01話 桃と徒花
奥の奥の、森の奥。人里離れた山の荒道を、ゆらゆらと歩く人影が一つ。
頭の笠を目深に被り、胸元と背の中ばほどまで垂れるのは、艶のある漆黒の髪。笠の端を摘まむ指はしなやかで、桃色の羽織をまとい、凜と伸びる細身の出で立ちは、そこに在るだけで色香を漂わせる。
「…」
ふと足を止める。
先ほどまで聞こえていた鳥のさえずりはいつの間にか消えていた。まだ日も高いというのに、周囲を閉ざすのは無音の静寂。耳鳴りのするような静けさが木陰の闇を、一層強くする。
「…ふたつ、……いや、もう一つか」
蠢く木々の隙間から、錆びた鉄のような悪臭が鼻を撫でる。…血の匂いだ。
「オンナ、オンナタ…ヒトノオンナ、ウマソウ。」
鬼。人喰いの妖。
子を攫い、女を攫い、目につく男は嬲り殺す。攫った子の頭蓋を杯に、女の血肉を貪るという。
集落を、村を、或いは都を蹂躙する魑魅魍魎。
…そんな化物が、三匹。
「ギャギャッ、ウマソウ、ウマソウ…カワイソウ!」
下卑た笑いがこだまする。
羽織の下から覗くのは一振りの刀。鞘で撫でるように、ゆっくりと佩いた刀を抜く。
「俺が女に見えたか?」
「ギィッ…!コイツ、オトコ」
「オトコ、オトコ、コロセ…コロセ」
「コロセ、コロセ」
青黒い肌、浮き出た肋骨とは対照的に、醜く膨らんだ下腹部。子供ほどの背丈の小鬼が姿を現す。
「…動けば死ぬぞ」
「ギギ?」
先ほどまで曇りひとつ無かった刀身は、いつの間にか鮮血に染まっていた。
刀を肘窩でぬぐい、鞘に納める音が響いた刹那ー、小鬼の身体が真っ二つに割れた。
「……汚いな」
断末魔の代わりに、遅れて飛び散る小鬼の血飛沫。頬に跳ねた血に眉をひそめながら袖で拭う。唐竹割りにされた小鬼の骸を、男はおもむろに漁りはじめた。
出てきたのは一本の簪。
「これだけか…」
小さな椿の飾りをしつらえた簪は、慎ましくも品がある。しかし、今では花弁も大きく欠け、中ほどから先はくの字に折れてしまっている。
簪を布でくるみ、男は山を下る。後に残るのは、赤黒く濡れた鬼の肉塊だけであった。
――
男が麓の町に入ったとき、三人の男女が駆け寄ってきた。
「もッ、桃太朗さん!…ッあ、娘は、娘はどうなりましたか!」
息もたえだえ、言葉を詰まらせながら、男は桃太朗と呼ばれる者の袖に縋る。
羽織袴に型のみだれた髷の男と、その脇で怯えとも不安げともとれる様相でこちらを伺っているのは、簪の主の両親だ。
「俺が向かった時には既に…。」
「そんな…」
桃太朗は懐から布にくるまれた簪を出し、それを二人に差し出す。
簪を受け取った父親は膝が抜けたように、力なくその場にうずくまった。
「あ…あぁ、あああぁぁっ…!」
「…みつ、みつ。…辛かったねぇ…痛かったねぇ…、……よう帰ってきた…。」
娘の遺品を手に泣き崩れ両親の後ろ、もう一人の若い男は事を受け止めきれない様子で、ただ虚空を見つめていた。彼の肩に手を添え言葉をかけたとき、桃太朗は己の不用意を悔いた。
「大丈夫……、ではないな。不躾を言った……許せ。」
彼はみつという簪の主の婚約者だという。町でも皆から慕われる好青年で、実家の商いもいくばくかの財を成していた。婚儀を目前に控え、まさに順風満帆の人生、そのさなかの出来事であった。
「鬼は…、奴らはどうなりましたか……!」
虚空を見つめたまま、声と手を震わせ桃太朗の答えを待つ。
「すべて殺した」
桃太朗の言葉を聞き、青年の目尻に涙がにじむ。
「…うっ、……ぐっ…!っ有り難う…有り難う、ございました…!!」
悲しみを、憎しみを噛み殺し、嗚咽すらも押さえつける姿に、桃太朗はかぶっている笠の縁を下げ顔を隠す。
「鬼が出たなら呼べ。……ではな」
両親と青年をその場に残し、桃太朗はその場を後にする。
道すがら、彼らの姿が桃太朗の頭をよぎった。腰の刀を握る手に力が籠もり、心の内でつぶやく。
(…鬼は、鏖だ)