29 なかったことに
「一体何があったんだ」
ライネンが部屋に入って長椅子に腰掛け、ぐったりと力が抜けているヌオリに水を渡しながら聞いた。
「陛下はどうされたんだ? なぜあのような者に捕まっていた」
ヌオリは手にしたガラスのグラスが割れるのではないかと思うほど、ぐっと力を入れて握った。顔色がみるみる真っ青になってくる。
「大丈夫か」
予定が狂って苛ついていたライネンも、ヌオリの状態にとんでもないことが起こったのだろうことを理解せざるを得ない。
「なあ、どうしたのだ。話してくれないと動きようもない。陛下はどうなさっている?」
「殺された」
「は?」
さすがにライネンも他の仲間も、そしてタンドラも言葉の意味が受け止められない。
「すまない、もう一度言ってくれ」
「だから殺されたと言っているんだ!」
ヌオリが感情を取り戻したかのように叫ぶ。
「しっ! ちょっと声を落とせ。意味がよく分からない。誰が誰にどうしたって?」
「だから陛下は殺された」
さすがに何回も繰り返され、やっと言ってる意味が理解できてきた。部屋の中を重い沈黙が満たす。
「ヌオリ、少し落ち着いて説明してほしい。君は一体何を見た、陛下はどうなっていらしたんだ」
ライネンは自分の動揺を抑えながら、懸命にヌオリをなだめ、気持ちを落ち着かせる。
「いいか、もう一度聞くぞ、ゆっくりでいいから答えてくれ。君はさっき、陛下が殺されたと言った。それは間違いないのか?」
「間違いない」
ヌオリは表情のない顔でゆっくりと頷いた。
同じ部屋にいるゼトはさっきアランと一緒に聞いた時と聞いた話が違うと言いたいのだが、口が利けない状態にされていることから訂正できない。
いや、もしも話せる状態であったとしても、相手が相手だけにさっきと話が違うと言えたかどうか分からない。何しろヌオリは以前は国王の一番の側近の後継者だった青年だ。そのような立場の者が黒を白と言ったらそれは白になる。そんな高貴な立場の方なのだ。
ゼトは貴族出身ではないが、衛士はシャンタルにお仕えする立場なので、普段は軽んじられることはほとんどない。それでも、何かこじれた時には面倒なことになる方たちだとの認識はあるので、どうしても腰が引ける。ゼトはそのことを少しばかり情けないと思いはするが、あのキリエでさえ、シャンタルの慈悲を持ち出してヌオリたちにミーヤに謝罪させるだけで精一杯だったのだから、仕方がないと言えるだろう。それほどに王族、貴族の権力は強い。
ヌオリは自分が見たものを多少の脚色を加えて説明した。神官長室に入ったら入口近くに前国王が座るような形で壁にもたれて倒れていた。奥には貂のマントを着た皇太子が倒れいていて、近くに寄って確かめるとどちらも息がなかった。そういう話になっている。
「では、陛下が亡くなったと確認して、思わず叫び声をあげてしまったというわけなんだな」
「ああ、あれは失敗した。自分としては冷静であったつもりだったが、さすがにな」
誰も見ていなかったのだ、多少自分の都合のいいように作り変えても構うまい。
「陛下はもういらっしゃらないのだから」
思わず口からこぼれた言葉を、仲間たちは違う意味に受け取った。
「では本当なのだな」
「陛下がいらっしゃらない」
「では、これまでの苦労はどうなるのだ」
「この先どうすればいい」
前国王の死という「事実」を受け止めて、ヌオリの仲間たちが口にしたのがまず自分たちの立場のことだ。誰もその死を惜しむことも悲しむこともしない。それよりは、こんなことに力を貸した自分たちのその後のことの方が気にかかる。
「だけど皇太子も亡くなっていたんだよな」
「一体それはどういうことなんだ」
「誰の仕業だ」
まだ少しは現状を冷静に受け止めている他の者がそう口にする。
「みなの言う通りだ。皇太子も死んでいたのだな」
「ああ、間違いない」
ヌオリはまたもそう断言する。あれほどの血を流し、二人共ピクリとも動いていなかったのだ。もしもあの段階で息があったとしても、もう助かることはあるまい。
そう思い込んでも無理はない状態だった。まさか、シャンタルの不思議な力で命を取り留める、そんなことがあるとは想像もできないことだ。この世の神が奇跡を起こすなどとは。
「なあ、どうしたらいいのだ、これから」
頼みの綱の前国王が死んでしまった。この先どうすればいいのか分からず、仲間たちは途方にくれる。
「なかったこと、にしてはどうだ」
「そうだな。肝心の陛下が亡くなられたのだ、どうしようもないだろう」
「そ、そうだな」
「うむ、我らが動いていたことはまだ外には知られていないことだし」
「そうだ、今ならまだ、なかったことにできる」
一気に弱気の発言が続く。
それを聞いて青くなったのはライネンだ。ライネンは王宮前で民衆を煽るための旗頭として矢面に立っている。もしもここで他の者が手を引いたら、自分一人が悪役にされてしまう。
冗談ではないと異議を申し立てようとしたところ、横からすっと一歩進み出た者があった。
「本当にそれでよいのですか? 皆様の目的はそれだけではなかったはずです」
タンドラが静かだが厳しい口調で貴族の子弟たちに反論する。




