第一章|ユーマ
“ここはもう、どこでもない場所だった”
目が覚めたとき、佐藤悠真はまず、何も考えられなかった。
目蓋の内側がじんじんと痛い。
息を吸うたび、鼻の奥に湿った土の匂いが入り込んでくる。
(……どこだ、ここ)
起き上がろうとして、肩がずしりと重く感じた。
背中がぬるつく。
下に敷いてあるのは、畳でも布団でもない。泥と草の混じった、ぐちゃぐちゃの地面。
寝ていた場所は、四角い木の柱に囲まれた、天井の低い空間だった。
壁はなく、かろうじて風をしのげるだけの“箱”みたいな構造。
家具はない。空の木箱がひとつ。水の入った桶がひとつ。
それだけ。
スマホはない。
コンセントも、天井の電気も、Wi-Fiのマークも、どこにもない。
ユーマは、口の中が砂を噛んだようにカラカラに乾いているのを感じた。
喉が痛い。息が白い。
冷えた体に、シャツがべったりと貼りついていた。
麻の服。
見慣れない素材で、見覚えのない匂いがした。
何かがおかしい――
けれど、はっきりとは言葉にならない。
頭が、まだ現実を受け入れようとしていなかった。
「……夢か?」
声を出してみたが、すぐあとに胸の奥がつんと痛んだ。
(違う)
“夢にしては、体が重すぎる”
喉の奥がひりついて、胃が何かを訴えていた。
もう何時間も、何も食べていないような感覚だった。
ふらつく足で、桶の水に手を伸ばす。
唇をつけると、ほんのり温い。
でもその匂いが、明らかに変だった。
泥。金属。ぬめりのある臭気。
それでも、我慢できなかった。
数口、無理やり飲んだ。
――直後に、喉がひっくり返るような吐き気が来た。
「うっ……!」
胃液がこみあげて、胸を押し上げる。
横に転がりながら、かろうじて吐き出した。
何も出ない。ただ酸っぱい液体と、涙だけが床に落ちた。
体を丸めながら、ユーマははっきりと理解した。
(ここ、もう……日本じゃねえわ)
今まで見たどの映像とも違う。
中世っぽいけど、ドラマや映画よりもっと雑で、もっと生っぽい空気。
匂い。手ざわり。風の湿気。
どれも現実感がありすぎて、むしろ現実じゃないと信じたくなる。
冷たい風が、ゆっくりと部屋の隙間をすり抜けていった。
ユーマは、ゆっくりと立ち上がった。
足がふらつく。体温がうまく戻ってこない。
でも、じっとしていても何も起きないことはわかっていた。
(どっか、出ないと……)
一歩ずつ、手で壁をつたうようにして外へ向かう。
△▼△▼△▼△
外に出ると、空気の色が変わった。
ほんのり曇っている。
朝なのか、昼なのか、判断がつかない。
ただ、路地に落ちる光がどこか灰色で、地面の水たまりがまだらに揺れていた。
そこは、狭く入り組んだ石畳の路地だった。
建物は木と石でできていて、屋根には古びた瓦。
壁に貼られた紙には、見たことのない文字。
看板にも、英語でも日本語でもない言語が並んでいた。
だけど、不思議なことに、どこか意味がわかった。
“鍛冶屋”“宿屋”“役所”
文字として読めているわけじゃないのに、言葉の意味だけが頭に浮かんでくる。
その違和感を考えるよりも、
ユーマの意識は、腹の痛みに引き戻された。
「……マジで……腹減った……」
この声も、誰にも届かない。
足音だけが石畳にコツ、コツと響いた。
通りかかる人々が、ちらっとユーマを見る。
革の靴、襤褸みたいな服、よろよろとした足取り。
何かを言いかけては、誰も声をかけてこなかった。
目を逸らすように通り過ぎる。
(助けてくれ……って顔してんのか、俺)
その自覚が、なぜかすごく恥ずかしかった。
ふらふらと歩く。
どこに向かっているのかもわからない。
急に、視界が歪んだ。
一瞬、音が消えた。
「……っ!」
体が横に傾き、膝から崩れ落ちる。
石畳に手をついたが、力が入らなかった。
口の中が乾いた布みたいで、喋ることすらできなかった。
(やばい……)
視界が揺れる。
誰かが叫んでいる。
でも、それも遠い。
最後に見えたのは、革鎧を着た男の足。
近づいてきた誰かの影。
そして、怒鳴り声。
「おい! こいつ、まだ生きてる! 飯と水! 早く!」
その言葉が、どこか遠く、優しく響いた。
――その優しさが、たまらなく苦しかった。
「……う……」
