22 紫の瞳、緑の瞳
マユリアの黒い瞳がシャンタルの緑の瞳をじっと見つめている。そしてその二人を皆がまた見つめている。
「お願いです、どうぞわたくしの手を……そしてもう一度わたくしの中に戻り、共にこれからも」
マユリアがすっと右手を差し伸べた。指先まで美しい紫のレースに包まれた細く長い指先が、シャンタルを迎えようと柔らかく差し出されている。
何も知らぬ者がこの光景を見たならば、聖なる神殿の中央の聖なる正殿の正面に飾る神の御姿を描いたタペストリーとでも思うかも知れない。それほどに神々しく光り輝くマユリアとシャンタルの姿であった。
「ううん、ごめんね、やめておくよ」
その稀有なる名人の手による芸術を否定する言葉を、シャンタルはいつものように事も無げに口にする。
「さっきも言ったよね、私はもうあなたのところには戻らないって。それはどんなことがあっても変わらないから」
きっぱりとしたその口調、悪い友人の行いを正し、説諭する少年でしかない。
「そ、そうだぞ! シャンタルはあんたのもちもんじゃねえんだ、手出すな!」
ベルが座っているシャンタルの後ろに座り、やるものかとその肩にぎゅっとしがみつく。シャンタルが背後のベルに顔を向け、
「大丈夫だよベル、そんなことにはならないから。私はずっとベルのダチで家族だからね」
と優しい笑顔で諭すように言った。
室内に清らかな闇が満ちるように、マユリアの笑顔が聖なる魔のような光を帯びる。
それはまるで麝香、妙なる香りにほんの一滴加えることでさらなる妙香になるという異臭のようであった。穢すものでありながら、穢すことで清らかになすかのように。
マユリアの笑顔がほんの少し歪み、泣き顔に近くなる。
「残念です……」
一言だけ口にするとすうっと美しい瞳が閉じられ、一筋の涙が流れる。
「ご理解いただきたかった……」
その姿は苦悩に満ち、見る者はこの方をそれほど苦しめる存在は何があろうと悪であると断ずる以外はできないであろう。
だがここにいるのは普通の者たちではない。八年前のあの出来事を知る者たち、今のマユリアの真実を知る者たちだ。純粋に女神を崇めるだけの無辜の民ではなかった。
この決裂がどのような方向に進むのか分からない。とてつもない緊張感が一気に広がる正殿の中、ただ一人黒のシャンタルその人のいる場所だけが、まるで春の日だまりのような柔らかな光に包まれているようだ。
「ごめんね、だけど無理」
その雰囲気と同じくふわりとした口調だが、その中にはきっぱりとした意思を感じられる。
「あなたはマユリアであってマユリアじゃないからね。もしも私の家族のマユリアが言ったんだったら、まだもうちょっとは考えてあげられたかも知れないけど、あなたにはそこまでしてあげる義理は私にはないから」
「それが世界のためでもですか?」
「うん、無理」
マユリアが瞳を閉じたままで尋ねるが、シャンタルはそれにも一言で拒絶する。
「それに、あなたの言うその方法が私には世界のためには思えないんだ。どちらかというとシャンタル女神のやり方の方が理解できる気がする」
その言葉に閉じたままのはずのマユリアの瞳に怒りが灯ったのが分かった。
「真に人を想うのはわたくしです、シャンタルは人を見捨てました。人の嘆きを理解し、これからも守っていくのはわたくし、女神マユリアであり女王マユリアなのです、女神シャンタルではありません」
「その気持ちはとってもありがたいし、えらいなとも思うよ」
軽い口調だが、その奥にはそれだけではない何か複雑な感情が渦巻いているのが皆にも分かった。
「だけどそれが本当に人のためになるとは私は思えない。多分だけど、女神シャンタルもそう思うから、あなたのようにしようとは思わなかったんじゃないのかな」
マユリアがゆっくりとまぶたを開くと、その奥の黒い瞳のさらに奥に紫の光が灯っているように見えた。その紫は高貴ではない。マユリアの心の奥底にいる黒い影が、血の色と重なって紫に鈍く光っている、そんな色だった。
「真に人を想うのはシャンタルではありません、わたくしです、女神マユリアです」
「うん、マユリアも人を想ってくれていたことはよく知ってる。でもあなたは女神じゃなく女王になりたいんでしょ? それは人を想ってのことじゃないと私には分かる」
シャンタルの深い深い緑の瞳に薄く陰がさした。その色は慈愛に満ち、誰かを憐れんでいるようにゆれる、そんな色だった。
「そんなにシャンタルになりたかったの?」
シャンタルの言葉にマユリアがほんの一瞬だが少し大きく目を見開き、すうっと静かにまぶたが元の位置に戻った。
「そんなにシャンタルになりたかったの?」
マユリアの変化を見てシャンタルが言葉を重ねる。
「でもそれは無理なんだ、シャンタルはシャンタル、マユリアはマユリア。そう生まれてしまったんだから誰にもどうしようもないことなんだよ。人は、いや神もそうかな、生まれたまま生まれたように生きるしかない。いくら姿を真似てもあなたはマユリアなんだよ、シャンタルにはなれない」
はっきりと言いきったシャンタルの言葉には、すでに憐れみはなかった。




