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19 染まる白

 キリエが退室するのを見送った後、マユリアはいつものように応接のソファに腰をかけた。この場所が一番心地よい。シャンタルを(ゆず)りマユリアの任に()いてから、もう十八年の間の定位置だ。


「キリエは何かを感じたようでしたね」


 小さくポツリと口にする。


 見た目はこのソファにずっと座り続けたこのマユリアの宮殿の(あるじ)、当代マユリアだがその中身は違う。さらにその奥、代々マユリアの魂の中に二千年の間共にあり続けた女神マユリア本人が、今は表の顔になっている。


 マユリアはソファから立ち上がると、部屋の中にある1枚ものの姿見(すがたみ)の前に立つ。この鏡は元々は応接にはなかった。少し前にこの部屋に運ばせたものだ。


 マユリアは鏡に映る自分の姿をじっと見る。


「なんという美しさ……」


 まるで自分の姿ではないかのようにそうつぶやくと、ほおっと甘い吐息を吐く。


 マユリアはもう一歩進むと鏡に映る自分の頬にそっと手を触れる。まるで本当に相手の頬に触れるように。


 初めて感じた衝撃は十八年前のことだ。交代の翌日、完全に身内(みのうち)のシャンタルを次代様に譲り渡し、空白になったその魂の内にマユリアは糸を手繰(たぐ)って移動した。


 その時までの十年間、マユリアが入っていたのは元々の自分の神の肉体が人として生まれた、ラーラという真名(まな)を持つ女性の肉体であった。本来の自分であるだけに心地が良く、離れがたく、別れることにさびしさを感じた。ラーラの10歳から二十歳(はたち)までを自分本来の肉体と共に過ごした十年間、それはなんと充実した年月であったことか。


(人となった肉体は数十年の月日の後、人としての生を終えて朽ち果てるのだ)


 次の交代の日を迎え、ラーラが人に戻る日がやってきた。頭では理解していても、いざ自分の肉体を失うと思うとその喪失感(そうしつかん)は想像以上であった。

 (あるじ)であるシャンタルと共に人の世に残り、今の運命を選んだことに何も後悔をしたことはない。それが自分の運命であると受け入れ、特にさびしいとか苦しいと思ったこともない。むしろ人の中にいて共に人の世界のあらゆることに共感できることを幸せだと感じていた。

 それでもなお、もう戻ることはないと思っていた肉体がいずれこの世界から失われることは、言葉にすることができないほどのさびしさを感じる。この後、実際にラーラという人がこの世から去る時にはどのように感じるのか、そう思うだけで苦しかった。


 そんな思いで自分の肉体から糸をたぐり、主の半身であった次のマユリアの中に入った途端、そんな思いは一瞬で全て消え去った。


(これが、シャンタルの、いえ、今はわたくしの肉体……)


 まだ幼い10歳の少女の肉体でありながら、すでにその中から発せられる光に飲み込まれるかのよう。


(この世の最も尊い光を(まと)う肉体……)


 その時の衝撃をマユリアは忘れない。そして同時に自分の心に深く穿(うが)たれたある感情のことも。


(なんという不公平か……)


 同じ神として生まれながら、自分と「次代の神」である主のシャンタルのあまりに違うその本質を、文字通り「身を持って」知ったのだ。


 ほんの一瞬、まばたきを一回するほどの長さもないほどの時間であったが、鋭いキリを打ち込まれたようなその傷を、だがマユリアはすぐに封印した。

 マユリアも神、自分の運命と使命をよく知り、(わきま)えている。そんな一瞬の傷など取るに足らぬもの、心の底からそう思い、忘れていたつもりであった。


 それが、その傷があの時、開いた……


 先代「黒のシャンタル」を救うため、当代マユリアは自らをシャンタルの声が届かぬ懲罰房(ちょうばつぼう)に押し込めた。ただひたすら頭も心も空っぽにし、自分が無機質な物体であるかのようにただただ座り続けていた。

 マユリアもその心の中で当代と同調し、化石のように沈黙を続けていたのだが、突然、鋭い何かが当代の肉体と心を貫き、石であった自分の中にまで深く突き刺さったのだ。


 それはただひたすら冷たく、暗く、そして血の赤と憎しみの黒を持った感情だった。懲罰房の中で凝り固まった恨みつらみ憎しみ悲しみ絶望殺意、そして愛までがないまぜになったそれが、「黒のシャンタル」が受けた大きな衝撃の影響で、マユリアの心の傷に飛び込んだ。まるで見つけた仲間を(いとお)しむかのように……


(なんという不公平か……)

 

 あの時、本当に刹那(せつな)の間だけ芽生えたはずのその感情にそれは突き刺さり、新たな血を流し始めた。


(人に慈愛を与えたのは自分であるはず……)


 無垢(むく)嬰児(みどりご)に宿るシャンタルには人に心を伝える術はない。10歳までの年月はただ託宣(たくせん)を行うだけ、マユリアとなるための年月を過ごすためだけの期間、実際にそれを人に伝え、混じり、慈愛を与えているのは自分である。


(それなのになぜ、シャンタルの方が(たっと)ばれるのだ……)


 シャンタルは今まで(いつく)しみ見守り続けた人を見捨て、神の国に帰ると言う。人を抱きしめて穢れから守ってきた神域を開放するという。


(シャンタルが本当には人を愛していないからだ……)


 マユリアの心にはそんな感情が生まれた。


(本当に人を愛し、慈しみ、そしてその尊敬を受けるべきはわたくしのはず……)


 マユリアの真っ白な穢れのない心、そこに落ちた一滴のしみが、広がり始めた瞬間であった。

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