第二章|ナオ
目を覚ましたとき、田中直樹はまず、自分の心拍を数えた。
(1、2、3、4……)
異変に気づくのは早かった。
天井が低い。窓枠は木。室内に電気がない。
ベッドは板。毛布は薄く、粗い。
服が違う。下着も、靴下も、素材が現代とはまるで違っていた。
直樹は布団の中で深呼吸をした。
「……夢、ではないようですね」
冷静に状況を整理し、恐怖や混乱の感情は脇に置いた。
それが彼の癖だった。
焦っても何も変わらないなら、まず現実を受け入れる。
△▼△▼△▼△
外に出た。
石畳の通り、見慣れない屋根の形、言語が刻まれた木製の看板。
それでもなぜか、通行人の会話は理解できた。
(言葉は通じる……何らかの補正が働いている?)
騒ぐ人もいなければ、叫ぶ人もいない。
街は、秩序立っていた。
市場では野菜が並び、衛兵が定期的に巡回している。
(治安はそれなりに良好。権力が機能している)
彼は考えながら歩いた。
パニックに陥らなかったのは、子どもの頃からずっと「誰かの役に立ちたい」と思いながら生きてきたからだ。
「……仕事、探さないと」
気づけば、真っ直ぐに衛兵のいる詰所へ向かっていた。
△▼△▼△▼△
「はぁ? 村の者じゃない? またかよ」
中年の衛兵は呆れ顔を隠しもせず、書類に何かを書き込んでいた。
だが、直樹が深く頭を下げると、態度がやや緩んだ。
「……なんだ、丁寧な奴だな。名前は?」
「田中直樹と申します。……すみません、こちらの制度や土地に詳しくなく、教えていただければ」
「律儀なやつだな。……長ぇから“ナオ”でいい。仕事が欲しいなら傭兵団に行け。今、人足が足りねぇ」
「ありがとうございます、本当に……助かります」
「……珍しいな、感謝するやつなんて。悪いが“ナオ”って名、明日には誰かの墓に彫られてんじゃねぇか?」
衛兵は笑ってそう言った。
けれど直樹はその笑いを受け流した。
脅しでも皮肉でもなく、事実だとわかっていたからだ。
△▼△▼△▼△
傭兵団の拠点は街の外れ、倉庫のような場所だった。
訓練場では数人の若者が剣を振り、甲高い声で号令をかけている。
教官らしき人物が直樹を一目見ると、履歴も聞かずに言った。
「剣、持てるか」
「……触れたことはありませんが、努力はできます」
「なら明日から訓練に混ざれ。死にたくなきゃ、黙ってついてこい」
そのまま革の装備を支給され、木の剣と、パンとスープを手渡された。
「……意外と簡単に“兵士”になれるんですね」
そうつぶやいて、パンをかじる。
固かった。だが、それが“現実”の味だと直樹は思った。
△▼△▼△▼△
──冷静さは、習慣の延長にあった
深呼吸を、三回。
足首を回す。
次に、手の甲を組んで、天井を見ながら十秒。
その“起き方”は、ナオが毎日繰り返してきたことだった。
たとえ目覚めた場所が、見たことのない部屋であっても――
天井が石で、窓枠が木で、外から馬の蹄の音が聞こえたとしても。
それでも、この動作だけは変えなかった。
「……身体の感覚は正常。外傷なし。気分も安定している」
淡々とした声で、自分自身に確認する。
朝一番で“今日の自分”を確かめるのが、ナオの習慣だった。
いつからか、自分が崩れないために必要なことがあるとしたら、
それはルールでも理屈でもなく、**“毎日同じことを繰り返すこと”**だと知っていた。
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彼がこの世界に来て数日が経っていた。
目を覚ました場所は、瓦屋根と白い漆喰壁の建物が並ぶ城下町だった。
通りは広く整えられており、街路樹のような低木が一定間隔で植えられていた。
水路が走り、橋がかかり、人々は列を作って店に並ぶ。
軍服姿の衛兵たちは町の出入口で詰所を構え、通行人の確認をしている。
静かだった。
だが、どこかで“管理されている静けさ”だと、ナオにはわかった。
(この街には、秩序がある。……それと同時に、“自由のなさ”もある)
ユーマがいたロスヴァーンとは、空気が違う。
ここはタール王国。
軍を中心に統治された、規律の国。
偶然か、運命か――
ナオが降り立ったのは、**“秩序”を何より重んじる国だった。**
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傭兵団に志願したのは、現状を理解したうえでの“最善策”だった。
・現地の通貨を持たない
・定職がない者は保護対象にもならない
・無職であれば、窃盗か乞食か、徴用されるかの三択
ならば、衛兵の紹介で傭兵団に登録し、食と寝床を確保する。
それはあくまで、“生き残る”という最低ラインの条件を満たす手段。
「……選んだわけではありません。状況的に、それしかなかっただけです」
そう語るナオの顔は、表情をほとんど動かさなかった。
