32 失われたはずの方
アランは残してきたゼトとヌオリにそんなことがあろうとは露ほども思いもせず、ひたすら神殿へと急いだ。
前の宮からも親御様の離宮からも幸いなことに神殿は近い。あっという間に取って返し、ヌオリが恐怖に見開いていた視線の先にあった部屋、神官長室へと駆け込んだが、そこにいた顔ぶれにさすがにアランも一瞬驚いた顔になる。
床にはまだ赤黒く血の痕が残っていることから、この部屋で確かに何かが起こったことは分かった。嗅ぎ慣れた血の臭いもしていた。
アランが戻った時、すでに侍医は前国王の手当てを終えて床の上に寝かせ、奥の息子、現国王の手当てを行っているところだった。
「どうだ」
「ああ、なんとかな」
アランの質問に侍医の背後から様子を見ていたトーヤが短く答える。アランもそれを聞いて二人共命を取り留めたのだと理解した。
「それでそっちはどうだ」
「ああ、なんとかな」
今度はトーヤの質問にアランが短く答えた。当代を親御様の部屋に預けてきたという意味で答えたのだが、トーヤもそれだけで理解できたらしい。
最初に二人の国王の様子を見ていたキリエとルギも、今は少し離れた壁のところに立っている。その隣に少しだけ間を開けてミーヤとアーダ、そして今ではフウとセルマもその横に並んで立っていた。シャンタルとベルは宮の者たちからまた少し離れ、トーヤのやや近くに並んで立っている。
「そんで、一体何がどうなったんだ。なんでみんなここにいる。シャンタルは大丈夫なのか」
「そんなに一度に聞かれても答えられないよ」
いつものようにのんびりとシャンタルが答え、
「そういうのも落ち着いたらな」
と、トーヤが答えたのでアランもそこでやめた。
いつものことだ。どんな場合でもまとめ役のトーヤがここまでと言えば、その先はどれほど気になっていてもやめる。それが一番いいとのトーヤの判断だとアランもベルも、そしてシャンタルも分かっているからだ。
そのまま黙って見ていると、侍医が治療を終えたようで、顔を上げて侍女頭に頷いて見せた。
「どのようなご様子なのです」
キリエが侍医に二人の容態を聞く。
「傷は洗い清めて縫ってあります。もう血も止まっておりますし、お二人共意識はありませんが、脈も呼吸もしっかりされておられます。命の危機にあるような状態ではないかと」
「そうですか」
さすがのキリエも安堵の表情を浮かべる。ついさっき、この部屋に入ってルギと二人で様子を見た時には、どちらも脈が途切れ途切れで、みるみる血の気を失っているところだった。たとえ侍医が駆けつけたとしても、命を取り留められる可能性は低かろうと思うしかない状態にまでなっていた。
「完全に傷を癒やすというものではないのですね」
ルギがシャンタルに声をかけた。
八年前、初めてシャンタルがこの力を使った時、ルギもその場にいて見ている。あの時はトーヤの腕の傷をきれいに消して見せたが、今は侍医が二人の傷を縫っていた。
「うん、そういうものだよ」
シャンタルはいつもの調子、まるで何もなくのんびりとお茶でもしている風情で明るく答える。
「後は本人の生きる力と運命かな、それで精一杯」
シャンタルは淡々とそう言うが、その精一杯が普通の精一杯ではないのは、その現場を見ていたこの部屋にいる者にはよく分かった。今にも肉体から離れていきそうな魂を縫い留めるような、そんな力をどう受け止めればいいものか。
「あの……」
まだ床に膝をついて二人の国王のそばに座っていた侍医は、困り果てたようにシャンタルを見上げている。
侍医にはこの方に見覚えがあった。今もまだ奥宮付きの侍医ではないが、八年前にはすでに宮付きの侍医として今と同じ、前の宮や侍女たちの担当であった。
銀色の髪、褐色の肌、そして深い深い緑の瞳。そのようなご容貌の神をこの侍医も何度も目にしていた。聖なる湖にお帰りになったはずの、まだ幼かった主の姿を。
いきなり目の前に現れた、その主がそのまま長じられたようなこの方は一体どなたなのだ。侍医は目の前の二人の国王の治療を終えて落ち着くと、当然そのことが気になってきたのだ。
「ん、なに?」
失われた主と同じ美しさを持つその方は、深い深い緑の瞳を侍医に向け、軽い口調で答えた。
「あの、あなたは一体どのような方なのでしょう。まるで……」
その先は口にできない。そんなことがあるはずがないのだ。八年前、奥宮付きの上役の侍医が確かに先代が亡くなったことを確認している。
だがこの方は確かにあの方だ、失われたはずの、あの……
侍医はため息とも言葉とも分からなぬ息を吐くと、床の上に崩折れた。
「なんとか落ち着いたようだな。それじゃ、そっちの首尾はどうだったか聞いてもいいかな」
トーヤはそう言いながら侍医のそばを離れてアランに近づくと、思い切りアランを突き飛ばして後ろから近寄っていたルギにぶつけておいてから、神官長室から駆け出していった。
アランの全体重を受け止めてよろめいたルギは、それでも体勢を立て直すと、アランを押しのけてトーヤの後を追って走り出した。




