5 正殿に残る者
神官長は両膝をついて床に座り直し、あらためて恭しく婚姻誓約書を主に掲げた。
「どうぞ聖なるご署名を。そして女神マユリアが人の世の主でもあることを民たちにお示しください。女神マユリアは女王マユリアとしてこの国と永遠の契を結ぶ聖なる婚儀を挙げられるのです、おめでとうございます」
言葉の後にさらに革表紙の書類入れを高く、自分の頭より高く掲げ直し、マユリアは書類入れを受け取った。
「もう一枚はどうしました」
「不要な方は破いておきました」
どうやら現国王の誓約書を破いたのは前国王ではなく神官長であったらしい。おそらく引き裂いた後で前国王の手に握らせたのであろう。
「そうですか」
マユリアは特にその行方には興味はなさそうだったが一応確認をしたらしい。書類に目を通して閉じると神官長に次の動きについて命じる。
「場所はやはり正殿の方がよろしいでしょう。あちらはどうなっていますか」
「申し訳ありません、そちらはまだ確認をしておりません」
「ご先代のお力は今はすべてわたくしの中、事はきちんと成りました」
「では……」
言葉の意味を理解して神官長が困った顔になり、マユリアもほんの少し顔を陰らせる。
「ですが、やはり儀式は正殿でやりたいもの、まずは他の問題から片付けていきましょう。もう慌てることもないことですし」
「御意」
「ではまずもう一つの方をお願いいたします」
「はい、では一度失礼をいたします」
神官長は立ち上がり、丁寧に礼をして準備室を出て行った。
次に神官長が向かったのはある小部屋だった。その部屋は神官長だけに出入りを許される、本当に小さなだが重要な物を預かる大切な部屋だ。神官長は厳重にかけてある鍵を開けて中に入ると、ある物を懐に忍ばせて出てきた。
神官長が持って出てきたのは小さな絹の袋に入った本当に小さなある物だが、ある意味今度の婚儀にとってもっとも重要と言える物でもある。婚儀の時のために神官長はそれを持ち出した。
神官長は見た目だけは何も持たず手ぶらのまま正殿へと向かう。
正直気が進まないと神官長は思っていた。それはそうだろう、今朝までは正殿の御祭神前で麗しい主がこの世で唯一の聖なる神であり人の世を統べる女王になられるとの想いに胸を膨らませていたというのに、すっかり状況が変わってしまったのだから。
御祭神がなくなったのはまだいい、それ以上の存在であられる方がいらっしゃる。だがあそこでご先代が倒れて儚くなられているのだと思うと足取りが重くなるのは当然というものだ。
そういえば部屋に残された者たちはどうしているのかと正殿の扉の前に来て神官長は考えた。少しでもこの正殿に入る時を稼ぎたいとの思いからかも知れないが、これまではあえて考えずにいたようなことを心の中から引っ張り出す。
記憶が確かなら室内には四名が残っているはずだ。ご先代とエリス様の侍女と称していたベルという少女、それからフウという風変わりと噂の侍女とセルマ。アランという傭兵はヌオリの後を追っていき、ミーヤとアーダというエリス様付きの侍女は侍医を呼びに宮へと急いだ。キリエとルギは今も自分の部屋で二人の国王の世話をしている。間違いなく残っているのはその四人だけ。
一番の問題はベルだと神官長は思った。聞いた話によると兄たちと共に戦場にいて、多少の剣や格闘の心得もあるらしい。もしもこの少女が怒りにまかせて攻撃をしてきた時にはどうしたものか。考えてはみるがどうなるかは入ってみないと分からない。フウとセルマもいるのだ、まさか神官長が暴力を振るわれているのを侍女である二人が見て見ぬ振りをするはずはなかろう、きっと止めるか人を呼ぶはずだ。
「それにもしものことがあったとしても」
神官長は短く思いを口にした。自分はとっくに主のために命を捨てると決めている。そして夢はすでにほぼ叶っている、すぐそこにある。もしものことがあったとしても、もう後悔することなど何一つない。
なんだ大したことではないではないかと神官長は小さく一つ笑った。自分の命など美しい夢に比べたら塵も同じ、何も恐れることなどない。
神官長は堂々と正殿の扉を左右に押し開き、そしてあっと声を上げた。
「これは一体どういうことだ」
正殿の中には誰もいなかった。
「どこに行った!」
さすがに焦って神官長が小走りに部屋の半ばまで駆け込んだが、答える者はいない。
冷静に状況を分析するならば、ベル、フウ、セルマの三人でご先代の亡骸を運び出したと考えるのが妥当だろう。だが、そんなことをする必要がどこにある?
もしかしてどこかにご先代を隠して三人は逃げたのではないかと人一人を隠せそうな場所を見て回ったが、どこにもいない。
「一体どこに」
神官長は気持ちを落ち着かせて考えるが、思い浮かぶことはない。
主は先代の力はすべてご自分の中だとおっしゃった。以前から聞いていたことだ、主が完全な存在になるためにはご先代をすべて取り込む必要があること、そのためにはご先代は深い眠りにつかれるということは。そのためにご先代を正殿へと呼び込み、主はすべてをその手になさったのだ。
「一体どこに」
神官長はもう一度同じ言葉を口にした。




