27 母ならぬ母
トーヤは離宮の裏側から伸びている渡り廊下に沿って山側に進み、そこから柵を乗り越えて中に入った。
前にキリエに連れて来られた時のことを思い出す。ここからさらに奥に入り、階段を降りて地下まで行くと懲罰房だ。できればそちらに行くことがない方がいいが、こればかりは行ってみなければ分からない。最悪、大声で人を呼ばれるようなことだけなければそれでいいか、そんな気持ちで明るい方へと進んだ。
離宮の入口には思った通り誰もいない。中に担当の侍女がいる可能性もあるが、物音一つ聞こえてこないことから親御様一人なのではないかと思った。だが思っただけだ、確信はない。もしかしたら黙って親御様に付き添っている可能性だってある。そんな時、侍女は石のように存在感なく立っていたりもする。そのように教育されており、それが侍女の役目だからだ。
トーヤは侍女というのは本当にめんどくさいものだと心の中でつぶやいて苦笑した。今回は特定の誰かだけではなく、何人かの顔が浮かんできた。個性はあっても厳しく決められたことはきちんと守る。それができるからこその侍女なのだと知っている。
もしも侍女がいた場合のことを想定しながらトーヤは動く。最悪、衛士が中で待ち構えている可能性だってあるが、ここはシャンタリオだ、さすがに何の理由も根拠もなく、ここに男が立っているということはあるまい。
扉には鍵がかかっていなかった。何かあった時にすぐに誰かが飛んでこられるようにか、それとも中に親御様以外の誰かがいるからかは分からない。注意に注意を重ね、音を立てないようにゆっくりゆっくり扉を開いていく。
重厚な扉が少しずつ角度をつけていき、ほんの少し中が覗けるようになった。誰何の声も聞こえず、人の気配もない。もしかしたら留守なのかもと思うぐらいだが、この部屋に限ってそれはない。親御様はこの離宮から出ることができないからだ。出るのは役目が終わり、元の生活に戻る時、宮から出る時だけと聞いている。だから必ず中にいる。
トーヤは覚悟を決めて扉をもっと開いてみた。そこはどうやら応接のようでやはり誰もいない。その向こうにいくつか扉があるのが見えた。トーヤは足音を殺しながら一番大きな扉に近づく。おそらくここが親御様がいつも過ごしている部屋なのだろう。
トーヤは今度はその扉をそっと開けていく。同じように少しだけできた隙間から中を覗くと、そこには大きな寝台があるのが見えた。トーヤがこの国に来て一番最初に寝かされていたような豪華な紗幕のある寝台。間違いない、ここに女神たちの母親がいる。
全体に柔らかな色合い、その色を香りにしたらこうなるのではと思うやはり柔らかな香りがただよっている。母と子を包み込むような優しい部屋だった。
まだランプに火を入れていない薄暗がりの中、寝台に誰かが座っているのが見えた。この部屋の主、四人の女神の母だろう。
紗幕の奥にうっすらと見える人影は身じろぎもしない。もしかすると寝ているのだろうか。ゆっくりと寝台に近づく。足音を殺さずとも分厚い絨毯が全ての音まで包みこんでくれているようだ。
「トーヤ様」
柔らかく優しい、まだ若い女のものと思える声がその名を呼んだ。トーヤは思わず足を止める。
「トーヤ様でいらっしゃいますよね」
女の声が確かめるようにもう一度その名を呼ぶ。
「トーヤ様」
トーヤがどう答えたものかと考えているとさらにもう一度名前を呼ばれた。
「ええ、そうです」
そう答えるしかなくなった。
「夫から聞いています。八年前にお会いしたこと。そしていつか私たち家族を助けてくれるだろう託宣の客人、助け手でいらっしゃると」
トーヤは何も言わずそっと寝台に近づいた。
「開けてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
許可をもらってトーヤは柔らかく軽い紗幕を持ち上げる。そこにはまだ若いと思える女性が一人、座っていた。
「親御様、ですよね」
「そうです」
「四人のシャンタルの」
「そうです」
間違いなかった。この人が四人の女神を産んだ母、親御様だ。
トーヤはその若さにまず驚いた。年齢はお父上のラデルと同じと聞いている。だとしたら42歳のはずだが、どう見てもそんな年齢には見えない。
それから母という印象がない。元シャンタル、元マユリアを経て侍女として奥宮に残っているラーラ様はあまりにも母だった。自分で子を産んだことがないのにあの人こそ母である、そう見える方だ。だがこの方にはそれがない。
美しい人ではある。おそらく当代シャンタルが一番この人に似ているとトーヤは思った。
思えば不思議ではない。当代マユリアと先代シャンタル、黒のシャンタルは二人で神の身を分け合い、その容貌も人には非ぬ美しさだ。当代は神を宿しているとはいえ、やはり人なのだと納得する。
確かにこの方は四人の女神の母だ。だが産み落としただけで自分の手でその我が子たちを抱いたこともない。生まれるとすぐ神の憑坐として子どもたちを取り上げられてしまっているからだ。
母でありながら母ならぬ母。トーヤはその透き通るような美しさに悲しいものを感じた。




