最終章|火
夜風が、静かな通りをそっとなでていた。
それは冷たすぎず、ほんの少しだけ温かかった。
どこかに焚き火があるのか、だし汁の匂いが鼻をくすぐる。
ここはラヴァールの旧市街。
かつて戦争の焦点となり、何度も燃え、奪われ、守られた場所。
だが今、その面影はほとんど残っていない。
家々の屋根は修復され、店の看板は新しく彫られ、
子どもたちが走り回る音が響いていた。
かつて兵士たちが陣を組んだ石畳の上を、
今は荷車と買い物袋を持った老人たちが行き交う。
通りの端に、一軒の屋台がある。
布の暖簾が、夜風で静かに揺れていた。
木造の台は煤けており、明らかに年季が入っている。
それでも、どこか丁寧に手入れされていた。
屋台の正面に、木の板が掲げられている。
墨で書かれた、かすれた文字がそこにあった。
**らーめん一心**
筆の勢いが強く、丸みが少し不格好で、どこか素人くさかった。
けれど、それが妙にあたたかい印象を残す。
屋台の内側からは、湯が沸く音が聞こえてくる。
麺をほぐす音。器を拭く布の擦れる音。
忙しいというより、“正しく整っている”という時間が流れている。
誰も怒鳴らない。
誰も走らない。
誰も戦っていない。
ただ、ひとつの店が、静かに今夜の一杯を準備していた。
外に出された木の札には、こう書かれている。
> 「あたたかいものが、ひとつでもあれば、それでいい夜もある。」
その言葉は、まるでここで働く者の信条のようでもあった。
この通りにある他の屋台はもう火を落としていたが、
“らーめん一心”の鍋だけは、まだ静かに湯気を立てていた。
△▼△▼△▼△
屋台の奥、鉄鍋から上がる湯気の向こうに、ひとりの男がいた。
ナオ。
かつて剣を持ち、命令で動いていた兵士。
今は、湯を沸かし、麺を茹で、人の腹を満たすために生きている。
その姿には、もう“戦”の気配はなかった。
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鍋の中を見つめる目は静かで、深かった。
味の変化に敏感な舌と、火の気まぐれに慣れた手。
十年という時間が、彼の手付きに積もっている。
一つひとつの作業は地味だ。
出汁を温め、灰を払い、器を蒸す。
それらすべてが、習慣というよりも“祈り”に近い。
鍋の前に立つ時間だけが、ナオをまっすぐに保っている。
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今夜は客がいない。
それでも彼は火を落とさない。
理由は、いつもと変わらない。
「誰かが来るかもしれない」
――そう思うのではなく、
「ここで火を守ることが自分の役割だ」
そう、ただ受け入れている。
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ナオはふと、片手で暖簾を押し上げて外を見た。
風が通り、夜空に小さな星がまたたく。
彼の目は、遠い何かを探しているようだった。
十年前、すべてを失ったと思っていた。
戦争のあと、自分は何者にもなれないと信じていた。
でも今、彼の手には“形”がある。
一杯のラーメン。
それを求めて来る誰か。
静かに流れる一夜。
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屋台の隅には、古びた器が並んでいる。
その中のひとつ、小さな欠けのある丼を手に取った。
一番最初に仕入れた器。
最初の夜に、ユーマと一緒に話した夢を思い出しながら選んだやつだ。
「やれているのでしょうか....」
小さな声で、誰にも聞こえないように呟いた。
それは、約束でもなければ、決意でもない。
ただ、生き残った側がする“応答”だった。
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湯気がまた、静かに空へと立ちのぼる。
火は、まだ消えていなかった。
△▼△▼△▼△
その夜、客は最後まで来なかった。
ナオは、静かに火を落とし、
器を一つひとつ洗いながら、窓の外を見た。
空には雲がかかり、星は見えなかった。
だが、音のない夜が広がっていた。
この静けさを、かつては恐れていた。
今は、それすらも受け入れられるようになった。
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片付けを終えると、ナオは屋台の奥にある木箱を開けた。
布にくるまれた一枚の紙。
それは、十年間、彼の手元にあった。
一度も開いていないわけじゃない。
何度か開いて、何度も畳んだ。
でも、今夜はなぜか、“読む”ために開いた気がした。
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指先が、紙の端をそっと持ち上げる。
経年のしわと折れ目。
乾いた血の跡。
墨のかすれた文字。
**らーめん一心**
その下には、材料の一覧。
スープの分量。
仕込みの順序。
どれも、もう頭に入っている。
実際の店は、紙に書かれた通りになっていないところも多い。
