4 神が人になる時
八年の時を経て、ルギの中にあの時の殺意がくっきりと蘇っていた。
だがルギは愚かではない。感情に振り回され剣を抜くなどあり得ない。どれほど今すぐ目の前の男を斬り伏せたいと思っても、手にしているこの剣は自分の剣であって自分の剣ではない。主の剣だ。主の命なく血に濡らすなどできるはずがない。
主を守るべき剣、主に捧げた聖なる剣。腰に重みを感じながらルギは激情を抑え込む。
トーヤはルギの心の内を読む。自分に対する殺意が限界まで膨れ上がっているが、マユリアの命なくばその感情が表に出てくることは決してないことを。そしてそれを分かっていながら続ける。
「まあそうやってあんたをやり損なった後、色々あってシャンタルを助け出すって仕事を受けたわけだが、あの時はすっきりしたぜ、本当に。それまでずっと神様扱いだったのが、本来の自分に戻れたわけだからな」
ルギは気持ちを抑えながらも、トーヤの言葉を一字一句逃すまいとするかのように耳を傾ける。今はそれしかできることがないかのように。
「けど、その正反対のマユリアたちは人に戻ってどうする。俺の場合と違って人でいたことはないわけだ。そりゃ宮で今までと同じく神様でいたいよな。それが無理でもラーラ様みたいに侍女でありながら侍女じゃねえ、神様の母親みたいにいられりゃ、いっそその方が幸せってもんだ。だからマユリアの三つの願いの中で、これが一番上だとしても不思議じゃねえだろう」
人の心を考えた時にこれは至極全うなことだとトーヤは思っている。
「神様だ英雄だって持ち上げられるのはそりゃ気分のいいもんだぜ。最初のうちはこりゃどうなってんだって警戒してた俺みたいな奴ですら、上げ膳据え膳、豪華な宮殿でふかふかの布団、何もしなくても困ることもねえ、命の危険もねえとくりゃ、ずっとこの生活が続けばいいと思っちまった。マユリアたちはその逆だ、これまで普通だと思って持ってたもんを全部取り上げられるんだぜ? これがどんだけ残酷なことか、本人たちにもよく分かってねえんじゃねえか。何しろそういう生活したことねえんだからな」
トーヤはルギに現実を突きつけていく。
「それまで言わなかったことを全部ぶちまけて、傭兵として仕事を受けた後、一人であっちこっち走り回れるようになった。思いもしねえ重荷も背負っちまったけど、それまではずっとあんたの監視付きだったのがなくなったら、そんなんもん苦にもならなかったね。自分で選んで背負っちまった荷物だしな。それぐらい自由ってのは他に代えがたいもんだ。俺の場合はそうやって人に戻れてホッとしたけどマユリアたちは違うだろうが」
トーヤはぐっとルギに一歩近寄って言葉に力をこめる。
「あいつらはな、人に戻るんじゃねえんだ、人になるんだよ。これまでなったことのねえもんにな。その恐怖がどんなもんか、俺らにはとても分かるもんじゃねえだろうさ」
自分より高身長のルギを正面からぐっと睨みつけながらトーヤは続ける。
「あんたもこれまでないもんになっちまった点では一緒だな。あの女神様に会って、そのおかげで漁師の息子から、なんでか今では警護隊隊長様だもんな。けどな、それはなんてのか自分で望んでそうなった、そうだろ? あいつら代々のシャンタルたちには選ぶこともできねえ、物心ついたら勝手に神様にされちまってる。そんで交代が終わったら、ご苦労さまでしたってとっとと人に戻れだ。食うに困ることがねえほどに金がもらえるって話だから、生きていけねえって心配はねえだろう。けど、その金持ってどう生きろってんだって話だよ」
トーヤの本音だ。ずっとこの国に対して持っていた不愉快な部分もルギにぶつける。
「でもまあ、それはこの国がずっとやってきたことだし、俺がどうこう言ってもしょうがない。けどマユリアはその上にさらに二期目の任期なんて、誰もやったことのないことをやらされた。他のやつの倍の長さ、穢れってのにさらされ続けて一体自分はどうなるのか、そりゃ不安だったろうさ。なんもかんも一人でおっかぶってこの八年耐えてきたんだろう。そのことで多少変になってもしょうがねえよな」
まるでマユリアがおかしくなったかのような言い方に、ルギの眉が僅かに動いた。
「怒るなって、俺はありえることだって言ってんだよ。マユリアだって神様だっても人間だ。おっと、変な言い方になっちまったが、まあそういうこった。こんだけのことやらされて、お役御免って人に戻らされるのは割に合わねえと思うようになってもしゃあないよな。それぐらいなら自分が女王になって直接この国を支配してやろう、そう思っても全然おかしくない」
「黙れ……」
もう一度ルギが同じ言葉を口にする。
「あの方を侮辱することは許さん」
「じゃあなんであの二人はあんなことになってた。そして神官長はどうなった。残ったのは誰だ、こうなって一番得をするのは誰だ、それを見たら疑う余地はないだろうが。あんたもちょっとはなんか思うことがあるんだろうが、だったらそれをちゃんと見ろよ」
トーヤとルギの目が正面からぶつかり合い、見えない火花を散らす。