声にならない声をこぼして、
ユーマの意識は、闇に沈んだ。
△▼△▼△▼△
“ここでは、生きてるだけで下を向く”
目を覚ましたとき、ユーマは最初、自分が死んだと思った。
体が重い。
寒さが、皮膚じゃなくて骨にまとわりついていた。
目を開けると、見知らぬ天井がある。
木の梁。歪んでいて、ひびが入っていた。
少し体を起こすと、藁の匂いが鼻を刺した。
湿っていて、臭くて、虫の死骸のような甘ったるさが微かに混じっている。
自分の服は、相変わらず麻のシャツ。
胸のあたりに泥の跡。
腹がきしむように痛む。空腹はもう感覚が鈍っている。
寒いのに、汗をかいていた。
(……ここ、どこ……)
ゆっくりと辺りを見渡す。
他にも人がいた。
数人。
みな同じような服装で、同じような顔つきをしていた。
目の奥が落ちくぼみ、口数が少ない。
誰も喋らない。
喋ってはいけない雰囲気がある。
部屋は石の壁と木の骨組み。
床には藁が薄く敷かれているだけで、布団なんてない。
窓もない。ただ、隙間風だけがずっと通っている。
扉の外から、足音がした。
重い足音。ブーツのような。
ギギ……と音を立てて扉が開いた。
怒鳴り声。
「起きろ。時間だ。外に出る。遅れたら飯はなしだ」
誰も文句を言わない。
すっと、全員が立ち上がった。
それに倣ってユーマも立ち上がろうとしたが、足がつって倒れた。
近くの男が無言で手を差し伸べた。
細い手だった。骨ばっている。
年齢は……わからない。
でも、たぶん年下じゃない。
その手を借りて、ようやく立ち上がった。
△▼△▼△▼△
外に出ると、空気の質が違った。
生ぬるい風に、藁と獣の匂いが混ざっていた。
空は低く曇っていて、どこか遠くで鐘の音が鳴っている。
目の前には、石でできた広場。
その真ん中に、大きな桶が置かれていた。
その桶の周囲に、スープ皿のようなものが並べられている。
「一人一杯、パンは取るな。残りが出たら回す。早い者勝ちだ。手を出すな、殴るぞ」
監督役の男がそう言って、スープらしき液体をよそう。
ユーマの番が来た。
器を受け取る。
匂いは――ある。何かの草と、煮詰まった水。
口をつけた。熱くはない。ぬるい。
具はほとんどない。
味は……塩なのか泥なのかよくわからない。
でも、喉に通った。
(……ありがたいとか、そういう感じじゃないな)
ただ、体に“とにかく何かを入れないといけない”という反射的な危機感があって、
それだけで飲んでいる。
食べ終える頃には、手が少しだけあたたかくなっていた。
でも、心までは届かなかった。
そのまま、木の荷車を押す作業に入る。
死体が積まれていた。
人の。兵士の。
皮膚が白くなり、腕が曲がらない方向に折れている。
足元に、血が乾いた跡がある。
その中の一体から、白い虫が這い出した。
ユーマはその場で吐いた。
胃に何もなかったから、声と胃液だけが出た。
誰も何も言わなかった。
「……またか」
隣の誰かが、それだけ呟いた。
△▼△▼△▼△
午後、同じ作業が続いた。
口をきかない人たちの中で、たった一人だけ、声をかけてきた男がいた。
「よう。新人か?」
細身で、目元が眠そうな男。
袖をまくった腕はやけに細く、指の関節が目立っている。
「……まあ、そんな感じ」
「名前は?」
「佐藤……いや、こっちでは“ユーマ”って言われた」
「そっか。俺はアレン。まあ、話したからって別に何かあるわけじゃねえけど」
「……でも、話してくれて助かった」
アレンは鼻で笑った。
「普通は、誰も話さねえよ。疲れるし、名前覚えても死ぬし。
……でもまあ、今日くらいはいいか」
ユーマは、なんとなくその言葉の意味がわかる気がした。
「……ありがとう」
「礼を言うほどのもんでもねえけどな」
そう言って、アレンは桶を引っ張っていった。
その背中を見ながら、ユーマは少しだけ、息がしやすくなったような気がした。
△▼△▼△▼△
夜になった。
火が焚かれた。
石の寮の中。藁の床。
夕食は、朝と同じスープだった。
その夜、ユーマは自分が“生きてる”ことに、まだ少し違和感があった。
誰かが死んでるのに、自分はスープを飲んでる。
寒いのに、指だけあたたかい。
わけがわからない。
