16 糸を放す
マユリアは助けの手を差し伸べる慈悲の女神らしくそう言った。
今正殿の中にいるのはマユリア以外には、キリエたち侍女五名とルギ、トーヤたち四名の合計十名だ。
正殿入口から正面にある祭壇の前、向かって右側にマユリアが立っている。祭壇の左側には元々御祭神があったが、今はその枠だけが残っており、まるで御祭神から抜け出た女神が反対側に移動してしまったかのようだ。
まるで写し鏡のような左右対称。その抜け殻の御祭神の台の前にバルコニーから移動してきたトーヤ、ベル、ルギの三人が元のように立ったままの姿でいた。
神官長室で意識のないセルマを見ていたキリエとフウ、そのそばに立っていたミーヤとアーダの五名の侍女たちはマユリアの前に移動していた。セルマは頭をマユリア、足を正殿の入口に向けた形で横たわっている。その左手をキリエが握り、キリエのすぐ後ろでフウも床に座って一緒にセルマの方を向いている。フウのさらに後ろにミーヤとアーダが立ったままその様子を見下ろしている形だ。
神官長室の入口に座ってヌオリたちを見張っていたアランは中央よりトーヤたち寄りの場所、元の御祭神前に扉に背中を向けたままの形、侍女たちの方を向いてあぐらをかいて座っている。すぐ後ろにはルギがいて、背中に神経をそばだてながら、マユリアに怒りの目を向けている。
皆をここに集めたシャンタルはちょうど祭壇の中心の前だ。キリエたちと向かい合うようにセルマの方を向いて治癒魔法をかけていたが、今は軽く首を左に捻り、マユリアの方を向いている。
「糸の端をお放しくださいご先代。そうすればなるべく形に物事は動きます」
もう一度ゆっくりと説得するようにマユリアはそう言った。
シャンタル以外の九名全員の目がシャンタルに注がれていたが、そのうちの一人が動いた。
「やめろシャンタル」
ベルだ。シャンタルの前に立ちはだかり、マユリアの目から隠す。
「おれはシャンタルを守る。あんたの言うことは聞かせねえから」
ベルはまるでアランのように冷静に、静かにそう言ってマユリアに立ちはだかった。
「そうしているとよく似ていますね。水と炎のように違うお二人だと思っていましたが」
マユリアが兄と妹をそう評した。
「そんなこと言われたくねえ!」
ベルがいつもの激しさを取り戻す。
「シャンタル、絶対こんなやつの言うこと聞いちゃだめだ! ぜったいいいことあるはずねえ!」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて」
ベルにそう声をかけたのは当の本人のシャンタルだった。
「なんでも聞いてみてだよ。もしかしたらそれで丸く収まるかも知れないじゃない。とりあえず話を聞いてみよう」
「んなはずねえだろ! さっき、あんなことされて殺されかけたんだぞおまえ!」
確かにそうだった。あの時、トーヤが姿を現して御祭神の分身を抱かせなかったら、あのままシャンタルは命を落としていたに違いない。
「結局そうなってなかったんだから、あのままにしておいても、もしかしたらなんとかなった可能性はあるよ」
「おい……」
ベルが信じられないという顔でシャンタルを見ると、
「とりあえず聞くだけ聞いてみようよ。それで嫌だったらちゃんと断るから。とにかくここで止まってても話にならない。だから落ち着いて」
ベルが濃茶の瞳をまっすぐぶつけると、シャンタルは美しい顔を美しい笑顔にゆるませた。
「分かったよ、おまえを信じる。絶対に絶対に怖いことにしないでくれよな」
「うん、ベルに心配させたり泣かせるようなことはしないから、私を信用して」
「分かった……」
シャンタルはもう一度ベルを安心させるようにニッコリと笑うと、マユリアに笑顔をそのまま向けた。
「それで手を放すって一体どうしたらいいの? 申し訳ないんだけど、私にはその糸を握っているという感覚がないんだ。もしも手に持っているのならそのまま放せばいいのかも知れないけど、どうしたらいいか分からない。それから、もしもそれを放せたとしたら、その時私は一体どうなるのかも教えてくれるかな」
まるきりいつもの調子、まるで自分の命が危ういかもなどと思いもしない口調でシャンタルはマユリアに質問する。その様子にマユリアが楽しそうに笑った。
「本当にお変わりではいらっしゃらない。八年前のあのまま、可愛らしいご様子のまま」
「そう言うけど、私もトーヤと同じ、あなたとは会ったことがないと思ってる」
シャンタルはのんびりした口調でずばりとそう切り捨てた。
「あなたは私が知ってるマユリアとは違う。私もそう思ってる」
マユリアはシャンタルの言葉にも笑顔を崩さず、さらにほんの少しだけ口角を上げて笑みを深くする。
その笑顔はさらに美しく、さらに暖かく、慈母のごとく全てを包み込むよう。
「先ほども申し上げました。わたくしはわたくし、マユリアです。あなた様のことはお生まれになった時からずっと見守ってまいりました。あなた様を愛し、それと同じほどに人を愛しております。女神シャンタルが人の地を見捨てて去ろうとしている今、救うことができるのはあなた様とわたくしだけなのです。どうかお心を開いて糸をお放ちください。それしかもう道はないのです」




