26 聖なる母
「すぐにここを出られた方がいいですね」
「ああ、そうだな」
キリエが行ってしまうとトーヤは隠し部屋から姿を現した。
おそらくキリエはトーヤがここにいると推測し、フウの動きを見ていたのだ。シャンタルからアランに渡ったあの予定表は、トーヤをあぶり出すための罠だったと分かった。
このまま呑気にここに隠れていたら衛士に踏み込まれて捕まってしまう可能性がある。いや、もしかするとすでにこちらに向かっているか、待機している可能性も高い。できる限り早く逃げる必要があるだろう。
「表から出るのは危険ですから、裏から出てください」
「そんなもんがあるのか」
「ええ、何しろちょこちょこ出入りする必要のある場所なので」
こんな場合だがトーヤはフウの言い方を聞いて笑った。
「ちょこちょこか」
「ええ、大変なんですよ、仕事中に抜け出してこっそり戻るのも」
この緊急事態にフウはいつもと変わるところがない。
「俺、やっぱりあんた好きだな、次の侍女頭になってくれたら色々助かると思うが」
「そんな先のことはどうなるやら分かりませんが、さて、そのためにもボスにはこっそり無事に逃げてもらわないといけません。行く当てはありますか?」
「ああ、一つだけな。ここからそう遠くない場所だ」
トーヤの言葉を聞いてフウの顔色が変わった。
「上ですか、下ですか」
この言葉でフウはトーヤが行こうとしている場所を理解していることが分かった。
「さすがにキリエさんでも思いつかんと思わないか?」
「ええ、それはさすがに」
「できれば上がいいが、追い出されたりやばくなったら下だな」
「上ですか」
フウがさすがに絶句する。
「あんたのそんな顔見られるなんて、この思いつきは結構いいような気がしてきた」
「それは……でも、大丈夫なんでしょうか」
「まあ、ちょっとしたツテがあってな、大丈夫な気がする。じゃあ、その裏ってのを教えてくれ」
フウはさすがに切り替えが早く、すぐに抜け道を教えてくれた。
「ではお気をつけて」
「分かった、あんたもな」
「ええ、すぐに元の仕事に戻ります」
そうしてトーヤはフウが教えてくれた裏口から植物園を出た。
「まさか壁の一部を切って本当に抜け道作ってるとは思わなかったぜ」
どうやらフウが生け垣の一部を切って作ったらしい。トーヤはこんな場合なのに笑いが止められない気がした。
「さて、ここからは本当にもっと裏を通るしかねえか」
八年前にあちらこちら見尽くしてあらゆる抜け道を知ってるつもりだったが、ここだけは一度しか通ったことがない。そしてその一度ですら今となってはこのためだったように思え、トーヤはまたげんなりした気持ちになる。
植物園は神殿と親御様の滞在する離宮の間にある。もしもマユリアの宮殿を作るとなると、ここもつぶされるかも知れない。そんな場所だ。
植物園の裏手から大胆にも神殿の裏手に出る。そこには温室があったが誰もいない。フウはおそらく普段からこの温室のことも見に来ているのだろう。
トーヤはそっと温室から神殿の敷地に入ると人気のない裏側、聖なる山を背にした影を通ってある建物に近づいた。
――親御様の離宮――
ほぼ十年に一度だけ利用される聖なる場所、そしてその地下にはこの国で一番穢れた場所があるその建物。トーヤはなんと、その離宮に身を隠すことにしたのだ。
フウが言っていた上か下かという言葉、つまり上は親御様が滞在なさっている部屋、下は懲罰房だ。どちらに行きたいかと聞かれれば、それは冷たく暗く怨念が渦巻く懲罰房よりは、聖なる母が快適に過ごせる親御様の元の方がいいに違いない。
ラデルは妻にトーヤとの出会いのことを話したと言っていた。妻がそのことにどう反応したかとかは聞いていないが、少なくともトーヤの存在、自分の子どもたちを救ってくれるかも知れない存在だと認識はしてくれているはずだ。理由を話せば一日ぐらいなんとかしてくれるだろう。非常に甘い見込みとはいえ、そんな特殊な事情があるのだからなんとかしてもらおうとトーヤは行き先を決めた。
もしも拒否されたら懲罰房に逃げ込むつもりだが、
「キリエさんはあそこが平気だって言ってたしなあ。ルギの野郎も侍女じゃないしきっと何も感じないはずだ。もしも告げ口されたら万事休すだな」
と、最後の砦になんとか匿ってもらえますようにと祈るしかない。
シャンタルの私室と同じぐらい思いもかけない場所ではあるが、シャンタル宮よりこちらの方が警備が薄いだろうとトーヤは読んでいた。
それはそうだろう。親御様の役目はもうとっくに終わっている。今ここに残っているのは、神としてこの世に産み落としたかわいい娘が晴れの舞台で民たちに披露される姿を見届けるため、いわばおまけのようなもの。2日後の交代が終わったら、事情がない限りすぐにも宮から去らねばならない。
そんなただの人と神たるシャンタル、どちらをより守らなければならないかと言われたら、それはもちろんシャンタルに決まっている。そんなことからこちらの警備はかなり手薄なはずだ。
後は親御様次第。トーヤは初めて会う女神たちの母親が自分を受け入れてくれるようにと祈るばかり。




