9 真の敵を討て
眼前に広がる民たちの視線を浴び、ヌオリは満足していた。
そうだ、さっきまでのあの出来事は全部悪い夢だ。自分はこうなるために生まれてきて、こうなるために生きてきた。そしてこれからもいつでも中心にあるために生きる。
「陛下は消えつつある命の火を燃え立たせ、私にこうお伝えになられた。全ては息子皇太子を誑かした逆臣のせいだと! その逆臣とは、皇太子妃の父ラキム伯爵、その伯父ジート伯爵の仕組んだことだ!」
実際の名を知り標的は定まった。民たちは一気に非難の声を上げる。個々に何を言っているのかは分からないが、巨大な怨嗟の渦が天にも届けとばかりに空気を揺るがす。
「聞け、民たちよ!」
燃えたぎる怒号がヌオリの一声で静まる。
「真の敵、それは皇太子に取り入り、そのお人柄を変えてしまったラキム、ジート両伯爵に他ならない!」
うおおと声が上がる。
「両陛下の仇を討つのだ! そしてシャンタリオを本当の姿、あるべき姿に戻せ!」
「そうだ! 真の敵を討て!」
タンドラがヌオリの言葉に呼応すると、広場からも同じ声が続いた。
「真の敵を討て!」
「真の敵を討て!」
「真の敵を討て!」
耳が割れるような衝撃に全身を包まれながら、ダルはこれまで感じたことがない恐怖が湧き上がるのを感じていた。
ダルは静かで穏やかなカースで生まれ育ち、生涯漁師を続け、カースで死んでいくのだと思っていた。それが大部分のカースの漁師の一生で、自分もそうなのだと疑うことなく生きていた。海の波が静かに打ち寄せるカースの浜、波が永遠に寄せては返す。そんな風に自分を一生を送るのだと。
同じように、シャンタリオの人々も、自分と同じく穏やかな人々だと思っていた。なのにどうだ、今のこの様は。まるで見たことがない生き物のように、怒りに任せて敵を討てと叫んでいる。
まるで悪夢だとダルは思った。そしてそれに流されずにいる自分自身を信じられずにもいた。
どうして自分はこの渦に巻き込まれずにここに立っていられるのだろう。それが不思議でならないが、それはやはり八年前のあの出来事を経験しているからだろう。
自分の目で見て自分の頭で考えて自分で行動する。ある日トーヤと話していた時にトーヤが何気なくこの国の人間にはそれが弱いと言ったことがあった。穏やかな世界で生きてきたのでその流れに身を委ねがちだと。
それがこれかとダルは身を持って感じていた。衛士の中にも浮足立っている者がいるのも見て取れた。副隊長のボーナムはさすがに押し留めているが、多くの者が国王の突然の死の報に混乱し、ヌオリたちに誘導されてしまっている。
どうすればいいのかとダルが混乱していると、頭上からまた新たに声が落ちてきた。
「親愛なる民たちよ! 王宮へ向かえ! そして逆賊を捕らえて罪の重さを知らしめるのだ!」
うわあっと声が巻き上がり、続けて新しく具体的な指示が投げられた。
「仲間が神殿の入口を開放した、そこから王宮へ向かえ!」
その言葉を聞いた途端、人の群れが一気に神殿の入口に向かって走り出した。
「いかん!」
ボーナムが慌てて衛士に指示を出そうとするが、人の群れに遮られて指示が届かない。動くこともできない。下手に動くと巻き込まれてしまう。
「ボーナムさん危ない!」
人の波に飲み込まれそうなボーナムをダルが必死で掴み、壁際に引っ張り寄せた。
「皆、もう誰の声も聞いてません」
衛士の一人が泣きそうな声でボーナムに報告に来た。
「どうしてだ、そんな不確かな情報で。まだあの者の言っていることが本当かどうか、誰も確かめてもいないではないか」
ボーナムが苦しそうに言う声を、ダルも同じ気持ちで聞いていた。
これがシャンタリオ二千年の平和の結果なのだろうか。だからこそ、あの光はこの神域を解放しようとしているのだろうか。ダルはそのことをひしひしと感じていた。
平和は決して悪いことではない。できれば戦争などない方がいいに決まっている。だが、それは自分たちの手で掴み取った平和であるべきだ。神に保護され、自分で考えることなく、自分で選ぶことなく、ただただ時に身を任せた結果がこれだとすると、長い年月の慈悲に守られたこの国の行く末は悲しすぎる。
ダルは遠い国から流されてきた親友を思い出していた。その身一つで運命に立ち向かい、見事にその役目を果たし、約束を守って戻ってきたトーヤのことを。
自分が今なすべきことはなんだろう。王宮に向けて駆けていく人々の立てる砂埃を全身に受けながらダルは考えて、一つの結論を出した。
「ボーナムさん、俺、あの中に混ざって神殿に行ってきます」
「え!」
ボーナムは自分の肩を後ろから支えていたダルを見返る。
「大丈夫です。みんな王宮へ向かって動いている。神殿とは反対方向。それにボーナムさんはキリエさんから入るなと言われているけど、俺は聞いていません。知らなかったら入っても大丈夫でしょう」
ダルはなんとなくトーヤが言いそうなことだなと思い、小さく一つ笑った。
「その間アルをお願いします。俺の大事な相棒です。頼みます」
ダルは愛馬の手綱をボーナムに預けると、アルの頭を一つ優しく撫でた。