でも――それが、ここでの“普通”らしい。
あの夜中のラーメンの匂いを思い出した。
湯気と、塩の味と、ちょっとだけ伸びた麺の感じ。
それが、どうしようもなく遠かった。
(……俺、ほんとにあっちにいたんだよな)
その確信だけが、心の奥にあった。
そして同時に、
**「もう戻れない」**という事実も、冷えきった体に突き刺さっていた。
“ほんの少しの会話だけで、生きる理由ができた気がした”
昼の作業が終わったあと、ユーマは桶を洗っていた。
手のひらが、もうすでにひび割れていた。
水がしみる。
でも、誰も文句なんて言わなかった。
隣にアレンが座った。
桶の中を適当にかき回しながら、ぼそっと言った。
「昨日、お前、吐いてたろ」
ユーマは一瞬だけ視線を落とした。
「……見られてたか」
「まあな。最初はそうなる。虫、もう見慣れたか?」
「……無理」
「正解。慣れねえほうがいい。慣れるってのは“終わる”ってことだから」
その言葉が、妙に引っかかった。
「終わる?」
「そう。自分が人間であることが。
吐けるうちは、まだマシだよ」
アレンの声には、特別な感情がなかった。
ただ、淡々と事実を語るようなトーンだった。
ユーマは、自分の手のひらを見た。
赤く、腫れて、ところどころ血がにじんでいた。
「なんか、やけに実感あるな……それ」
アレンは笑った。ほんの少しだけ、ほんとに少しだけ。
「前は、何やってた?」
「……浪人生。
二年目。
大したことしてない。
部屋でスマホいじって、ラーメン食って寝てただけ」
「ラーメン?」
「インスタント。お湯注いで三分。熱くて、しょっぱくて……。
夜中に食うと、“生きててもいいかな”って思えた」
自分で言いながら、その言葉が妙に寂しく聞こえた。
「……それが、俺の全部だった」
アレンは、それを否定しなかった。
「いいな。そういうの、こっちにはねえからな。
“うまい”で済むもんがあるってのは、だいぶ強い」
ユーマは、笑えなかった。
けど、少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。
△▼△▼△▼△
その日の作業は、少しだけ軽かった。
荷車の代わりに、木材を運ぶ手伝い。
無言の男――ビルと初めて近くで作業をした。
ユーマが木材を落としたとき、
彼は何も言わず、それを拾って手渡してくれた。
「……ありがとう」
返事はなかった。
でも、その一瞬の仕草に、
「怒らない」というだけで、どれだけ救われるかを知った。
午後、ビルがスープを半分くれた。
理由は訊けなかった。
でも、ユーマは黙って受け取った。
“ありがとう”の代わりに、スープの残りを少し返した。
それだけで、ビルはこくりと一度だけ頷いた。
△▼△▼△▼△
夜、火のそばに三人がいた。
他の労働者たちはもう藁の上で眠りについていた。
スープの器は空。
木の皿にはパンくずが残っていた。
アレンがぽつりと口を開いた。
「お前ら、ここ抜けたら何したい?」
火が、パチ、と音を立てた。
ユーマは、すぐに答えられなかった。
考えないようにしていたことだった。
“外”のことなんて、想像するだけで虚しくなるから。
でも、アレンの問いは、
“希望を語れ”というより、
“今ここにいる自分を知るための確認”みたいに聞こえた。
「……家族。でかい犬。あったかい布団。
何か、もうちょっとちゃんと笑える日」
それが精一杯だった。
アレンは、短く息を吐いた。
「優しいなお前。
俺はラーメン屋だな。知らねえけど、うまいらしいじゃん。
熱くて、スープが染みるやつ。……そういうのがいい」
ビルが、ほんの一瞬、火の揺れの向こうでうなずいた。
「あるよ、それ」
ユーマが、静かに言った。
「日本に。袋のもカップのも、ちゃんとした店も。
どれもちゃんと“生きてる”って思える味だった」
「マジか。……食ってみたいな、それ」
「……俺が案内するよ。生き残ったら」
アレンが笑った。
ビルも、火を見ながら頷いた。
誰も“約束”とは言わなかった。
でも、三人の中には、
**“それが、ある”**という小さな火が灯っていた。
火のあたたかさが、スープの熱を思い出させるようだった。
ラーメンの味が、
