す中で、どこかで自分に「勝ち組だ」と言い聞かせていた。
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■ 社宅から始まる「住宅購入」のきっかけ
住まいは、会社が用意してくれている社宅だった。
築年数は古いが、3LDKで家賃はたったの2万円。
風呂とトイレは別、駅も近く、都心勤務の会社員としては奇跡的な条件だった。
ただ、どこか“仮住まい”のような空気もあった。
ある日、妻が言った。
「子どもたちが小学校に上がる前に、ちゃんとした家を持ちたいよね」
その言葉に反論する理由はなかった。
家族のことを考えれば当然だし、何より――
「そろそろ“自分たちの城”を構えてもいい頃かもしれない」
そんなふうに思っていた。
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■ タワマンへの憧れ
次第に、湾岸エリアや再開発地域の新築マンション情報を調べるようになった。
不動産のことなんて詳しくない。
わからないことは、すべてネットで調べた。
「住宅ローンシミュレーター」で何度も数字を打ち込み、
大体7500万円くらいなら何とかなりそうだと踏んだ。
「駅直結」「高層階」「眺望」「共有施設充実」――
検索ワードを入れるたびに出てくるのは、どれも憧れの“タワマン”ばかりだった。
「ちょっとだけ、モデルルーム見てみようか?」
軽い気持ちで出かけたその日が、人生の転機だった。
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■ “買えてしまった”1億の物件
物件は都心の湾岸エリア。地上45階建て、制振構造。
コンシェルジュ、ラウンジ、ジム、スカイデッキ、キッズルーム。
最上階近くの角部屋は、日当たりも眺望も完璧だった。
妻が夜景を見ながらつぶやいた。
「ここで子育てできたら、きっと幸せだよね……」
だが、その部屋の価格は約1億円。
「ちょっと背伸びしすぎかも」と言う俺に、
営業マンはニコニコしながら即答した。
「ご年収と勤務先を拝見すると、フルローンでも通ると思いますよ!」
「金利も0.4%台ですし、住宅ローン控除も受けられます。金利も低い今がチャンスですよ!」
ローンについて少しは調べていたが、素人知識だった。
“通るなら問題ない”というのが、そのときの正直な気持ちだった。
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■ 通ってしまう審査、始まる人生最大の契約
事前審査は翌日に承認が降りた。
銀行からは「属性が良いので問題なし」との評価。
借入額:1億800万円
返済期間:35年
変動金利:0.475%(元利均等返済)
月々の返済:約28万円
管理費・修繕費:約4.5万円
駐車場代など含めれば、毎月の固定住居費は約35万円
「払えないわけじゃない。むしろ、このくらいの背伸びが“男の甲斐性”だろう」
妻も、「ここで家族の未来を育てていきたい」と言ってくれた。
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◆だが――
ここに、ひとつの“カラクリ”があった◆
もしこのとき、主人公が固定金利でローンを申し込んでいたら、
返済比率の上限を超えて、そもそも審査は通らなかった可能性が高い。
住宅ローン審査では、年収に対する年間返済額の割合、いわゆる「返済比率」が審査基準となる。
金融機関によって異なるが、おおよそ30~35%を上限に設定している場合が多い。
固定金利は金利が高めに設定されているため、月々の返済額が多く算出され、結果的にこの比率をオーバーしやすい。
ところが、変動金利なら“低金利”ゆえに返済額が抑えられ、数字上ギリギリで通ってしまう。
まさに、“通すための金利選択”が黙示的に仕組まれている構造だ。
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その後、契約は一気に進んだ。団体信用生命保険の加入、管理準備金や修繕積立基金の支払い、登記費用、印紙税――諸費用だけでも200万円以上の現金が消えた。
銀行への事務手数料や火災保険料等、足りない資金は纏めて銀行が貸してくれた。
家具はモデルルームを参考に一式揃えた。
高級ソファにオーダーカーテン。
さらに、周囲に合わせて国産の高級ミニバンを残価設定ローンで購入。
気がつけば、社宅時代に貯めた貯金は引っ越しのタイミングでほぼ消えていた。
“正しいはず”の選択だった。
子どものため、妻のため、家族の未来のため。
――この道の先に、破滅が待っているとは、夢にも思っていなかった。
◆ 変動金利の仕組みとリスク◆
変動金利にはもうひとつ、厄介な仕組みがある。
金利が上昇したとしても、すぐに月々の返済額には反映されない。
これは一見、債務者に優しいように見えるが――そうではない。
多くの金融機関では、「5年ルール」と「125%ルール」という制限を設けている。
•5年ルール:金利が変動しても、月々の返済額は5年間据え置き
•125%ルール:5年後に返済額が見直されるが、最大でも1.25倍までに抑えられる
つまり、実際の金利上昇分を返済しきれない状態が続くと、
支払うべき金利の一部が“後ろ倒し”にされ、元金がなかなか減らないまま、
返済期間を過ぎても支払いが終わらないリスクが生じる。
これは、「未払い利息の先送り(キャピタルロス型)」と呼ばれ、
35年ローンを組んだはずが、40年、45年と返済が終わらないケースもあり得る。
この“時間差でやってくる重荷”を、多くの人はローン契約時に実感していない。
変動金利はあくまでリスクを債務者が負う仕組みであり、
金融機関は金利が上がっても“損をしない”
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◆変動金利の恩恵と転落リスク◆
変動金利は、これまで多くの債務者にとって“恩恵”だった。
2000年代から続く超低金利時代の中で、変動金利型の住宅ローンは金利0.3~0.6%台という“歴史的な安さ”を維持してきた。
支払う利息は抑えられ、同じ年収でもワンランク上の物件が狙える。
現実に、こうした仕組みが「身の丈を超えた住宅購入」を可能にしてきた側面はある。
そして――この主人公も、そのひとりだった。
だが、状況は変わりつつある。
2025年、日銀は長年続けてきた金融緩和策を転換し、ついに利上げを決断した。
まだ初動ではあるが、市場ではすでに「今後10年で変動金利が3%に達する可能性もある」との予測も現実味を帯びている。
つまり――
これまで変動金利によって“得をしてきた層”ほど、
これから“揺り戻しのリスク”にさらされる、ということだ。
固定金利を選んでいれば通らなかったようなローン。
変動だからこそ“通ってしまった”借入金額。
そのツケは、金利が上がった未来に回収されることになる。
低金利の時代に「買えてしまった家」は、
高金利の時代に「維持できない家」に変わる――
それが、変動金利という“諸刃の刃”のもうひとつの顔である。