珊瑚海海戦改変
お待たせいたしました。主催者投稿作品となります。
実は4月ごろから持病の精神疾患が悪化し、それにともない投稿も伸びに伸びました。申し訳ありません。
作品自体も、そんな精神状態のため中学か高校の頃夢想したような作品となっていますが、楽しんでいただければ幸いです。
1942年5月。大日本帝国陸海軍は、米豪遮断作戦の要であるポート・モレスビー攻略作戦に臨んでいた。
ニューギニア島東部南岸にあるこの街は、日本軍が占領した場合、オーストラリア本土への爆撃が可能であるばかりでなく、珊瑚海からソロモン海に至る海域の制空ならびに制海権を握る上でも、重要な戦略的要衝であった。
逆を言えば、連合軍にとっては珊瑚海からソロモン海の制海権を守る上での拠点であり、さらに日本軍が圧力を加えているニューギニア東岸方面や、ラバウル方面に攻撃を掛けられる位置にある。
それゆえ、連合軍側の反撃も激烈になることが見込まれ、当初大日本帝国海軍連合艦隊では陸軍部隊を輸送するMO攻略部隊に加えて、その支援を行う空母2隻からなる第5航空戦隊を中心としたMO機動部隊を投入していた。
この機動部隊を構成する空母は、完成から日が浅いものの、新鋭かつ多数の艦載機を運用可能な「翔鶴」型空母の「翔鶴」と「瑞鶴」からなり、その航空戦力は侮れないものであった。
しかし、この時点で米太平洋艦隊が有する空母戦力も未だ大きなものであった。
大日本帝国海軍では開戦後大西洋から回航されたものも含めて、稼働可能な空母を「ヨークタウン」「エンタープライズ」「ホーネット」「レキシントン」「サラトガ」と見込んでいた。
そしてこの内2隻程度が4月の日本本土空襲に動員され、残る3隻の動静が不明であった。すなわち、最悪の場合この3隻が珊瑚海方面に出現する可能性があった。こうなると、MO機動部隊ならびに攻略部隊に附属する軽空母「祥鳳」のみでは戦力不足が見込まれた。
加えてもう一つ、ポート・モレスビーに繰り返し行われた航空偵察の結果、同地の飛行場に展開する航空戦力が急速に増強されていることも確認された。
そこで連合艦隊は、南雲機動部隊(第一航空艦隊)から空母「加賀」をMO機動部隊に対してさらに抽出するとともに、本来連合艦隊主力部隊に附属する軽空母「瑞鳳」と戦艦「伊勢」「日向」からなる第三戦隊を、一時的に攻略部隊に増援として分派した。
軽空母である「瑞鳳」に加えて戦艦をも動員したのは、この方面に有力な敵砲戦部隊が存在すると見込まれることに加えて、開戦以来空母ばかりに活躍の場を奪われ、不遇を託って来た戦艦の乗員にも出撃の機会を与えようという思惑からであった。
さらに言えば、さらに1カ月後に予定されているMI作戦(ミッドウェー攻略作戦)に参加を渋る陸軍に対してのアピールでもあった。
こうして、当初予定よりも充実した戦力を持って、モレスビー攻略作戦は開始された。
連合艦隊司令部としては「ここまですれば楽勝!」という空気さえあった。
対する連合軍は暗号解読により日本軍の動きを捕捉しており、この時点で動員可能な「レキシントン」「ヨークタウン」「サラトガ」の3空母を動員し、珊瑚海へと向かわせ、また豪海軍の重巡「キャンベラ」を中心とした巡洋艦艦隊も珊瑚海方面へと進出した。
これにポート・モレスビーの飛行場に展開する航空部隊を加えれば、その戦力は航空機だけで言えば、ラバウルやラエなどに展開する基地航空隊を合わせた日本軍よりも、優勢であった。
こうして、日米両海軍の機動部隊同士の戦いの幕が、切って落とされた。
先手を取ったのは連合軍側で、まず機動部隊がフロリダ島ツラギに上陸中の日本艦隊を空襲し、駆逐艦1隻を沈めた。
これに対して日本側は米機動部隊が珊瑚海に進出していることを確信し、空母や巡洋艦、さらにはラバウルからの偵察を強化した。
そして両軍ともに、まさかの結果を招いてしまった。