でも――
ユーマの字がそこにある。
彼の考えた味が、そこにある。
“夢”が、紙に残っている。
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ナオは、声を出さずに笑った。
あのとき、渡されたこの紙が、
戦争の中で唯一、“残ったもの”だった。
仲間も、隊も、国も、
多くは消えていった。
でも、この紙だけが、生き延びた。
---
夜が深くなる。
ナオは紙を畳み、丁寧に元の布に包んだ。
木箱に戻しながら、ふと呟いた。
「……もうちょっとだけ、続けるからな」
誰に向けた言葉でもない。
でも確かに、誰かに届いているような気がした。
そして彼は、また湯を沸かす準備を始めた。
火は、まだ必要だと思った。
△▼△▼△▼△
その夜、店じまいをしようとしたときだった。
暖簾の外に、小さな足音が止まった。
ナオが顔を上げると、背の低い若者が一人、戸口に立っていた。
肩に小さな袋を担ぎ、服は薄く、手には土の汚れがついていた。
目元には疲れと、言葉にならない迷いがあった。
でも、なにより――その顔には、かつての自分とよく似た“空白”があった。
「……もう閉めてますか」
低く、少しだけ震えた声だった。
ナオは、少し間を置いて言った。
「いや。まだ火は落としてません」
若者は少し驚いたように目を見開き、
そして、ゆっくりと暖簾をくぐった。
---
席に着いた彼は、じっと湯気の立つ鍋を見ていた。
何も聞かない。
何も語らない。
ナオもまた、何も問わなかった。
ただ、火を入れ直し、麺を茹で、
少し濃い目にスープを作った。
「熱いですから、ゆっくり」
一杯のラーメンが、目の前に置かれる。
若者は、箸を持つ手をかすかに震わせながら、
そっと、最初の一口をすすった。
湯気の中で、彼の目がじわりと潤むのが見えた。
ナオは、見ていないふりをして、器を拭いていた。
---
「……なんで、ここでラーメンを?」
ふいに若者が口を開いた。
声はまだ不安定で、言葉を選びながら話す。
ナオは、しばらく考えて、
答えにならない言葉を選んだ。
「……昔、約束したんですよ。
誰かと、一緒にラーメンを作ろうって」
若者は、それ以上何も聞かなかった。
でも、ナオの言葉が、どこかで届いた気がした。
---
帰り際、若者はもう一度頭を下げた。
「ありがとうございました」とだけ残し、
夜の通りへと消えていった。
ナオは、その背中を見送ったあと、
店の隅に置かれた小さな木箱に目をやった。
あの紙がある場所。
(いつか、あいつに渡す日が来るかもしれない)
そう思った。
確信ではなかった。
でも、それで十分だった。
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火はまだ、灯っていた。
そしてその夜、ナオは初めて――
「この店は、俺ひとりのものじゃないのかもしれない」と思った。
△▼△▼△▼△
夜が深まっていた。
屋台の火は落とされたが、炭の赤みはまだ完全には消えていない。
微かに明るいその色が、闇の中でほのかに呼吸していた。
ナオは椅子に座り、背を壁に預けて空を仰いだ。
雲はすでに流れ、星がいくつか顔を出していた。
「十年か……」
そう呟いた声は、自分の喉を通っていったはずなのに、
どこか他人のもののようにも聞こえた。
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ふと、店の隅に置かれた木箱に目をやる。
あの紙はまだそこにある。
開かなくても、中に何が書いてあるかはわかっていた。
でも、“ここにある”という事実だけが、今も彼の背骨を支えている。
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ユーマの顔を思い出す。
最後に見た、あの目。
何も言えなかったけど、すべてを託すような目だった。
ビルの顔も浮かぶ。
不器用で、言葉が少なくて、でもいつも黙って火を守ってくれていた。
みんな消えた。
誰も残っていない。
……でも。
(いや、違う)
火は、残った。
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湯気。
笑い声。
ラーメンをすする音。
この屋台には、あの戦場にはなかった音がある。
誰かを疑わなくていい時間。
誰かと、同じものを“美味い”と笑える時間。
それは、ただの幻じゃない。
ナオは、それを十年かけて、手に入れた。
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風が通り、炭火に残った熱がほのかに赤くゆれる。
燃え盛る炎ではない。
誰かを焼く火でもない。
ただ、そっと、夜を温めるだけの火。
ナオは、目を閉じて、胸の内で呟いた。
「まだ、ここにいるよ」
それは誰への返事だったのか――
今も、はっきりとはわからない。
でも、言えたことが嬉しかった。
---
その夜、空には流れ星がひとつだけ、
ゆっくりと、まっすぐに落ちていった。