プロローグ
佐藤悠真は、インスタントラーメンを作りながら、「死にたい」とまでは思っていなかった。
ただ、どうでもよかった。
コンロに鍋をかけて、ぐつぐつと沸く音をぼんやり聞いていた。
体は動いてるけど、頭の中は白く濁ったまま。
キッチンの時計は、午前2時すぎ。
母親の寝室からは、静かな寝息がかすかに漏れている。
今日も、何もしなかった。
浪人生、2年目。
予備校はやめた。独学。……と言えば聞こえはいいが、実態はただの引きこもり。
YouTubeで“1日10時間勉強する人”の動画を見て、自分と比べて、画面を閉じた。
(……バカだな、俺)
言い訳はもう言い尽くした。
「来年こそ」なんて、もう口に出す元気もない。
タイマーもかけずに火を止めて、
袋麺を器によそい、箸を取る。
ズルズルと音を立ててすすった。
熱い。しょっぱい。
それだけで、体の奥にあった“何か”が少し溶けていく。
(……なんか、楽になってんな)
でも、その“楽”が怖かった。
現実がどうでもよくなる味。
あたたかさが、全部ごまかしてくれる気がして。
でも、それがうまかった。
この世で一番ちゃんとした“報酬”に思えた。
「……ほんと、終わってんな」
誰にも聞かれない独り言が、ラーメンの湯気に消えた。
空になった器を流しに置いて、
スマホの充電を確認する。5%。
でも、もうどうでもいい。
布団に潜り込み、目を閉じた。
次に目を開けたら、違う世界にいればいいのに――
そんなことを、ほんの一瞬だけ、思った。
△▼△▼△▼△
田中直樹は、今日も“ちゃんとしてる自分”を演じていた。
職場でミスした。
上司に笑ってフォローされた。
「気にしないで」って言われた。
でも、一番気にしてるのは自分だった。
自分が“マトモな社会人”としてちゃんと機能してるか、いつも不安だった。
夜、帰宅すると祖母が「あんた、また食べなかったの?」と訊いてきた。
「あとで食べます」と言った。
本当は、ただ人の手で作られたものを食べたくなかった。
自分で作る、コンビニのカップラーメン。
味噌味。いつものやつ。
それが、一番“自分の味”だった。
お湯を注ぎ、三分待つ。
その間に着替えもせず、コートのままソファに座る。
静かな部屋。
風の音。
あたたかいラーメン。
ふたをめくって、湯気が上がる。
箸で麺を持ち上げると、なぜか喉の奥が詰まった。
ひとくちすすった。
「……やっぱり、うまいです」
自分にそう言って、無理やり笑った。
でも、味はよくわからなかった。
塩辛さだけが舌に残っていた。
全部食べ終えて、空の容器を流しに置いたあと、
ふっと立ち止まる。
(……自分、なんのために頑張ってるんだっけ)
答えは出ない。
でも、今は寝よう。それだけでいい。
布団に入って、目を閉じる。
ラーメンの熱だけが、まだ喉に残っていた。
△▼△▼△▼△
ふたりとも、ラーメンを食べて眠った。
後悔も、自責も、未来への不安も、
その夜だけは、あたたかさが全部包み隠してくれた。
それが“救い”だったのか、“終わりの始まり”だったのかは、わからない。
でも、それが――
彼らにとって最後の“まっとうな夜”だった。
次に目を覚ましたとき、
そこにあったのは、
戦場。剣。死。
それでも。
あの夜のラーメンの味だけは、
ずっと、心の奥で生きていた。