まず米軍側は空母2隻、戦艦1隻を含む有力な艦隊を発見し、これに対して3空母から120機の攻撃隊を発進させた。
米軍側はこれを当初日本の正規空母部隊と誤認したが、これは攻略部隊に付き添っていた「祥鳳」「瑞鳳」「日向」を誤認したものであった。
一方日本側も偵察機が空母ならびに巡洋艦各1隻発見を報じ、3隻の空母から96機の第一波攻撃隊が出撃し、続いて62機からなる第二波攻撃隊も出撃した。
しかし、こちらも給油艦と駆逐艦を誤認したものであった。
先に攻撃を開始したのは米軍側であったが「瑞鳳」「祥鳳」「伊勢」「日向」の4隻に攻撃を分散し、さらに事前に発進させていた直掩機17機の奮戦もあって「祥鳳」と「日向」を中破させるにとどまった。
しかも「日向」の中破は米軍機の攻撃というよりも、自身の主砲の暴発によるものであった。
日本側にとってある意味幸いだったのは、米軍機のうち艦爆が空母を、艦攻が戦艦を集中的に狙ったことであった。
このうち「祥鳳」を中破させたのは3発の爆弾で、当然艦爆の戦果だ。対して艦攻の雷撃は「伊勢」「日向」の操艦によって交わされてしまった。
対する日本側は第一波攻撃隊が給油艦と駆逐艦を袋叩きにして撃沈すると、第二波攻撃隊が米空母に迫った。
この時、米機動部隊も日本側より遅れてMO機動部隊を発見しており、第二波攻撃隊の発進準備を進めていた。しかし、日本側の攻撃隊接近をレーダーで探知すると、攻撃隊の発進を断念し、代わりに第二波攻撃隊の護衛を含む60機余りの戦闘機を発進させて日本側攻撃隊を待ち受けた。
結果日本側は、米艦隊の対空戦闘と併せて62機中43機という攻撃隊の大部分を喪失するという、大損害を被ってしまった。
対する米側の損害は空戦による戦闘機11機と、奇跡的に戦闘機と対空砲火を突破した艦爆1機が空母「レキシントン」に直撃弾を得て右舷側の対空火器をいくらか破壊したに留まった。
ただし、結局この迎撃のために米側は日本機動部隊への攻撃の機会を逸したことに加えて、帰還した第一波攻撃隊の収容に手間取り、20機余りを燃料切れで不時着水で喪うという思わぬ事態に直面した。
最終的に1日目は日本側が中破した「祥鳳」が後退を余儀なくされ、対する米側も思わぬ航空戦力の減少という、双方ともに初めての空母機動部隊同士の戦いによる不手際が重なり、相手に致命的な損害を与えるに至らず、翌日に持ち越しとなった。
海戦2日目は双方が早朝から偵察機を出動させた。もちろん、機動部隊からのみならず他の艦隊や基地航空隊からも多数の増援偵察機が発進し、互いに先手を取ろうと動いた。
結果は僅差で日本のMO機動部隊の97艦攻が米機動部隊を先に発見した。すかさず、日本艦隊からは持てる戦力の総動員に近い113機の攻撃隊が出動した。
少し遅れて日本機動部隊を発見した米機動部隊も140機余りの攻撃隊を発進させた。
日米の攻撃隊は進撃途中で互いの姿を認めたが、ここでの戦闘を無意味と悟り、敵攻撃隊の情報を味方に発信したのみであった。
しかし、この情報は日本側に有利に働いた。この時点で電探を持たない日本側にとって、敵攻撃隊の規模や位置を事前に把握できたことは、僥倖以外の何物でもなかった。
日本機動部隊は直ちに稼働する戦闘機34機を発進させるとともに、手近な距離に発見したスコール雲目掛けて退避を開始した。
一方米機動部隊は昨日と同じく電探で日本機を発見すると、戦闘機51機を発進させて待ち伏せた。
しかし、今回は日本側攻撃隊も31機の零戦を帯同していた。このため、米戦闘機隊は日本側攻撃隊の事前阻止に失敗し、日本の艦爆と艦攻は米機動部隊に襲い掛かった。
この時日本側の主たるターゲットとなったのは巨大な艦影が目を引く「レキシントン」ならびに「サラトガ」であった。そして前者に艦攻、後者に艦爆が群がったことが両者の運命をわけた。
「レキシントン」は艦攻から投下された魚雷4本が命中、しかもその内の3本が右舷への命中で、浸水により大きく右舷に傾斜してしまった。
