19 白紙のトーヤ
光の言葉にトーヤは動けなくなる。
そんなことが果たして可能なのか?
『可能です』
トーヤの心を読んだように光が答えた。
『あなたはもう十分力を貸してくれました』
『あなたはもう十分苦しみました』
『あなたがどれほど悩み苦しんだかよく知っています』
『そのあなたがもうこれ以上の重荷を背負えない』
『今の運命を耐え難いと言うのなら』
『その気持ちに応えることもよいのではないか』
『それもまた運命なのではないかと思います』
運命、何度も聞いたその言葉。時にはもうたくさんだと思い、聞くのも嫌だったその言葉。その言葉から開放されるというのか? そんなことができるのか?
『可能です』
また光がそう言った。
「だ、だけどな」
トーヤの口が頭が考えるより先に動く。
「俺が、そんなことしたくねえって言ったら、みんな困るだろ?」
『困る、ですか』
光がその単語の意味を探るように言う。
『ないことを誰がどう困るというのでしょう』
「ないこと……」
そのことでやっとトーヤは光が言っている意味を理解できた気がした。
「つまり、俺がここがいいって言って降ろした場所から話は始まる。その時が昔で、たとえば俺があの時にこっちに来る船には乗らねえって決めたとしたら、俺が船に乗って、こっち来て、嵐に飲み込まれて、カースに流れ着いて、目が覚めたら宮の中で、マユリアに会って、シャンタルに会って、あの湖からシャンタルを助け出して、アルディナに戻って、アランとベルに会って、こっちに戻って、そういうのが全部なかったことになるってことなのか?」
『そうです』
トーヤの感情は気にかけないように光は続ける。
『道は進んだ先にできるもの、進まなかった先にできていたことはすべて可能性でしかありません』
「可能性……」
トーヤはあらためてその単語の意味を噛みしめる。
「可能性ってのは、そういうもんだってことだよな……」
光は答えずトーヤは沈黙の中に落ちた。
永遠のような沈黙の中でトーヤは考える。
以前、初めてあの洞窟に行った時、トーヤはダルに言ったのだ、逃げ出したくないと。
自分の身に何が起こっているのか分からず、とにかく逃げたいと足掻き続けていた。逃げ出すためならなんでもしてやろうと。だが、自分の周りの人間たちが自分の運命を受け止めて必死に生きている、自分の役目を演じ続けている、そのことを知り、自分も自分の役目を演じ切りたいと思ったのだ。
『逃げるのではありません』
トーヤの心を受け止めるように光は言う。
『違う道を進むだけのことです』
『いくつもの道の中から違う道を選び直すだけのこと』
「いや、そう言われてもな……」
どうしてだろうとトーヤは思う。きっぱりと光の言葉を突っぱねることができない。
自分は今までもずっと自分の意思で道を選び続けていたはずだ。船に乗ると決めたのも自分、逃げ出そうともがき続けたのも自分、そして「助け手」としての役目を全うすると決めたのも自分だったはずだ。
ある人の笑顔が浮かんだ。涙を流しながら笑顔で送り出してくれた昇る太陽の色の侍女。
苦しかった。離れたくないと思った。引き止めてくれ、行かないでと言ってくれと。
だがそう言わずに、
「いってらっしゃい」
そう言ってくれた。
自分はその言葉に、
「いってきます」
そう言って背中を向けて一歩を進みだしたのだ。
それなのにどうしてだ?
トーヤは自問する。自分の運命は自分で選んできたと言い切ればいいだけの話じゃないか、どうしてそれができない。
「人間ってのは弱いもんだよな……」
自分は強い人間だと思っていた。強くないと生き残っては来れなかったら。生き残るためにできることは全部やってきたつもりだ。
シャンタルを連れてあちらに戻り、戦場に戻ることになった時にもこんこんと言って聞かせた。
「いいか、戦場は自分が生き残るだけで精一杯の場所だ、死にたくなかったら自分の両手で持てる物以外は全部捨てろ。持って走って逃げることができる物、それ以外は全部な。それができねえなら戦場には置いておけねえ。今すぐここから出ていけ!」
戦場で生きたいと言ったシャンタルにこう言ったのは自分だ。
「そのことすら、自分で選んだことだと後悔したことなんざ一回もねえ。手を汚しても、それが必要なことだと思うからやってきた。やらなけりゃよかったと思うことなんかなかった。なのになんでだ?」
今、トーヤは人生で初めて揺れている自分を感じていた。
『あなたは正しい』
光が降り注ぐ。
『あなたが自分で選んだ道は全て正しいことです。それがあなたの運命なのですから』
『ですが、あなたには人が負う以上のことを負わせてしまった』
『人の身が負うには重すぎる荷物を』
『そしてそれはわたくしのせいだと分かっております』
『一度白紙に戻って新しく道を歩み直す』
『それはわたくしのあなたに対する負債を返すということです』
『もしもあなたが望むのならば』
『この過酷な運命を選びたくなかった』
『この先に進みたくない』
『そう思うのならば、先ほど見た運命の違う道を進むことを選んでもよいのではないでしょうか』
『決して後ろめたく思うことではありません』




