第四章|戦場
停戦の終了は、想像よりも静かだった。
朝の霧がまだ地面に残る頃、伝令の兵が紙束を手に現れた。
それは誰にとっても、特別な報せではなかった。
昨日のパンの配給と同じように、乾いた事務の一つに過ぎなかった。
「命令、下る。明朝より再進軍。標的、ラヴァール方面。準備せよ」
それだけだった。
誰も驚かない。
誰も叫ばない。
ただ、一人また一人と、荷をまとめていく。
磨かれた剣の音、ベルトを締める音、誰かの小さなため息だけが、静かに風に混じった。
---
ユーマは、革袋に水を詰めながら空を見た。
空はよく晴れていた。
白い雲ひとつない。
それが、どこか嘘くさく思えた。
(また……か)
心の底で、ひび割れるような音がした。
戦争が始まるとき、人は必ず何かを失う。
それが命か、言葉か、あるいは人間らしさか――。
自分は、すでにいくつも失ってきた。
前線で死んでいった仲間。腹を裂かれた新人。
雨の中、震えながら最期を看取った年老いた従軍医。
名前すら覚えていない奴らの顔だけが、妙に鮮明に焼きついていた。
(どれだけ喪っても、慣れねぇんだよ)
でも、まだ残っているものがある。
胸ポケットの中――小さく折りたたまれた一枚の紙。
“らーめん一心”と書かれた、たったそれだけの紙切れ。
それを指でなぞると、少しだけ息がしやすくなった気がした。
ここではあり得ない感触。温度。質感。
まるでそれだけが、自分を“あの場所”に繋ぎとめている。
(まだ……作ってねぇんだよな)
---
「……半年前と同じルートだな。」
ビルが火の前で煙草に火をつけ、吐き捨てるように言った。
「また、ですか……」
若い兵が呟いた。
名前は知らない。隊に来て三週間ほどの、痩せた青年だった。
彼の手は、微かに震えていた。
剣の鞘を握り直す様子に、周囲の兵は目を逸らした。
誰も「大丈夫か」とは言わない。
“慣れ”という名の冷たさが、ここでは礼儀だった。
「どうせ取り返しても、また取り返される。
そうして、誰も何のために戦ってるかわからなくなる。
それが“戦争”だ」
ビルのその台詞に、誰も反論しなかった。
火の中で小枝がはぜた音だけが響く。
ユーマはその言葉を聞きながら、目を閉じた。
(忘れないようにしなきゃな……俺は、何のために戦ってるか)
呟いた声は小さく、風にさらわれていった。
△▼△▼△▼△
そのころ、ナオもまた行軍の準備をしていた。
整列した部隊の中で、彼は背筋を伸ばして立っていた。
装備の点検、指の運動、靴紐の確認。
それは彼のルーティンだった。
混乱しないための、“秩序の儀式”。
でも、その日だけは違っていた。
ポケットの中――ユーマから受け取った紙の存在を、彼は常に意識していた。
それは熱を持っていた。
触れていなくても、手のひらにその感触が残っていた。
(また、誰かを殺すんだろうか)
自問は無音のまま、彼の内側に落ちていく。
声にすれば崩れそうだった。
だから、言わなかった。
隣の兵士が、唇を噛みながら自分の盾に小さく祈るのが見えた。
その手が、指先だけ震えている。
ナオは目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
霧の匂い。汗の匂い。鉄と油と血の記憶。
(……でも、行くしかない)
目を開けると、空は青かった。
その不釣り合いな景色だけが、ひどく現実味を持っていた。
霧がまだ重たく残る朝だった。
湿気を含んだ空気が肺の奥まで入り込み、誰もが無言になった。
音がこもる。足音、甲冑の擦れる音、呼吸さえも。
その中を、ユーマの隊が進んでいた。
革鎧の重さが、いつもより肌に貼りつく気がする。
喉が乾いているのに、唾を飲む気にもなれなかった。
(嫌な空気だ……)
目の前の霧が薄れていく。
それだけで、鼓動が一拍速くなる。
足音が小さくなる。誰かが息を止める気配がした。
胸ポケットに手を添える。
紙の感触。
“らーめん一心”の文字が、そこにあると思うだけで、ほんの少しだけ体が動いた。
(まだ食べてすらいねぇぞ.....)