一方の「サラトガ」は爆弾5発を受けて航空機の離発着艦が不可能となったものの、艦の航行には何らの支障を及ぼさなかった。
残る「ヨークタウン」は日本側の攻撃をほとんど受けず、至近弾1発による軽微な損傷で済んだが、残存航空機を一身で引き受ける羽目に陥った。
結局「レキシントン」は傾斜復元の見込みが立たず、自沈処分となり日米を通して初の空母の喪失となった。
対する日本側はと言えば、米攻撃隊が殺到した時点で幸運なことに脚の速い「瑞鶴」と「翔鶴」は既にスコール内へと退避していた。そして「加賀」もあと一息で突入というところまで来ていた。
当然、米軍機はスコールに逃げ込まんとする「加賀」に殺到した。
この時「加賀」艦長の岡田大佐は、回避運動を行わずスコールに全速力で突っ込む道を選択した。
米軍機の数から、対空戦闘と回避運動では被弾を避けられず、それよりも助かる可能性が高いと判断してのことで、結果的に見て正解であった。
「加賀」は突っ込んできた米艦爆の爆弾2発が直撃し、飛行甲板の使用が不可能となったものの、スコールに突っ込んだことで以後の攻撃を全て交わすことに成功し、さらに爆弾による火災も早期に消火できた。
攻撃が間に合わなかった米軍機のパイロットたちを、舌打ちをするしかなく、目標をスコールに入る前の巡洋艦や駆逐艦に変更したが、統制を欠いた場当たり的な攻撃は上手く行かず、全て交わされてしまった。
さらに彼らに追い打ちを掛けるように、帰還後に着艦可能であったのは無傷の「ヨークタウン」のみであった。攻撃隊と直掩機全てを同艦のみで面倒見ることは出来ず、まず損傷機から。続いて低速で性能の低い雷撃機が海上へと投棄されることとなった。
無傷の愛機が海上に落とされる姿を、パイロットたちは涙で見送るしかなかった。
ここに至り、米側の稼働空母は1隻のみとなり、撤退か残存稼働機での再度の一戦かを迫られる事態となった。
対する日本艦隊は「加賀」が発着艦不可能となったものの「翔鶴」と「瑞鶴」は無傷であり、補用機を戦列に加えることで、なんとか100機ほどの稼働機を確保していた。
さらに日本側には別の手札があった。ラバウルに展開した基地航空隊の陸攻隊である。
この陸攻隊、海戦初日に米豪巡洋艦部隊発見の報に出撃をしたものの、その後米機動部隊発見の報告に拠り引き返していた。ただし、その日は再攻撃準備が間に合わず、また2日目も天候の関係で昼間の出撃が叶わなかった。
そのため、陸攻隊は特に熟練パイロットを選抜した12機による夜間攻撃隊を編成し、夜間雷撃で米機動部隊への攻撃を試みた。
この攻撃は米機動部隊の虚を突く形となったが、米機動部隊の激しい反撃に加えて、12機では打撃力が不足していた。
結局命中させられた魚雷は空母「ヨークタウン」に1本だけであり、同艦に致命傷を与えるには程遠かった。
しかし、この1本の魚雷は戦術的には小さな戦果であったが、戦略的には大戦果であった。
というのも、この魚雷命中の浸水と復元のための注水により「ヨークタウン」は出し得る速力が20ノットにまで落ちてしまったからである。
もちろん航空機の運用に関しては、カタパルトがあるので何とかなる。しかし、攻撃する上でも逃げる上でも重要な速力と言う要素を喪ったことは、同艦の空母としての存在意義を大きく削ぐものであった。
ことここに至り、米機動部隊は未だに2隻以上の空母が戦闘可能な日本機動部隊との戦闘続行は不可能と判断し、撤退に入った。
ただし「ヨークタウン」に残存する航空機のうち、上空直掩以外の機体は全てポート・モレスビーへ向け発艦させ、同地の飛行場の戦力へと編入することで、日本軍のモレスビー占領阻止に寄与する策を打った。
こうしてMO攻略作戦は新たな段階へと進んだ。
日本機動部隊は当初米機動部隊の撤退に気づかなかったが、丸1日駆けての索敵の結果発見できず、さらに敵艦上機の接触もなかったため、また本土よりもたらされた情報により、米機動部隊の撤退を確信し、残存航空機によりポート・モレスビー攻略支援へと動き始めた。
