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 9 マユリアの記憶

 マユリアの言葉に思わずトーヤは返す言葉をなくした。


 目の前の女神の言っていることは本当だ。トーヤだってあの時のことははっきりと覚えている。忘れるはずがなかろう。あんな衝撃的な出来事を忘れられる人間がいるはずがない。


「託宣により選ばれた神の助け手(かみのたすけで)


 マユリアの声にトーヤは過去に戻りかけていた自分をハッと取り戻す。気を抜いてはいけない。目の前の女神はその時の女神とは別の者なのだ。


「わたくしがそう告げるとトーヤは驚きのあまり声も出ないようでした。それでわたくしは後をミーヤに託し、その時は部屋を出たのです。トーヤにも状況を考える時が必要だ、そう思いました。その後、自分の部屋に戻った時にもわたくしの胸はまだドキドキといつもより早く打っていたのを覚えています」


 マユリアは語り続ける。


「黒のシャンタル」


 今度の言葉に部屋中の者が少し身を固まらせた。言われている本人だけは全くいつもの通り変わらない。


「その託宣の時が来たのだと知った時のわたくしの深い絶望を分かってもらえるでしょうか。マユリアだけが知るその時がなぜ今。ラーラ様と共に手を取り合い、何度も話をして、そして涙を流しました。あのつらく悲しい託宣から助けてくれる方が現れた。あの深い悲しみの先だからこそ、夜明けを待つ花が朝露にを受けて光るように心が輝いているのだろうか。そう考えるだけで頬が熱くなり、体が震えるようでした」


 まるで初恋の歓びを語るようにマユリアは続ける。


「いつもいつも、トーヤはわたくしの知らぬことを語り、思わぬことをしてくれました。その度にわたくしは心ときめき、見知らぬ外つ国(とつくに)に旅をしているように感じていました。そうそう」


 そこまで言ってマユリアはふふっと楽しそうに一つ笑ってから言葉を続ける。


「一度、こんなことを聞いたことがありましたよね。トーヤはわたくしを好きかどうかと」


 この言葉にルギの指がほんのわずかにピクリと動いた。ついさっき、バルコニーの上でトーヤの口からその話を聞いた。その同じことを今度は主が語ろうとしている。

 

 ベルは心臓を持ち上げられるような心地でルギの指を見た。トーヤが見ているかどうかは分からない。だが、この中でこの話に反応できるのはおそらく自分だけであろうと思ったからだ。

 

 だがもう一人、トーヤからではなくマユリアからその話を聞いた者がいる。ミーヤだ。ミーヤはマユリアからこの話をされた時のことをよく覚えていた。最初はなにか得体のしれない感情が湧き上がり、トーヤがマユリアの好きなところを語ることなど聞きたくはないと思った。だが、聞いてみるとなんともトーヤらしく、そしてマユリアらしく思えて自分の感情を恥じたからだ。

 その想いがあるだけに、ルギの動きにミーヤも気づいていた。そして恐れた。ルギがこの話をどう受け止めるのかと。ミーヤは知らない。ついさっき、トーヤ本人がルギの殺意をかき立てるためにこの話をしたことを。


「トーヤはわたくしを好きだと言ってくれました」


 マユリアはそこで言葉を切ると、天上の笑みをトーヤに向けた。


「そのことをわたくしがどれほどうれしかったか、きっと誰にも分かってはもらえないと思います。この方はマユリアであってマユリアではないわたくしを、素のままのわたくしを見てくれている。その時の感動が分かるでしょうか」


 マユリアは夢見るようにうっとりと目を閉じ、ほんの少しだけ顎を上げた。


「トーヤだけではありません、ミーヤも私を好きだと言ってくれました。そして」


 そこまで言ってマユリアはまたふふっと楽しそうに少し笑うと、


「そう、海賊に迫られて、わたくしのどこを好きかを教えてくれました。そうですよね」

「はい、そうでした」

 

 ミーヤもはっきりと覚えている。あの時のことは。


 この状況には戸惑うしかない。ここに集まったのはマユリアと思い出話をするためではない。今、ここにいるマユリアが皆がよく知る当代ではなく、当代を乗っ取った女神であることをはっきりさせるためだったはずだ。それがどうしてこのような流れになっているのか。


 目の前のマユリアが持つ記憶はトーヤもミーヤも、そしておそらくは他の者も、共にそうであったと語り合える記憶、共に過ごした時を心に蓄えた泉のようなものであった。


 それはつまり一体どういうことなのか。答えを出すのは決定的な絶望を手にするようで考えたくはない。


「それはつまり、あんたが当代をすっかり取り込んじまったってことなのか」


 だがトーヤは答えを求める。それを口にすることは喉が裂けるように苦痛であったが、聞かずに終えることはできないことだ。


「そうなのか、今、当代はどうなってる」


 トーヤの言葉にマユリアは優しく優しく微笑んだ。


「わたくしはわたくし、あなたたちがよく知るマユリアなのです。それ以外の何者でもありません。では当代とは一体何者なのでしょう」


 さきほどは「マユリアとは何者か」と問うた美しい唇が今回はそう問う。


「マユリアとは、当代とは、一体何者であるのか。それはもうあなたたちにもよく分かっているはずです。それはわたくし、あなたたちの目の前にいるこのわたくしです。違いますか?」

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