表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/6

最終章|火

夜風が、静かな通りをそっとなでていた。

それは冷たすぎず、ほんの少しだけ温かかった。

どこかに焚き火があるのか、だし汁の匂いが鼻をくすぐる。


ここはラヴァールの旧市街。

かつて戦争の焦点となり、何度も燃え、奪われ、守られた場所。

だが今、その面影はほとんど残っていない。


家々の屋根は修復され、店の看板は新しく彫られ、

子どもたちが走り回る音が響いていた。

かつて兵士たちが陣を組んだ石畳の上を、

今は荷車と買い物袋を持った老人たちが行き交う。


通りの端に、一軒の屋台がある。


布の暖簾が、夜風で静かに揺れていた。

木造の台は煤けており、明らかに年季が入っている。

それでも、どこか丁寧に手入れされていた。


屋台の正面に、木の板が掲げられている。

墨で書かれた、かすれた文字がそこにあった。


**らーめん一心**


筆の勢いが強く、丸みが少し不格好で、どこか素人くさかった。

けれど、それが妙にあたたかい印象を残す。


屋台の内側からは、湯が沸く音が聞こえてくる。

麺をほぐす音。器を拭く布の擦れる音。

忙しいというより、“正しく整っている”という時間が流れている。


誰も怒鳴らない。

誰も走らない。

誰も戦っていない。


ただ、ひとつの店が、静かに今夜の一杯を準備していた。

外に出された木の札には、こう書かれている。


> 「あたたかいものが、ひとつでもあれば、それでいい夜もある。」


その言葉は、まるでここで働く者の信条のようでもあった。


この通りにある他の屋台はもう火を落としていたが、

“らーめん一心”の鍋だけは、まだ静かに湯気を立てていた。


                △▼△▼△▼△


屋台の奥、鉄鍋から上がる湯気の向こうに、ひとりの男がいた。


ナオ。

かつて剣を持ち、命令で動いていた兵士。

今は、湯を沸かし、麺を茹で、人の腹を満たすために生きている。


その姿には、もう“戦”の気配はなかった。


---


鍋の中を見つめる目は静かで、深かった。

味の変化に敏感な舌と、火の気まぐれに慣れた手。

十年という時間が、彼の手付きに積もっている。


一つひとつの作業は地味だ。

出汁を温め、灰を払い、器を蒸す。

それらすべてが、習慣というよりも“祈り”に近い。


鍋の前に立つ時間だけが、ナオをまっすぐに保っている。


---


今夜は客がいない。

それでも彼は火を落とさない。

理由は、いつもと変わらない。


「誰かが来るかもしれない」

――そう思うのではなく、

「ここで火を守ることが自分の役割だ」

そう、ただ受け入れている。


---


ナオはふと、片手で暖簾を押し上げて外を見た。


風が通り、夜空に小さな星がまたたく。

彼の目は、遠い何かを探しているようだった。


十年前、すべてを失ったと思っていた。

戦争のあと、自分は何者にもなれないと信じていた。

でも今、彼の手には“形”がある。


一杯のラーメン。

それを求めて来る誰か。

静かに流れる一夜。


---


屋台の隅には、古びた器が並んでいる。

その中のひとつ、小さな欠けのある丼を手に取った。


一番最初に仕入れた器。

最初の夜に、ユーマと一緒に話した夢を思い出しながら選んだやつだ。


「やれているのでしょうか....」


小さな声で、誰にも聞こえないように呟いた。


それは、約束でもなければ、決意でもない。

ただ、生き残った側がする“応答”だった。


---


湯気がまた、静かに空へと立ちのぼる。


火は、まだ消えていなかった。


                △▼△▼△▼△


その夜、客は最後まで来なかった。


ナオは、静かに火を落とし、

器を一つひとつ洗いながら、窓の外を見た。


空には雲がかかり、星は見えなかった。

だが、音のない夜が広がっていた。

この静けさを、かつては恐れていた。

今は、それすらも受け入れられるようになった。


---


片付けを終えると、ナオは屋台の奥にある木箱を開けた。


布にくるまれた一枚の紙。

それは、十年間、彼の手元にあった。


一度も開いていないわけじゃない。

何度か開いて、何度も畳んだ。

でも、今夜はなぜか、“読む”ために開いた気がした。


---


指先が、紙の端をそっと持ち上げる。


経年のしわと折れ目。

乾いた血の跡。

墨のかすれた文字。


**らーめん一心**


その下には、材料の一覧。

スープの分量。

仕込みの順序。


どれも、もう頭に入っている。

実際の店は、紙に書かれた通りになっていないところも多い。

でも――


ユーマの字がそこにある。

