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 5 さあ、神の国へ

 マユリアは臣下たちに美しい微笑みを返すと、お籠もりが終わって呼ぶまでは入らないようにと言って全員を正殿から出した。


 正殿の中には神々(こうごう)しいばかりの婚礼衣装に身を包んだマユリアと、そしてあの清らかに輝く御祭神のみ。


「お久しぶりです」


 マユリアは天上の笑みを浮かべて御祭神に話しかけるが御祭神は何も反応をしない。


「いかがです、わたくしのこの姿、この国を統べる女神、女王マユリアの姿は」


 マユリアは歌うように語りかけ続ける。


「あなたがこの姿でここにおられた可能性もあるのですよ。もしも、人を見捨てて神の世に帰るなどという冷たい御心を持たず、これからもご自分が人をお守りになり続けるとお決めになられておられたら。それならばわたくしもずっと、これまでと同じくおそばでお守り続けられましたものを」


 マユリアは悲しげにそこで言葉を止めた。


「わたくしはあなたにこの姿でいらしてほしかった。ずっとずっと永遠にわたくしの(あるじ)、人の守護者でおられてほしかった。ですが、それが叶わぬためにわたくしはあなたの代わりに人を守ろう、そう決めたのです」


 マユリアがせつせつと語りかけても御祭神は何も答えてはくれない。


「神官長が血を吐くような想いを告げた時にも、あなたはそのように静かでいらっしゃいました。あの時、わたくしはどれほど胸が痛んだことか。あなたはそのようにお感じにならなかったのですか?」


 やはり御祭神は何も答えない。


「いえ、分かっております、もうわたくしたちの間には言葉は通じないということを。ですからわたくしはこの道を進んだのです。あなたから全てを譲り受け、わたくしがこの世界を統べる存在になろう、そう決めたのです」


 マユリアは静かにその場にあるだけの御祭神に自分も静かに歩いて近づく。音をなくしたような正殿にマユリアの婚礼衣装の衣擦(きぬず)れの音だけが流れていった。


「あなたが結界を張ってご先代たちを隠していることは存じております。結界を解いてご先代をわたくしに渡していただけませんか? どうしても必要なのです、黒のシャンタルが」


 マユリアは御祭神のすぐ前に立ってそう言ったが、もちろん御祭神は何かを答えるはずもない。


「これが最後です。どうぞわたくしに後のことをすべてお任せください。あなたは静かに神の世にお戻りになられて、他の神々と同じように神の世から人の世をご覧になってください。この世の終わる時まで、ずっと」


 マユリアはまだ少し様子を見ていたが、どうやら御祭神が答えるつもりがないと判断したのか、すっと美しい右腕を上げて御祭神の中央あたりにぴたりと当てた。


「お教えいただけませんか?」


 マユリアの動きは夢のように美しく、表情も天上の世界に咲く花のように(かぐわ)しい。まるで慈しむように高貴の紫に包まれた細い指先が御祭神に軽く触れ、その(さま)はさながら名工による一幅(いっぷく)の壁画。

 

 だが、その穢れなく輝く女神の全身は、温かな体温が冷たい空気に広がったように、薄く軽い悪意のベールに覆われていた。

 見るだけで全身が痺れるような危険な輝きは、だが、危険だと分かっていながらふらふらと近づいて触れてしまいそうだ。あまりにも穢れなく美しい方が発する毒は、それすらも自ら飲み干したいと切望する甘露すらにじませる。


「もう一度だけ申し上げます。お教えください、黒のシャンタルの行方を」


 マユリアはそう言うと軽く触れた指先で力を入れたとも見えぬほど、ほんの少しだけ力をこめる。


 音がしたとも思えぬ音がして、御祭神のその部分が気づかぬほど震えた。


「今のあなたはもうこの人の世にはいらぬ存在なのです」


 マユリアはそう言ってもうほんの少しだけ力をこめたようだ。


 また音がしたと思えぬ(わず)かな音がして、その部分からほんの少し、小さな蜘蛛が巣を作り始めたほどの細かな影がうっすらと浮かぶ。


「どうなさいます、わたくしがあなたを送り返してさしあげましょうか、それともご自分でお帰りになられますか。尊敬申し上げた大切な主のお気持ちを尊重してさしあげたいのです」


 そう言うマユリアは悲しげで、最後の瞬間まで主の御心(おこころ)を信じたい、そう思っているのは明らかだった。


「本当にこれが最後です。お願いいたします、どうぞ、どうぞご先代、黒のシャンタルをわたくしにお渡しください。そしてできればまた共に……」


 マユリアは同じ姿勢のままほんの少し(うつむ)くと、美しい黒い瞳を美しいまぶたで隠してしまった。朱を帯びた唇がほんの少し震えている。


 最後と言いながらマユリアは本当はためらっている、そして願っている、主と共にこれからもこの人の世を守りたいと。それこそが本心なのだ、この先に進むことを望んではいないと美しい女神は全身で訴えている。


 だが御祭神は己のものであった肉体に宿る、慈悲深く、心から人を愛し、共に人を守ろうとこの世に残ってくれた侍女の願いに答えてくれることはなかった。


 マユリアは主の沈黙をそういうことなのだと理解して、そっともうほんの少しだけ力を込める。


 その瞬間、御祭神は音もなく霧のように砕け散り、輝きを残しながら跡形もなく消え去った。


「さあ、お帰りください、神の国へ……」


 マユリアの瞳が涙に濡れていた。

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