初めてこの世界で“生きたい”と思わせてくれた。
朝、怒声が跳ねた。
「名前を呼ばれた者は、前に出ろ!」
その瞬間、空気が変わった。
誰も動かない。
誰も目を合わせない。
それでも時間が過ぎる。
否応なく、自分の名が呼ばれた。
「ユーマ!」
扉の向こうに立っていた兵士の目が、ただの数字を見るようだった。
そこに人を見る感情はなかった。
ユーマは立ち上がる。
体が重い。
寒さで節々が痛む。
横を見ると、アレンも、ビルも立っていた。
顔は見えない。
でも、目が合った。
「……お前らもか」
アレンが低くつぶやく。
ビルは無言で頷く。
何も言わなかった。
言っても仕方がないことを、誰もが知っていた。
△▼△▼△▼△
詰所は丘の上にあった。
木造の掘っ立て小屋。
軋む床。腐った階段。
周囲には訓練用の木人形、錆びた剣、割れた盾。
命を預けるには、あまりにも頼りなさすぎた。
言われるがままに剣を受け取り、干し肉と水を与えられた。
「兵士」として。
それだけで、命の重さが変わったらしい。
その日の夕方には、斜面の上に立たされていた。
風が吹く。
草の葉がさわさわと揺れている。
地面の湿気が、足元にまとわりついてくる。
クラウス隊長が短く言う。
「敵が来る。数は不明。構えとけ」
それだけ。
本当にそれだけだった。
ユーマの指は剣の柄を握っていた。
だが、全身に力が入らない。
背筋は震え、呼吸が浅くなる。
死が来る。
それだけははっきりとわかっていた。
前の列。ノアという男がいた。
同じ班。
何度か話した。
スープを交換した日もあった。
そのノアの首が、吹き飛んだ。
何の前触れもなく。
唐突に。
身体がひとつ、スッと抜けたように感じた。
血が上がる。
噴水のように。
首の断面から、ぶしゅ、と音を立てて。
(あ……)
音が遠くなる。
敵が駆けてくる。
金属音。叫び。足音。
ユーマは動けなかった。
剣を握ったまま、時間が止まった。
そのまま、敵が目の前に迫る。
剣が振り上げられる。
目が合った。
そのとき――
体が勝手に動いた。
剣を横から振る。
刃が肩に入った。
止まらない。
骨を断ち切る感触。
ぐちゃっ。ゴリッ。
音が、腕を伝ってくる。
剣が深く入りすぎて、相手の体がぐらりと傾く。
倒れる。
でも、まだ動いている。
「やめろやめろやめろやめろ……!」
叫びながら、腹を刺した。
もう何も見てない。
どこに刺しているのかわからない。
剣が、肉の中でずるずると滑る。
また刺す。
何度も。
とにかく止まれ、動くな、殺すな――
刃が引っかかる。
中で何かが絡む。
抜けない。
力任せに引き抜くと、内臓の一部が、ぬるりと刃について出てきた。
粘膜。血。腸のような何か。
そのとき、斬られた男が、ユーマを見ていた。
目が、まだ生きていた。
怒りもなく、恨みもなく、ただ“驚いた顔”だった。
「……なんで、見んだよ……」
声が出た。
涙じゃない。
汗でもない。
わからない何かが、顔を伝って落ちていった。
気づけば、戦闘は終わっていた。
味方の兵が数人、倒れていた。
誰かの足がねじれている。
顔の半分が潰れた男が、喉から音を漏らしていた。
血の匂い。鉄と肉の混ざった、生の匂い。
自分の剣が赤黒く染まっている。
肉片が、まだ貼りついている。
手が、まだ温かい。
それが怖かった。
崩れ落ちた。
膝をつき、胃がひっくり返る。
「う……っ、うぇっ……!」
吐いた。
何も出なかった。
空の胃から、黄色い液体と酸だけが出た。
剣を握る手が、震えている。
落とせない。
でも、持ちたくない。
「これ、俺がやったのか……?」
口の中が鉄の味しかしなかった。
誰かが声をかけていた。
アレンか。ビルか。
でも、言葉が頭に届かない。
音が、水の底のように遠い。
景色がにじむ。
目の前の地面が歪む。
自分が、
自分じゃなくなっていく音がした。
△▼△▼△▼△
夜。火のそば。
ユーマは、剣を洗っていた。
桶の中の水が赤く染まる。
こすってもこすっても、血の匂いが取れない。
手が勝手に動いている。
心は、まだどこか別のところにいる。
(……人、斬ったんだよな)
その事実が、体のどこにも染み込んでこない。
なのに、手のひらだけがそれを覚えている。