彼の考えた味が、そこにある。

“夢”が、紙に残っている。


---


ナオは、声を出さずに笑った。


あのとき、渡されたこの紙が、

戦争の中で唯一、“残ったもの”だった。


仲間も、隊も、国も、

多くは消えていった。

でも、この紙だけが、生き延びた。


---


夜が深くなる。

ナオは紙を畳み、丁寧に元の布に包んだ。

木箱に戻しながら、ふと呟いた。


「……もうちょっとだけ、続けるからな」


誰に向けた言葉でもない。

でも確かに、誰かに届いているような気がした。


そして彼は、また湯を沸かす準備を始めた。


火は、まだ必要だと思った。


                △▼△▼△▼△


その夜、店じまいをしようとしたときだった。


暖簾の外に、小さな足音が止まった。

ナオが顔を上げると、背の低い若者が一人、戸口に立っていた。


肩に小さな袋を担ぎ、服は薄く、手には土の汚れがついていた。

目元には疲れと、言葉にならない迷いがあった。

でも、なにより――その顔には、かつての自分とよく似た“空白”があった。


「……もう閉めてますか」


低く、少しだけ震えた声だった。

ナオは、少し間を置いて言った。


「いや。まだ火は落としてません」


若者は少し驚いたように目を見開き、

そして、ゆっくりと暖簾をくぐった。


---


席に着いた彼は、じっと湯気の立つ鍋を見ていた。

何も聞かない。

何も語らない。


ナオもまた、何も問わなかった。


ただ、火を入れ直し、麺を茹で、

少し濃い目にスープを作った。


「熱いですから、ゆっくり」


一杯のラーメンが、目の前に置かれる。


若者は、箸を持つ手をかすかに震わせながら、

そっと、最初の一口をすすった。


湯気の中で、彼の目がじわりと潤むのが見えた。

ナオは、見ていないふりをして、器を拭いていた。


---


「……なんで、ここでラーメンを?」


ふいに若者が口を開いた。

声はまだ不安定で、言葉を選びながら話す。


ナオは、しばらく考えて、

答えにならない言葉を選んだ。


「……昔、約束したんですよ。

誰かと、一緒にラーメンを作ろうって」


若者は、それ以上何も聞かなかった。

でも、ナオの言葉が、どこかで届いた気がした。


---


帰り際、若者はもう一度頭を下げた。

「ありがとうございました」とだけ残し、

夜の通りへと消えていった。


ナオは、その背中を見送ったあと、

店の隅に置かれた小さな木箱に目をやった。


あの紙がある場所。


(いつか、あいつに渡す日が来るかもしれない)


そう思った。

確信ではなかった。

でも、それで十分だった。


---


火はまだ、灯っていた。


そしてその夜、ナオは初めて――

「この店は、俺ひとりのものじゃないのかもしれない」と思った。


                △▼△▼△▼△


夜が深まっていた。


屋台の火は落とされたが、炭の赤みはまだ完全には消えていない。

微かに明るいその色が、闇の中でほのかに呼吸していた。


ナオは椅子に座り、背を壁に預けて空を仰いだ。

雲はすでに流れ、星がいくつか顔を出していた。


「十年か……」


そう呟いた声は、自分の喉を通っていったはずなのに、

どこか他人のもののようにも聞こえた。


---


ふと、店の隅に置かれた木箱に目をやる。


あの紙はまだそこにある。

開かなくても、中に何が書いてあるかはわかっていた。

でも、“ここにある”という事実だけが、今も彼の背骨を支えている。


---


ユーマの顔を思い出す。


最後に見た、あの目。

何も言えなかったけど、すべてを託すような目だった。


ビルの顔も浮かぶ。

不器用で、言葉が少なくて、でもいつも黙って火を守ってくれていた。


みんな消えた。

誰も残っていない。

……でも。


(いや、違う)


火は、残った。


---


湯気。

笑い声。

ラーメンをすする音。


この屋台には、あの戦場にはなかった音がある。

誰かを疑わなくていい時間。

誰かと、同じものを“美味い”と笑える時間。


それは、ただの幻じゃない。

ナオは、それを十年かけて、手に入れた。


---


風が通り、炭火に残った熱がほのかに赤くゆれる。


燃え盛る炎ではない。

誰かを焼く火でもない。

ただ、そっと、夜を温めるだけの火。


ナオは、目を閉じて、胸の内で呟いた。


「まだ、ここにいるよ」


それは誰への返事だったのか――

今も、はっきりとはわからない。


でも、言えたことが嬉しかった。


---


その夜、空には流れ星がひとつだけ、

ゆっくりと、まっすぐに落ちていった。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