8 目前の女神
その立ち姿だけで誰もが思わず膝を折り、これは夢か幻かと我が目を疑い、永遠に見つめていたいと願うその麗しき姿。
正殿の祭壇の前、今まさに人生で一番輝く時を迎えようとする花嫁の姿のマユリアは、愛する伴侶と手を重ね合っているかのように右手を軽く婚姻誓約書の上に置いたまま、ゆっくりと後ろを振り向いた姿勢でこちらを見ている。
トーヤとベルとルギが正殿に飛ばされた時、まだマユリアは祭壇の方を向いていた。音もなく降り立った三人の気配を感じているのかいないのか、その後姿は何者にも乱されぬまま神聖な儀式に向き合ったまま揺らぐこともない。一瞬遅れて次に神官長室からの一団が部屋に降り立ち、正殿の空気の密度が濃くなった気配でマユリアはゆっくりと後ろを振り向いたが、驚くこともなく、いつもの優しい笑顔を集まった者たちに与えただけだった。
誰もがその笑みに息をするのも忘れたかのように釘付けになり、そのまま時の終わりまで動きを忘れるのではないかと思われたその瞬間、口笛の音と共にこんな言葉が投げかけられた。
「こりゃまたえらいべっぴんだ。まっすぐ見たら目がつぶれそうだぜ」
トーヤの言葉に高貴の紫に包まれた女神はシャラシャラと透き通る鈴の音のように笑う。
「相変わらず愉快ですねトーヤ」
「相変わらずって、俺はあんたに会うのはこれが初めてのはずなんだがな」
その声、その言葉はいつものマユリアの物であったが、トーヤは容赦なくそれを否定する。
「あんたは俺が知ってるマユリアじゃねえ、そうだろ? ああ、まだ挨拶してなかったな、はじめまして、だ」
この言葉にマユリアは美しい眉をほんの少しだけ悲しげに歪めた。そのほんの少しですら見た者に深いため息を引き出し、そうさせた者に憤怒の形相を向けそうだ。
「なあ、あんたはこのルギの旦那の主のマユリアじゃねえ、そのことを教えてやってほしいんだよ」
トーヤは目の前の女神だけをまっすぐ見つめながら、遠慮なく言葉をぶつけていく。
「あんたは女神マユリア、俺らがよく知る当代マユリアじゃねえ。代々のマユリアが受け継いできた女神様御本人だ、そうだろ?」
ルギはその言葉をどう受け止めたのか、表情を変えぬまま視線だけをトーヤに向ける。
「隊長、今言った通りだ。目の前のこの女はあんたの主の当代マユリアじゃねえ。その内側にいた女神が体を乗っ取って入れ替わってるんだ。あんた、それでもこの女に忠義を尽くす、その剣で守るつもりか?」
ルギはまた表情を変えぬままマユリアに視線を戻す。
マユリアの表情からは何も読み取ることができなかった。そこにあったのはいつもように嫣然と微笑む美しき女神だけ。
ルギの目前でいつもと変わらぬうつくしき女神は、ほんの少しだけ悲しげだった眉をまた元の笑顔に戻す。
「やはりトーヤは愉快だこと。初めて出会ったその時から、わたくしはいつもトーヤと会うのを楽しみにしていました。いつもいつも、わたくしを楽しい気持ちにしてくれる」
その様子はまるきりいつものマユリア、この女神がこれまで色々な時を共に重ねたあのマユリア以外であるとは、誰にも思えない。
「そう言ってくれるのはありがたいけどな、俺はやっぱりあんたと会うのはこれが初めてだ。なあ、俺の知ってるマユリアと会わせてくれる気はねえか」
トーヤはそんな迷いなど一切ないように、あくまで目の前の女神は自分の知っているマユリアとは別人だと主張する。
マユリアは今度は少し愉快そうに、それでもそこに残念な気持ちが含まれていることが分かる表情を浮かべた。
「トーヤ、わたくしも伺いたいことがあるのですが、構いませんか?」
「なんだ、言ってみろよ」
「では聞きたいのですが、マユリアとは一体何者なのでしょう」
「何者?」
「ええ」
まるで楽しい判じ物を披露するかのように、マユリアは楽しげにトーヤに問うた。
「トーヤはわたくしと会うのが初めてだと言いました。ですが、わたくしはもうすでに何度もあなたと会っています。初めて会ったあの客殿で、あなたの答えを聞いた時のあの楽しかった気持ち、今でもはっきりと覚えていますよ」
トーヤがマユリアと初めて会ったのは、嵐の海に飲み込まれた後、カースの海岸で助け出されてシャンタル宮に運ばれて数日後のことだ。ずっと意識を失ったままだったトーヤが目を覚まし、何がなんだか分からないうちにマユリアが現われ、トーヤにこう聞いたのだ。
『お気がつかれましたか?』
「お気がつかれましたか?」
トーヤの記憶に今のマユリアの声が重なる。
「わたくしがこう聞いたら、トーヤは気はついたがどういう状況か分からないので困っていると答えました。そうでしたよね、ミーヤ」
「あ、は、はい」
思わずミーヤもいつものように質問に答えてしまった。それほどマユリアはいつものままだ。
「ミーヤもその時そばにいましたよね。あの最初の答えから、わたくしはなんと楽しい人なのだろうと思い、そしてこの国の未来を託すのはこの方なのだと、心の底から信頼をしたのです。そしてその気持ちは今も全く変わってはおりません。今もわたくしはトーヤがこの国のためにこの場にいてくれるということを、信じております」




