第三章|交差
風が止まった午後だった。
空は雲ひとつなく、陽射しがじりじりと鎧の隙間を焼いてくる。
だが、その重さすら今はありがたかった。
ここは殺しの場ではなく、“一時の静けさ”を許された場所だった。
ラヴァールの取り合いが始まって一年。
川の向こうにある小さな町をめぐって、二国の軍は睨み合いを続けている。
その中間に設けられた共同補給地――「走り井」。
天然の湧き水が出るその場所は、中立地帯として定められていた。
条件は一つ。
**軍服を脱ぎ、名前を名乗らないこと。**
陣営が交わればすぐに戦火が戻る。
だから、誰もが素性を隠して水を汲みに来る。
数日だけの停戦。その、たった一滴の“静寂”だった。
ユーマは革鎧の上着を脱ぎ、背負っていた水袋を肩から降ろす。
そして、井戸の縁に腰掛けて水をすくった。
「……冷てぇ」
口に含んだ水が喉を冷やす。
戦場の中で、こんなにも澄んだものを飲めるなんて。
それだけで、今は“平和”の真似事ができる。
そのときだった。
井戸の向こう――少し離れた影に、一人の男が座っていた。
石の上に膝を立て、帳面に何かを記している。
装備は簡素で、髪型は現地の兵とは少し違う。
(……あれ?)
直感が囁いた。
あいつ、日本人じゃないか?
一歩踏み出しかけて、躊躇する。
でも、疑いは確信に変わりかけていた。
そして、なぜかそのとき言葉に出たのは――
「“走り井”ってやつか?」
相手がゆっくりと顔を上げた。
その目を見た瞬間、ユーマの中で何かが弾けた。
「……はい。あなたも、知ってるんですか?」
日本語だった。
忘れていた、音の感触が一気に脳に流れ込んできた。
「マジかよ……ホントに、いたんだな」
思わず笑った。
心の奥が、急にゆるんだ気がした。
気を抜けば泣いてしまいそうで、必死に口角を上げた。
男――いや、青年は、軽く笑ってうなずいた。
「ここでは、あまり使わない言葉ですね」
「久々すぎて……ちょっとビビってる。
や、マジで、お前も日本人?」
「はい。田中直樹。けど、ここでは“ナオ”と呼ばれてます」
「ユーマ。佐藤悠真。こっちでもそのまんま」
互いに名を名乗ると、変な照れ笑いがこぼれた。
どちらも、本当の名前で名乗ったのは久しぶりだった。
ナオがゆっくりと帳面を閉じ、膝の上で手を組んだ。
ユーマはその隣に腰を下ろし、井戸の縁に肘をついて肩を落とす。
「日本語で喋るの、いつぶりだろ……すげえ変な感じ」
「口が勝手に動いてくれて、助かってます」
ユーマが笑った。
「てかさ、何書いてたの?さっきまで」
「……ラーメン屋の計画です」
「は?」
ユーマは口を半開きにした。
ナオは少しだけ照れくさそうに、紙を差し出す。
「……笑わないでくださいよ。
“いつか終わったら”の話を、書いてたんです」
ユーマが紙を受け取り、目を走らせる。
そこには、“らーめん一心”と書かれた屋台の図面。
メニュー一覧、材料の入手法、味玉の作り方まで載っていた。
「マジじゃん……え、これ、屋台から始める感じ?」
「はい。座席はカウンターのみ。スープは二種。塩と醤油。
仕込みの水の硬度も調べてて……ここの井戸は軟水寄りですね」
「お前、天才かよ……」
ユーマは声を出して笑った。
そして、ふと顔を伏せる。
「……あいつがな、ラーメン食いたいって言ってたんだ」
「“あいつ”?」
「アレンってやつ。最初の仲間。
死んじまったけど……一緒にラーメン食べたいって、言ってたんだ」
ナオは静かに目を伏せた。
「……すみません」
「謝んなよ。
……でも、そっから夢になったんだ。
終わったらラーメン食べるって。誰かと、また一緒に笑える場所」
しばらく沈黙が落ちる。
風が吹き抜け、二人の背を冷やす。
ナオが言った。
「……俺、本当は、そんなことできる人間じゃないって思ってたんです。
夢とか、希望とか。俺みたいな人間には、似合わないって」
ユーマは言葉を返さなかった。
ただ、ナオの横顔を見ていた。
「でも、こうして話してると、ほんの少しだけ思います。
“やってもいいのかもしれない”って」
「じゃあ、やれよ。
……俺が先に死んだら、お前がやれ」
ユーマはふざけたように言って、紙を折って胸ポケットにしまった。
「これ、絶対に失くすなよ。
お前の、じゃなくて、俺たちの店の始まりだからな」
ナオは笑いかけて、すぐに目を逸らした。
「……ユーマさん、
そうやって未来の話をするのが、上手ですね」
「お前が下手すぎんだよ。
戦争の中で生きてると、そういうの大事なんだよ」
「はい……」
静かに、息を吐いた。
△▼△▼△▼△
太陽が山の向こうに沈みかけていた。
ユーマとナオは、並んで立ち上がった。
言葉が少しずつ途切れ、空気に“終わり”が漂い始める。
誰も、「また会おう」とは言わない。
次に会うとき、それが“戦場”である可能性を、どちらも理解していたからだ。
「行くわ。……ありがとな、ナオ」
「こちらこそ。……お気をつけて」
ユーマは背を向けた。
ナオも、井戸の反対側へと歩き出した。
お互い、振り返らなかった。
△▼△▼△▼△
焚き火を囲む小さな集まり。
ビルが持ち込んだ干し肉を皆でつまんでいた。
「今日は顔に生気があるな」
ビルの問いに、ユーマは少し考えてから言った。
「知ってる人に会った。……地元のやつ」
「え?」
「地元っていうか……元いた国の」
ビルは口を閉じた。
誰も言葉を差し挟まない。
「ラーメン屋やろうって、話した。
戦争が終わったら。……前にもさ、
アレンともそういう話してたんだよな」
火のはぜる音だけが響いた。
「……ラーメンか」
「あのときさ、俺マジでさ、お前らに食べさせるだけじゃなくてさ、
店出す気でいたんだよ。戦争終わったら....」
小さく笑った。
「……今思うと、すげぇバカみてぇだけどさ。
それでも、そういうバカな話がしたくなるんだよ。
“まだ俺、日本人でいようとしてんのかな”って、思った」
ビルが言った。
「いいことだと思う」
「……かもな」
でも、胸のどこかがざわついていた。
あの別れが、最後だったような気がしてならなかった。
△▼△▼△▼△
記録帳を開いた。
今日の記録――でも、いつもの書き方では言い表せなかった。
筆を止め、考える。
何を話したのか。
どんな顔だったのか。
どうして、こんなにも静かに胸が苦しいのか。
ようやく、こう書いた。
**「夢を語る人間に会った。
そして、それが“他人の話”ではなく、自分の目の前で現実に語られた。
本当は信じてない。“俺なんかにできるわけがない”って、心の奥で思ってる。
でも、今日だけは少しだけ、
“それでもいいかもしれない”と思った」**
ページを閉じて、目を閉じた。
その言葉が、心に残ったまま眠りについた。
「……“らーめん一心”。店名は、悪くないな」