12 一瞬の邂逅
神官長は心の奥で、今の職を辞してもっと楽に生きたいと思い始めていた。たとえ一般職に戻されて、若い神官と同じ仕事をすることになったとしても、これほどの負担を強いられることはないのではないだろうか。
あの日、聖なる湖で見たことは忘れてしまえばいい。ただの一神官に戻って神官長時代のことは全部なかったことにすればいい。
そもそも自分は中継ぎ、一時的のつもりで神官長を引き受けたのだ。あの二人の権力闘争の決着がつくまでの間、前の神官長がいきなり亡くなってしまったので仕方なく。こんなに長い間、ましてや一生そのような重責を担うつもりなど全くなかった。一体どうしてこんなことになってしまったのか。
湖で見たことだけではなく、神官長になったこと、そのことまでも全部消してしまいたい。今となっては切実にそう思う。すぐにでも一神官に戻りたい。たとえそれが恥となることであったとしても。
だが、通常でも健康な神官長が職を辞するということは慣例としてないことだ。その上にあんなことがあった。シャンタルが交代を終えずに亡くなってしまうという、歴史上初めての出来事が。その大変な時期に神官長を辞めたいとはなかなか言い出しにくい。
一体どうすればいいのか。神官長は、いっそ病にでもなればいいのにと思い詰めるようになった。
聖なる湖で見てしまった黒い棺のこと、シャンタル宮からの助力の要請、先代シャンタルが亡くなったことに関する諸々のこと。色んな重荷を背負ったことから、神官長はやがて心身を蝕まれ始めていった。
夜はよく眠れず、かといって昼間に休もうと思ってもやはり眠れも休めもしない。体を横たえても頭のどこかで常に何かを考え続けているような、それでいて自分でも何を考えているのかすら分からないような。そんな中で、必死に自分がやるべきことをなんとかこなしている日々が続いていた。
その日もそうだった。宮の仕事の一部を神殿に持ち帰ってやることになり、マユリアにその許可をいただくために面会を申し入れた。
いつもの前の宮にあるマユリアの客室、いつものように見た目だけは変わらず、神官長は目の前の主に淡々と報告を続けていた。
「では、その用務を神殿で一部受け持ってくれるということなのですね」
「はい、そのように許可をいただければと思っております」
「分かりました、そのように――」
そこでいきなりマユリアの言葉がぴたりと止まった。
神官長は半分夢の中のような意識の中で、自分の意識が遠のいたように感じていた。マユリアの声が小さく遠ざかり、聞こえなくなっていったかのように。
主の前で意識を失うなど、なんという不敬。もしや昼夜を問わず眠れていないことから自分は居眠りをしてしまったのだろうか。
もしもそうならば、自分が望むまでもなく、そのような者に神官長を任せることはできないと罷免されるかも知れない。それならばそれで構わない。いっそ罪人としてどこかの暗闇の中で残りの一生を送るのならば、それもそれでいいだろう。
神官長は静寂の中でそのようなことも考えていた。特に感情の振れもなく、目の前を枯れ葉が一枚風に飛ばされるのでも見ているような、そのような感覚の中で。
その時、一瞬にして神官長の意識を現世に呼び戻す言葉が聞こえた。
「聖なる湖で見たことで、そのように苦しんでいるのですね」
美しい言葉がもやのかかった神官長の頭の中に飛び込んできた。
今、主はなんとおっしゃった?
まだうっすらともやがかかる意識の中で、神官長はゆっくりと顔を上げた。その行為が女神に対して失礼であるかどうかも考えられず、じっと正面からマユリアの美しい顔を見つめる。
マユリアは美しかった。
もちろん神官長はこれまでの長きに渡り、美しい主の顔を見続けてきた。マユリアがまだ幼いシャンタルであった時代から、なんと美しい方だろうと思っていた。だけど、こんなに親しげに、母のように優しい笑顔を向けてもらったことはない。
光り輝く美しさよりも、これまでにはなかった親しげなその柔らかな表情に、神官長はうっとりと見惚れた。
感激で声が出ず、身動きもできない。
その神官長の前でマユリアは慈悲に溢れた笑顔を浮かべながら、
「今は時がありません。またきっと会いましょう」
そう言って元の当代にと戻っていった。
ほんの一瞬の邂逅。ほんの一呼吸を吸って吐くほどの間の出来事。それでも神官長に取ってその出来事は、まるで星が降ってきたかのような奇跡であった。
「ごめんなさい、ちょっと考え事をしてしまったようです」
「いえ」
神官長は全身の力を振り絞るようにして、やっとその短い答えを口にした。
どうやらマユリアは今のことを覚えてはいらっしゃらないようだ。
一瞬だけそう思ってから、神官長はすぐにその考えが間違いであると考え直した。
今の方は目の前にいらっしゃる主ではなかった。
では一体どなたであったというのだろう。
神官長は心臓が高鳴り、全身の血が早く巡るのを感じていた。
『今は時がありません。またきっと会いましょう』
ただその言葉だけを溺れる者がすがる命の綱のようにしっかりと握りしめ、その時を待つと決めた。