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訓練は、朝から晩まで続いた。
日が昇る前に点呼。
腕立て百回、走り込み三キロ、剣術の素振り五百本。
午後は槍術・防御・模擬戦。
夜は整備、飯、点呼、消灯。
ナオはそのスケジュールを**「心地よい」とすら感じた。**
やることが明確で、余計な判断を挟まずに済む。
命令に従うだけで一日が終わるのは、ある意味で安心だった。
「ナオ、お前は妙に真面目だな」
教官が言った。
ナオは軽く頭を下げた。
「ご指導のおかげです」
そう返すと、教官は「面白くねぇやつだ」と笑って去った。
ナオは、笑わなかった。
笑う理由がなかった。
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夜、支給された藁布団の上で、日記のような記録をつけていた。
・今日の訓練:午前は疲労が先行/午後は集中が持続
・失敗:模擬戦で敵の動きに気を取られた → 周囲の確認不足
・改善案:相手の肩と腰の動きに注目、視野の中心を固定しすぎないこと
・精神状態:安定。怒り・焦燥なし。夢は見なかった。
最後に、一行だけ。
**「今日も、冷静でいられた。明日も、崩れないように努める」**
書き終えて、息をつく。
部屋の中は薄暗いランプの灯だけが揺れていた。
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しかし、日常は“壊すために”あるかのように、唐突に歪む。
その日、模擬戦中に隣の兵士が倒れた。
顔色は悪く、息も乱れていた。
脱水か、疲労か。
ナオが駆け寄ろうとしたその瞬間――
「動くな、ナオ。
こいつはもう“使えない”。次だ」
教官の声は平坦だった。
地面に倒れた兵士を一瞥するだけで、何の感情も見せなかった。
その兵は、動かなかった。
誰も動かなかった。
見ていた全員が、“命令”を優先した。
ナオも、例外ではなかった。
指示に従い、剣を構えた。
ただ――**胸の奥に冷たい空気が入り込んだ感覚だけが残った。**
(正しい。これは、正しい。
訓練に支障が出るなら、合理的な判断だ。……でも――)
夜、藁布団の中で目を閉じたとき、ふいにその兵の顔が思い浮かんだ。
名前は知らない。
でも、昨日の夕飯でパンを分けてくれた男だった。
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月が出ていた。
光が窓から差し込んで、床に青い影を落としていた。
ナオは、呟いた。
「……このまま、忘れていくのか」
静かだった。
寝息すら聞こえない。
それでも、胸の奥だけがうるさかった。
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ふと思い出す。
祖母と食べた夜のラーメン。
安い醤油味。少ししょっぱくて、熱くて、卵が浮いてた。
(……食いたいな)
それだけだった。
でも、きっとそれが“まだ人間である”最後の証拠なのだと思った。
△▼△▼△▼△
「南の村に逃亡兵が潜伏中。
家ごと調べ、抵抗があれば処理しろ」
命令は、乾いた声で下された。
紙のように軽く、意味だけがぽとりと落とされた。
ナオは、それを無感情に受け取った。
(合理的だ)
逃亡兵は軍を裏切った者。
匿えば、村も敵になる。
反抗するなら処分対象。
彼の中で、すでに判断は終わっていた。
△▼△▼△▼△
森を抜けた先に、集落があった。
十数軒の粗末な家と、畑と井戸。
太陽は傾きかけ、影が地面を伸ばしていた。
風がなく、空気が重い。
「ナオ、この家を見ろ」
分隊長が手で示す。
ナオは無言でうなずき、剣の柄に手をかけた。
戸を開けた瞬間、土と煙の混じった匂いが鼻を刺した。
中は薄暗く、暖炉に火が落ちていた。
奥に、老婆と少年がいた。
老婆は布を体に巻きつけ、震えていた。
少年は、ナオを睨んでいた。
ナオは一歩、踏み出した。
「……逃亡兵を見ませんでしたか」
声は、自分でも驚くほど落ち着いていた。
日常の延長のような、静かな声。
「し、知らない……わたしたちは何も、何もしてない……!」
老婆の声は掠れていた。
泣きそうな目で、必死に訴えていた。
少年がナオの前に立ちふさがる。
「やめろ……ばあちゃんに手ぇ出すな……!」
叫び声。怒鳴り声。
けれど、不思議とナオの頭には入ってこなかった。
(声がうるさい。判断が鈍る。……落ち着け)
それだけだった。
ナオは剣の柄を握りしめる。
そのとき、奥の敷物が動いた。
(反応)
思考が止まった。
体が勝手に動いた。
誰かが飛び出してきた。
男。血まみれの顔。
叫びながら、短剣を振りかざしてくる。
反射だった。
ナオは剣を抜き、斜めに振った。
刃が肉に当たり、骨を裂き、重みが肘に伝わった。
男の体がそのまま地面に崩れる。