何度も思い返した言葉。
その繰り返しだけが、自分を壊さずに済ませてくれている。
△▼△▼△▼△
「敵影……前方、接近……!」
斥候の声が割れた。
隊が一斉に停止する。
盾が前に出され、剣が抜かれ、列が整う。
その瞬間、空気が変わった。
戦闘前特有の“あの空気”――
皮膚にまとわりつくような、緊張と乾いた予感。
ユーマは剣を引いた。
だが、手に重みを感じた。
それは金属の重さではなく、“斬らなければならないという事実”そのものの重さだった。
霧が、わずかに揺れた。
その中に、敵兵が見えた。
---
目が合った。
顔の輪郭。目元。
言葉にならない衝撃が走る。
異国の鎧。
けれど、その中にある表情だけが――
あまりにも、見覚えがあった。
(……いや、まさか)
一歩、二歩、相手が近づくたびに、
ユーマの中でその“不安”が“確信”に変わっていく。
そして、互いの顔がはっきりと見えた瞬間、
口から言葉がこぼれた。
「……ナオ……?」
男の目が見開かれる。
その瞬間、霧の空気が割れた。
「ユーマ……?」
---
時間が止まったようだった。
戦場の音が消える。
剣を構えているはずの手の感覚が薄れる。
剣を振れない。
構えを崩せない。
でも、何もしたくない。
心が止まりそうだった。
「……敵だぞ……」
誰かがそう呟いた気がした。
けれど、それが誰の声かもわからなかった。
ただ、ナオの顔があった。
ただ、それだけだった。
---
剣が動いた。
反射だった。
ナオの剣も、ユーマの剣も。
互いを試すように、軽く交差した。
火花が散る。
だが、それはまるで感情の火花ではなく、
“こんなはずじゃなかった”という絶望の形に近かった。
目が離せなかった。
呼吸が読めてしまう。
距離の取り方までわかる。
それが、何よりも怖かった。
(……お前と戦いたくない)
(でも、退く理由がどこにもねぇんだよ)
---
風が、霧を裂いた。
その奥から、誰かが走ってくる。
怒鳴り声と共に、足音が鋭く響いた。
「ユーマ!! 下がれ!!」
――ビルだ。
ユーマは振り返った。
「違う!! やめろ!!」
だが、その声は空気を貫けなかった。
声を張り上げる。
次の瞬間、刃が振り下ろされていた。
△▼△▼△▼△
視界の端にビルの姿を見た瞬間、
ユーマの思考は一瞬にして空白になった。
刃の軌道が、ナオを断ち切ろうとしていた。
何も考えなかった。
ただ――「間に合え」と願った。
---
飛び込むように走った。
足場の感覚はもう覚えていない。
一歩、踏み込んだその瞬間、
全身が引き裂かれるような衝撃に襲われた。
刃が腹部を裂く音は、まるで濡れた布が破れるようだった。
体の中から熱が逃げていくのがわかる。
皮膚の内側がぬるくなる。
世界が急に、ゆっくりと傾いていく。
(やっぱり、俺はバカだ)
それでも、悔いはなかった。
---
膝をついた。
肩で呼吸をする。
でも、うまく吸えない。
ナオが駆け寄ってくる。
声にならない声で、何か叫んでいる。
その顔を見て、ユーマはふと、昔を思い出した。
---
受験勉強もせず、
インスタントラーメンのレビュー動画を見ていた夜。
洗剤の匂い。
母の手。
「ごめん」と言えなかったあの瞬間。
逃げてばかりだった。
すぐに人のせいにした。
何かが壊れそうになると、冗談に変えた。
でも――この異世界で、仲間ができて、
アレンと笑って、ビルに背中を預けて、
ナオと再会して、“夢”を語れた。
(それだけで、もう十分だったのかもしれない)
---
ポケットの中に、まだあの紙がある。
“らーめん一心”
笑われた。
でも、信じてくれた。
“店を出そうぜ”って、マジで思えた。
それが、
この世界で俺が初めて“本気で何かをしたい”と思った瞬間だった。
---
手を伸ばす。
震える指で、紙をつかむ。
紙は濡れている。
折り目に血が滲んでいる。
でも、ナオなら読める。
きっと、わかってくれる。
(お願いだ……)
声は、やっぱり出なかった。
ただ、渡す。
目を見て、押しつけるように、そっと。
ナオの手がそれを受け取った瞬間、
ユーマは、微かに笑った。
---
何も言えなかったけど――
“託した”ということだけは、伝えられた気がした。
世界が静かに、遠ざかっていく。
ユーマの指から紙を受け取った瞬間、
ナオの中で音のない爆発が起きた。
鼓膜の裏で何かが裂けたような、
心臓が一度止まりかけたような感覚。
空気が、重くなったわけじゃない。
ただ、自分の“内側”が、重くなった。
---
紙は思った以上に軽かった。
けれど、持っていると、呼吸が浅くなった。
それは紙というより、
「お前はこれを捨てることができない」という声そのものだった。
血に濡れていた。
ユーマの体温がまだ残っている気がした。
文字は滲んでいても、読み取れる。
**らーめん一心。**
ふざけた字。手書きの設計図。
調味料の配分表。笑いながら書いたその時間。
それが今、血に染まって、遺言になっている。
---
ユーマの顔を見た。
目は閉じていた。
でも、あの最期の目が、頭から離れない。
言葉にしなくてもわかった。
「生きろ」じゃない。「続けろ」だった。
今ここでナオが泣いたら、
すべてが崩れる気がした。
だから、泣かなかった。
泣けなかった。
泣かないことが、ユーマの意志を受け取ることだった。
---
ビルが剣を握りしめたまま、何も言わず立っていた。
顔を伏せていたが、その肩がかすかに揺れていた。
ナオは、ふと空を見た。
青かった。
静かで、遠かった。
紙を握る手が、無意識に力を込めていた。
一度、ゆっくり折った。
まるでその行為が、自分の背骨をまっすぐにするように感じられた。
---
(これは、夢じゃない)
(現実なんだ)
ナオは、紙を懐にしまった。
音が戻ってくる。
剣の金属音。兵の怒鳴り声。遠くの火薬の匂い。
でも、そのすべてよりも、
今はこの紙の方が、はるかに重かった。
---
「……まだ、終わっていません」
それだけを、小さく口にした。
風がそれを運んだかどうかはわからない。
けれど、その一言が、
“戦争の中に灯る小さな火”になった気がした。