19 眠らぬ世界
一瞬、正殿にピリピリした空気が張り詰めたが、また元の静かな空気に戻ってくれてミーヤはホッと胸を撫で下ろした。
決して穏やかな空気ではない。元の空気もやはり重く、全身を押しつぶされそうな心持ちではあったが、それをさらに切り裂くようなピンと張り詰めた空気がその中に生まれていた。アーダも同じように感じていたのだろう、隣で小さく肩で息をしたのを感
「そんじゃ続けてくれ、何がどう間違ってたってんだ」
「ええ」
マユリアはまるで何もなかったかのように話を続ける。その風情はまるでお茶会で会話を弾ませる女主人のよう。お茶会を盛り上げるために、客に新しい話題を振るかのようだ。
「世界を眠らせぬようにする、これが過ちでした」
「黒のシャンタルは永遠に湖の底で眠り世界もまた眠りの中に落ちるだろう」
マユリアの言葉に続いてシャンタルが託宣の最後の一節を口にする。
「つまり、あなたは世界が眠ったほうがいい、そのために私も湖の底で眠ったほうがよかったって言ってるんだよね」
「おいシャンタル!」
いつものように何も考えていないような口調、ほんの思いつきを尋ねたかのようなその何気なさに、やはりベルがすぐに噛みついた。
「おまえ言ってる意味わかってのかよ!」
「もちろん分かってるよ」
シャンタルはがにこやかに笑いながらベルに答えると、
「おまえなあ、こんなこと笑いながら言うなよな! とんでもねえこと言われてんだぞ分かってんのかよ!」
涙を浮かべながらベルが言い返した。
「泣かないでよ、私はベルに泣かれるのが一番弱いんだから」
「誰だって泣くだろうが、こんなこと!」
言いながらベルは隣に立っていたアランにぎゅっとしがみつき、かろうじてそれ以上泣くのを堪えたようだ。アランはベルの頭を抱えてやりながら、無言でシャンタルを静かに見つめている。
「困ったなあ、そういうつもりじゃないんだけど」
シャンタルは小さくため息をついた。
「ベルが泣いてるのは嫌だけど、とりあえず話を進めないといけないから続けるよ。いい?」
ベルはアランにしがみつきながら、それでも軽く頷いてみせた。話を続ける必要があるとベルにも、そして他の皆にも分かっている。
「じゃあ話を戻すけど、あなたは世界が眠った方がいいと思ってる。それでいい?」
「正確には少し違います」
「そう、じゃあどう違うか教えてよ」
「分かりました」
マユリアは薄く微笑みを浮かべ、賓客に話題を提供するように話を続ける。
「この千年の間、世界は眠りの中にありました。それは千年前にあることが世界に起きたからです。その影響もあり、ここ、シャンタルの神域の空気は淀み、ほんの少しずつ澱がたまっていくように穢れが積もり、次のシャンタルを宿す親御様が生まれられなくなったのです」
「それで次代様が最後のシャンタルになられる、そうなのですか」
フウだ。フウはトーヤを植物園に匿った時、トーヤからそのことを聞いていた。だがその理由までは知らない。
「親御様がお生まれにならない、それならばなぜ次代様が最後のシャンタルになられるかは分かりました。ではその澱や穢れを流しだせば、また新しい親御様はお生まれになられる、そうではないのですか」
理論的にはフウの考えは正しいと言える。
「もちろん、そのように単純な簡単なものではないと理解しております。ですが、根本の問題がそこにあるのならば、それが一番の解決方法であるとも思えますもので」
マユリアはフウの物怖じしない態度に感心するように、明るい笑顔を浮かべた。
「さすがにキリエが見込んだだけのことはあります。ですが、おまえの言う通り、そんなに簡単なことではありません。まず第一に違うのは、この地を守っていたシャンタルが人を見捨てたということです」
フウは答えずに教師の話を聞く生徒のようにまっすぐにマユリアの顔を見つめている。
「この地が守られていたのは慈悲の女神シャンタルの加護があったからです。ですがシャンタルが神の世に去る。神の加護がなくなった人の世がどうなるか、想像することができますか?」
マユリアはフウに向かってそう問いかける。
「神の加護のなくなる世界ですか」
フウは少し考えるようにしたが、
「申し訳ありませんが、今の世しか知らぬ人の身では想像をすることは難しいと存じます」
と素直に答えた。
「そうでしょうね」
マユリアは優秀な生徒の正解を聞いた教師のように、満足そうな笑みを浮かべた。
「神とても同じです。神の加護をなくしたこの世がこの後どうなるのか、本当の意味では分かってはおりません。こうであろうと想像はできますが、そこまでで精一杯です」
「では、その神の想像とやらを教えてもらおうか」
トーヤが言うとマユリアは視線をトーヤに動かし、
「分かりました」
と答えた。
「神の加護のない世、トーヤたちは少しは知っているのではないかと思いますよ。ベル」
「え?」
「ベルのご家族はどうなりましたか」
「え……」
ベルがアランの胸から少し顔を離し、そのまま兄の顔を見上げる。アランも表情を硬くしている。
「それが神の加護のない世で起こることです」
マユリアの言わんとすることがおぼろに分かった。




