20 夢の種
ルギがシャンタル宮に現われた時のことを神官長も知っている。ちょうど先代の神官長が突然亡くなり、後継候補の二人の実力が拮抗するあまり、一度中継ぎとして誰かを立て、決着がついたらどちらかが正式に神官長にと決まり、神官長がその中継ぎに決まった直後のことだった。
突然聖なる森からやってきたその男の子は、当時12歳にしては体が大きく、見た目はもっと年上に見えた。それまでになかった事態、神官長も当時のシャンタルがその子の尋問をする場に立ち会ったのだが、話は思わぬ方向に進み、カース出身の漁師の息子でルギという名の少年は、衛士見習いとして当時の衛士長預かりと決まった。
その日からルギはマユリアに忠誠を誓い、言葉通りにマユリアの衛士となる。つまりマユリアの物である。皆もルギ本人もそう思っているだろう。
「わたくしの物になってくれなければ、永遠に剣として携えるというわけにはいかぬのです」
その言葉を聞き、神官長は自分とルギの違いをしっかりと理解した。
「携える」
女神を守るための剣として永遠に生きる。そういうことなのだ。
自分は人として女神の国のための礎を築くために尽力し、その生命の最後を捧げて女神の糧になる。それと同じなのだ。
神官長はルギに同志としての親しみを感じ、同時に先ほど感じた自分は選ばれなかったのだとの絶望が消えるのを感じた。
神官長の表情を見て、女神マユリアも少しホッとした顔になる。
「ええ、どちらもわたくしにとって大切な存在なのです、理解してもらえてうれしく思います」
「はい、申し訳ありません」
神官長は自分の勘違いを恥じた。主はこれほど自分を頼ってくれているではないか。それなのに選ばれなかったと僻むような気持ちを抱くなどと、なんという思い上がりか。
「表にあるこの者と内なるわたくし。心を同じくし、一つになるにはまだ色々なことが足りません。ですが、来たるべきその日には、この者の心もわたくしの中に溶け合い、永遠の命となるのです。あなたと同じく」
「はい」
神官長は主の言葉をあらためて深く心に刻む。
「これからのわたくしを支えてくれる者たち、その一人としてあの者がどうしても必要なのです。その役目を任せてかまいませんか?」
「はい、もちろんでございます」
「ありがとう」
女神は美しい笑顔を残し、当代の心の奥深くに戻っていった。
変わって表に戻ってきた当代マユリアは、さすがに何かがおかしいと感じているようだった。
いつもなら、ほんの一瞬のことのようにうまく時間をつなぎ、何ごともなかったかのように繕っていたが、今回は複雑な話をしたことからいつもよりかなり長い時間を要することとなった。何ごともなかった顔をするわけにはいかない。
「あの、大丈夫でございますか」
神官長は心配そうな顔をマユリアに向けた。
「少し、なんと申しますか、つらそうな顔をなさっておられました」
「そうでしたか……」
マユリアは美しい左手で美しい額を押さえ、小さく一つ息を吐いた。
「あの」
神官長はおずおずと申し出る。
「キリエ殿にお伝えした方がよろしいのでは」
「いえ、大丈夫です」
マユリアは極力普通の表情を保とうと努力をしているように見えた。
「ですが、ご不快そうですし」
「いえ、キリエには言わないでください。大したことはありません、少しめまいがしただけですから」
マユリアはそう言うと美しい笑顔を神官長に向けた。
「ですから、誰にも何も言わないでください。特に問題はありませんから」
「はい」
シャンタル宮の主であるマユリアにそこまで言われてしまったら、もう逆らうことはできない。神官長は言われた通り誰にも何も言わずにおくことにした。もちろん、そうなるであろうと思った上での行動であったが。
神官長は黙ったままマユリアの部屋を辞して自室へと帰った。これから先のことを考えながら。
初めて女神マユリアの言葉を聞いてからその時まで約五年の月日が経っていた。当代の内なる女神との時間を少しずつ少しずつ伸ばすことに成功していたが、当代に怪しまれるほどの長さの時を共有できたのはこの時が初めてだった。
神官長は満足していた。美しい理想の国、女神の国を作るための下準備は着々と進んでいる。セルマは思った以上にうまくやってくれている。あの鋼鉄の侍女頭が素直にセルマに奥宮での権力を手渡したのは拍子抜けなほどであったが、次の交代では北の離宮へと移動する身、実際に負担が大きくなっているのだろう。
その後も神官長は同じ方法で女神マユリアと会話を続けながら、さらなる下準備を重ね続け、頃合いを見てルギに「美しい夢の国」の話を持ちかけた。
『美しい夢はいいでしょう?』
ルギの心にも美しい夢が広がっているはずだ。神官長の話に心の病ではないか、侍医に診てもらうようにと言いながら困惑していたルギの瞳の奥を見て、小さな夢の種を植え付けることに成功したと神官長は確信している。
運命の日、婚儀を守護する者として最上級の正装に身を包み、マユリアに下賜された聖なる剣を身に帯びたルギを見た時、神官長の心には羨む気持ちより、誇らしく思う気持ちの方がはるかに大きくなっていた。