血が飛んだ。
少年の叫びが、ようやく耳に入った。
でも意味は理解できなかった。
(処理完了)
ナオは剣を戻し、振り返る。
老婆が泣いていた。
少年が怒鳴っていた。
壁を叩いていた。
でも――ナオの中には、音が入ってこなかった。
まるで、誰かの悲鳴だけがフィルターで遮断されているかのようだった。
「逃亡兵、処理しました。
住民は非武装。拘束の必要はありません」
分隊長に報告。
即座に次の命令が下る。
ナオは歩き出す。
背後の騒音は、すぐに遠ざかった。
△▼△▼△▼△
夜。
手が、震えていた。
剣を握ったときの感触が、まだ残っていた。
ぬるい。
重い。
深くまで入った。
ナオは記録帳を開いた。
だが、何も書けなかった。
あの家のことをどう書けばいいのか、わからなかった。
(殺したのは、逃亡兵だ。命令だった。正しい)
繰り返す。頭の中で。
それでも、手は動かない。
心のどこかで、自分の声が聞こえた気がした。
――やめろ。
あの一瞬、剣を振る直前、たしかにそう叫んでいた。
でも体は止まらなかった。
「……だったら、俺が選んだのか?」
目を閉じた。
ルーティンの呼吸をしても、身体の震えは止まらなかった。
記録帳に、ようやく一行だけ書き込んだ。
「今日も、冷静ではなかった。明日はどうだろうか」
その文字がにじんで見えた。
そして、次の日も剣を握った。
それが“命令”である限り、従うつもりだった。
△▼△▼△▼△
「報告通り、任務完了。処理に不備なし。
逃亡兵の抵抗は確認済み。
住民への過剰接触なし。以上だ」
淡々と読み上げられる報告書。
紙に記された言葉は、まるで事件ではなく、予定通りの作業だったかのようだった。
ナオは直立したまま、報告を聞いていた。
誰からも疑問は出なかった。
誰も、“何か”を感じた素振りすら見せなかった。
(本当に、これで終わるんだな……)
ナオの胸に、じんわりと熱いものが浮かんでは沈んだ。
部隊長が言う。
「ナオ、任務達成ご苦労。報告書に署名しとけ。
……それで済む」
それで済む。
そう言われて、ナオは無意識に背筋を正した。
「はい」
返事の声は、ひどく澄んでいた。
その日の昼食は、特別支給の乾燥肉が出た。
他の兵士たちは喜んでいた。
「うめぇな、今日のは」
「逃げた奴さっさと斬って、もっともらおうぜ」
「俺ら、ちゃんと役に立ってんじゃん?」
笑っていた。
箸を動かしながら、平然と。
ナオは、パンを手に持ったまま動かせなかった。
「ナオ、お前、食わねぇのか?」
同じ分隊の男――ロッシュが声をかけてきた。
長身で剣の腕が立ち、訓練中もよく喋る男だった。
「……ああ。あとで」
ナオがそう答えると、ロッシュは不思議そうに眉を上げた。
「何悩むことあんだよ。
正規任務だぞ? 誰が死のうが、“敵だった”ってだけでチャラだろ」
「……わかってるよ」
わかっていた。
でも、“それ”が本当に正しいのかは――もう、わからなかった。
ロッシュは肩をすくめた。
「慣れるもんさ。半年も経ちゃ、顔なんて覚えてねぇよ。
つーか、俺もう昨日の家のババアの顔すら怪しいしな。
……ナオは、真面目すぎるんだよ」
(……それで、いいのか?)
そう喉元まで出かけた言葉を、ナオは飲み込んだ。
口を開いたら、何かが壊れてしまう気がした。
夜。
藁布団に横たわっても、呼吸は浅く、寝返りばかりが増えていった。
ルーティンの動き――
深呼吸三回。足首を回す。天井を十秒。
それだけで落ち着けていたはずの動作が、今はただの“空回り”に感じられた。
「……普通、だよな」
ぼそっと呟いた。
誰に向けてでもなく。
処理は適切だった。命令に従った。
部隊も、上官も、それで満足していた。
でも、自分の中でだけ、何かが止まっていなかった。
記録帳を開いた。
ページが妙に白くて、目が痛かった。
(昨日の処理。逃亡兵。少年。老婆。……あの空気)
ペンが止まる。
言葉が、出てこない。
自分が何にショックを受けたのか。
どうして手が震えるのか。
それが、もうわからない。
(俺、なんでこれ、書こうとしてんだっけ)
理由が、言葉にならない。
代わりに書いたのは、こうだった。
「任務に支障なし。記憶に残ることもなし。
……ただし、“昨日の自分”と“今日の自分”の間に、微かなズレを感じる」
書いたあと、その“ズレ”がどこから生まれたのか、ナオ自身にも説明できなかった。
ただ、昨日までは気にならなかったことが、
今日は妙に耳についた。
笑い声が大きい。
兵士同士の冗談が、刺々しく聞こえる。
誰も何も考えてないような、空気。
(これが、“適応する”ってことなんだな)
ナオは、記録帳を閉じた。
自分の手が、血もついてないのに重かった。
△▼△▼△▼△
朝。
深呼吸三回。
足首を回す。
天井を見つめる。
(……今日も、きっと何事もないように過ぎる)
そう思った。
でも、それが一番怖かった。