海戦4日目、敵機動部隊出現のために進撃を見合わせていたMO攻略部隊とMO機動部隊が合流し、ポート・モレスビーへと進撃を開始した。
対する連合軍側は基地航空隊による反撃を行うとともに、急ぎ巡洋艦部隊を派遣して万が一の撤退に備えた。
日本側は機動部隊の残存搭載機に加えて、ラバウルやラエなどの基地航空隊の稼動機を総ざらいして攻撃を開始した。
これに対して、モレスビーの連合軍航空隊も猛反撃に打って出た。戦闘機は来襲する日本機の迎撃に出動し、爆撃機は接近する上陸部隊搭載の輸送船への攻撃を仕掛けた。
こうしてモレスビーを中心とした空域では、激しい空中戦が行われたが、最終的にそれを制したのは日本側であった。この時点においては零戦とベテランパイロットの組み合わせは連合軍の戦闘機を圧倒しており、またスキップボミング採用前の連合軍爆撃隊は対艦船攻撃において、十二分に効果を発揮できなかったのである。
そして制空権を制した日本軍は、ついにポート・モレスビー近郊に部隊の上陸を開始した。この上陸作戦では戦艦「伊勢」が艦砲射撃を行った。
戦艦ではなく陸上陣地相手の砲撃に、乗員から不満の声が出たとされているが、大口径砲による援護射撃の効果は、水際での上陸阻止を目指した連合軍部隊の戦意を挫くのに、大いに貢献した。
一方連合軍は制空権の喪失により、ポート・モレスビーの維持は不可能と判断し、兵員の撤収に掛かった。
まずは残存する航空機により航空部隊の関係者が、さらに事前に待機していた巡洋艦部隊や駆逐艦部隊が夜陰に乗じて日本側の哨戒線(と呼べるほど厳重なものではなかった)を突破し沿岸部に接近し、民間人、軍人問わずの救助を行った。
この撤退のための艦艇に対して、日本側は有効な攻撃を行えなかった。航空部隊は連日の出撃による消耗から陸軍部隊の援護が精一杯であり、また艦艇も燃料や弾薬の不足から、守りの姿勢を取るのが精一杯であったのだ。
結局2週間に渡る死闘の末、ポート・モレスビーは日本の占領するところとなり、東部ニューギニア地域の制空権と制海権も日本の手にするところとなった。
このことは、日本が南東方面に大きな楔を打ち込んだことを意味し、戦略的な意味は計り知れないものであった。
とは言え、そのために日本側が払った代償は大きかった。艦艇の損失こそなかったものの、海戦に参加した航空機、特に空母搭載機の損失は7割近くに達しており、これは容易に回復可能な数ではなかった。もちろん、ラバウルをはじめとする基地航空部隊も相応の犠牲を払っていた。
この被害回復のため、当面空母機動艦隊は大規模な攻勢をとることができなくなり、MO作戦に引き続くMI作戦は棚上げせざるを得なくなった。
一方連合軍、特に米軍にとってもポート・モレスビーという要衝を喪ったことで、南東方面における反攻はこれまで以上に困難が付きまとうものとなった。
また空母機動部隊も「レキシントン」を喪い、さらに真珠湾への帰路で「サラトガ」が魚雷1本を受けてしまい半年間のドック入りを余儀なくされた。一番軽微な「ヨークタウン」さえ2カ月の修理を要するものであった。
このため、米太平洋艦隊も残存する艦隊空母は「エンタープライズ」と「ホーネット」のみとなり、急遽「ワスプ」を大西洋から太平洋へ回航する羽目に陥った。
こうして、双方ともに攻勢に必要な戦力を欠くこととなり、太平洋では約3カ月ものあいだ大規模な海戦は起きることなく小康を保つこととなった。
そして両軍が再び大規模な戦力同士をぶつけ合うことになるのは、同年8月7日に連合軍が日本軍が建設した飛行場を奪取するためにソロモン諸島ガダルカナル島に上陸することではじまる、ソロモン戦役まで待たねばならなかった。
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