斬ったときの抵抗。
肉のやわらかさ。
骨の硬さ。
血が出る瞬間のぬめり。
全部、感覚で刻まれている。
なのに、何も感じない。
何も思わない。
ただ、静かに洗っている。
自分の中の“人間”が、今まさに死にかけている気がした。
火の明かりが、赤く揺れていた。
その色は、さっき見た血と、同じだった。
アレンがいない。
そう聞かされたのは、夜が明ける前の点呼だった。
誰かが言った。
「昨日、戦闘中に離れた。戻ってきてない」
ユーマは、その言葉の意味がすぐに理解できなかった。
“死んだ”ではなく、“いない”とだけ言われた。
だからこそ、余計に苦しかった。
死体が見つからないという理由だけで、記録から名前が消される。
“行方不明”という言葉に変えられて、
アレンは、その場にいた誰の口からも出なくなった。
その日、スープの器を手にしたとき、ユーマはふと右側を見た。
アレンがいつも座っていた場所。
乾いた地面。器の跡すらもうない。
「いたよな、昨日まで」
誰にともなく呟いた声が、やけに遠く響いた。
返事はなかった。
スープを飲んでも、味がしなかった。
唇が震えているのに、それを誰にも見られたくなくて、下を向いたまま無理やり流し込んだ。
喉が焼ける感じがした。
(あいつ、何か言ってたっけ。昨日の夜……)
何も出てこなかった。
表情が、声が、記憶からするりと抜けていく。
わずか半日しか経ってないのに。
そのくせ、
“アレンがいつもパンの端っこをかじってからスープを飲んでいた”ことだけが、やけに鮮明に残っていた。
くだらない。
それなのに、苦しくて仕方がなかった。
ユーマは立ち上がり、物陰に隠れるようにして座り込んだ。
空を見上げるでもなく、地面を見るでもなく、ただ、目を開けているだけ。
心のどこかが、きしむ音を立てていた。
泣けなかった。
涙が出なかった。
(なんで……泣けねえんだよ)
痛いのに。
苦しいのに。
喉が詰まっているのに、何もあふれてこない。
「名前、呼んでねえからか……?」
そうかもしれない。
名前を、声に出さずにいたから。
呼ぶのが怖くて、忘れるのが怖くて、
何も言わないまま、隣にいるのが当たり前だと思っていたから。
そして今、いなくなって、
はじめて“名前”だけが残っている。
“アレン”
それを呟いた瞬間、
胸の奥に、ごつんと石をぶつけられたような鈍い痛みが走った。
喉の奥が、やっと震えた。
言葉にならない音が、ひとつ漏れた。
それだけだった。
泣けなかった。
けれど、身体の奥がずっと叫び続けていた。
△▼△▼△▼△
夜。
ユーマは眠れずにいた。
周囲は静かだった。
寝息と、遠くの風の音だけ。
名前を思い出そうとしていた。
何人かの。
ノア。カイン。
……あと、もうひとり、確かいた。
思い出せなかった。
顔が曖昧だ。
服装も、声も。
ただ“斬った”という事実だけが残っていて、その中身がどんどん削れていく。
名前を忘れていくのが、怖かった。
それなのに、
ラーメンの味だけは、はっきり残っていた。
熱いスープ。
麺をすする音。
ちょっとぬるくなった湯気。
夜中の暗い部屋で、誰にも見られずに一人で食べてた味。
なにも成し遂げていない夜だった。
ただ逃げていただけ。
勉強もしてなかった。
でも、**あの時だけは“生きてた”**気がした。
(もし俺が死んだとして、誰かに思い出されるのが“あの夜”だったら、……それでもいい)
そう思った。
その記憶だけで、自分の命が一本でも報われるなら。
その味を、アレンに食わせたかった。
知らない異国の飯じゃない。
戦場でむりやり口に突っ込まれるパンでもない。
夜中に、ただ食べたくて作った、袋のラーメン。
「……案内するって、言ったのにな」
自分でも驚くほどかすれた声だった。
「生き残ったら、って……そう、言ったよな」
誰も答えない。
でも、それでも良かった。
誰かに向けた言葉じゃなかった。
(まだ、俺の中に残ってる。……それだけは、忘れたくない)
そしてユーマは、
目を閉じたまま、初めて涙を流した。
顔を隠すでもなく、声を殺すでもなく、
ただ、じわりと、ひとすじ。
あたたかくもなく、冷たくもない涙が、
ゆっくりと頬をつたった。