朧熱
地下道では腐臭がした。気のせい、幻臭だろうかと自分の感覚に自信がもてなくなる。いや確かによどんで濁った空気の中の微粒子に何かの腐っていくあの独特な匂いがどこかからかまじりこんできたのだ。もう何年も外の新鮮な空気と入れ替わったことなどなく、ただこの地下道を利用する人間たちがかきまわすだけの生暖かいむうっとする空気でさえそこを通った人の影のようにくすぶる匂いの残滓がまじりあい刺激をあたえてくるのに肉の、たしかに肉の腐りはじめた匂いがまじっていたのだ。僕はふと嗅覚が犬のようにとまではいかないまでも普段よりも敏感に感じることがあって、もうそうなると通勤電車や人込みなどは歩けたものではなくなってしまい、まわりの人間すべてがただ異臭を撒き散らすだけの存在になりひとまとめに突き飛ばしたくなる衝動にかられるのだ。ついいましがたまで乗っていた電車の中でもそうだ。左手前にたって無理に新聞を広げているハゲあがった中年の男は歯槽膿漏一歩手前のようなひどい口臭と、脂ぎった肌から立ちのぼる甘いようなむせかえる匂いがいやがる僕の鼻腔に押し入り不快さが神経にのって全身にひろがっていくのだ。ハゲの横にいるメガネをかけ頭をきっちりと七三分けにして固めた若いサラリーマンは、朝飲んできたコーヒーとさきほどまで噛んでいたのであろうガムの匂いがまざった呼気を僕の顔にはきかけ、自分にのしかかる圧迫感はすべて僕のせいだといわんばかりに睨んでいる。すぐ目の前の髪の長い女は起きた瞬間からねんいりに手入れをして整えてきた体から不自然な匂い、多くはただ鼻の細胞に刺激をあたえるだけの化粧品の匂いをさせ、自慢げにふりまいてこれこそ男をさそうフェロモンだと思い込んでいるのだろうか。小学校に入ったころから感じ始めたのだが人はそれぞれの固有の匂いをもっている。体臭というのとは違うとは思うが、ふとどこかでかいだ香りに匂いのデジャヴュを感じ、ああそうだ誰それの匂いだと気づくことがある。たいていはその人と同じ匂いが彼らの部屋や家そのものからも感じられるのだが、たぶん彼らはそんな匂いを自分がもっているとは気づいていないだろう。自分にもこの特有の匂いはあるのだろうか、あまりに嗅いでいるために鼻が感じなくなっているだけだろうか。一度もこの感覚を他人に確かめたことがないので僕の匂いというものがあるのかどうかわからない。
とつぜん気づいた。この肉の腐った匂いは僕自身の体からでているのだ。見えない所が少しずつ少しずつ今も腐りつづけやがて耐え切れない罪の重さでどろどろと融け崩れだし、そうして僕は白い骨を剥き出しにして風に鳴るようになるのだ。ほろほろ、ほろほろと風が吹くたびに肋骨が音をたてていく。首をふって幻覚めいた考えとまじりあった感覚を現実にひきもどす。むこうからきた男とぶつかりそうになりあわてて避けながら自分は何をやっているのかと思う。あなたはいつもそうやって無理ばかりして、そんなに自分を痛めつけなくてもいいのに。ほんとうに学校にいってもいいんだねと、確認しにいったとき、どこか調子の悪そうな僕のようすに自分のほうこそ病気だろうに栞がそういったのだ。その心づかいはうれしいのだが、僕にはほかのやりかたは思いつかない。変色しひびわれの目立つ壁とざらざらしたはだをさらしている剥き出しの天井とにかこまれた地下道の重たるい空気をかきわけて進みながらぼんやりと考える。僕はほんとうになにをやっているのだろうか。ほとんど意識しないままに人の流れにのる。流れは通路の真ん中で二つの正反対のベクトルにわかれむこうからこちらへこちらからむこうへお互いの乗ってきた電車の路線へと急ぎ足で進んでいる。うつむき黙りこくってただひたひたと歩いていく人の群れは葬列のようで、まったく見知らぬ人たちなのに僕の父の葬式に参列するためにならんでいるなつかしい級友たちがいま目の前を歩いているようにみえる。みんなが黒い喪服をきて泣いているが、僕はまったく悲しくなかった。目をはらしている母の横で、三人の人間の命をうばった事故を起こすきっかけをつくったのだという罪悪感もなにも感じていなかった。焼香のどこか鼻にきつい匂いにとりかこまれながら僕は、病院のベッドの上で眠っているであろう少女のことを考えていた。僕が彼女の両親を奪ってしまったのだということをしったら、あの栞という名の少女はどう思うのだろうか。
黄色っぽい四角いタイルのあわせめの筋とへばりついて黒く変色したガムのかすを踏まないようにしながら、僕は少し薄暗い通路を抜けて階段をおりはじめる。自分の体が感じられなくなり宙に浮かんでいるようなたよりなさを感じるけれど、重くじっとりとまとわりついてくるような空気だけは肌が敏感に受けとめている。ホームのいままでの地下道よりはよほど開けた空間にでて僕はすこしだけ気分が落ち着いたような気がするが、あいかわらず頭痛になりきれないかすかな違和感をこめかみに感じながら、無秩序な人間の群れをかきわけて僕は学校へ向かう電車に乗り込む。
窓からは午後の黄色い光が教室のなかを眠たげにうつしだしていた。僕は専門学校に通っている。授業が始まってからほぼ一月近くになり先生や同じクラスの生徒も見なれたけれど、もともと僕は人をおぼえるのが苦手で名前と顔が一致することはほとんどない。縦に長い教室におなじような長机に長椅子がいくつもいくつもならべれていて、クラスの全員がくれば無理につめなければいけないぐらいなのだけれども、すでに半分ぐらいの席がすわられることもなくあいたままになっている。
はじめての授業のときから僕はずっと窓際のやや後ろがわの席を自分の席と勝手にきめてそこにすわりつづけている。こちらが覚えるのが遅いのなら先にほかの人に自分を覚えてもらおうという計算もあったが単純にめんどうだったせいもあるだろう。授業ごとに教室が変わるというのははじめての体験なのだけれども、形がそのつど縦長だったりすその広い台形のような教室だったりするが、だいたいは同じような位置にすわることができた。 お互いにまったく知らないものどうしの集団が徐々に小さな仲良しグループにわかれていくのを観察しながら僕は待っている。高校の時も中学の時も同じようにただ待っていた。クラス全てがいずれかの集団に色分けされていくのを見ながらどこかの物好きが拾ってくれ仲間に入れてくれないかと。たいていそうやって拾ってくれた集団とはそんなに反発することもなくそれなりに楽しかったが、いつまでも僕はどこか居心地の悪さを感じた。どんなにうまくまじり溶け込んでいるように見えてもどこか異端としてあつかわれているような、あるいは被害妄想ともとれる思いを感じるのだ。ここではない、僕の居場所は。いつもそう思っていた。
窓のそとをみると穏やかな午後のひざしのなかで買い物にいくのであろう主婦が子供を前と後ろにのせて器用にバランスをとりながら自転車をこいでいき、そのわきを小学生がサッカーボールを追いながら元気よくかけていく。セーラー服をきた中学生ぐらいの女の子たちの集団がなにかいいあいながら騒いでいる。僕はふと、家で風邪をひいて寝ている栞の火照った顔が思い浮かび、そうだ、自分の事よりも僕が栞の幸福な場所をぶち壊してしまったのだから彼女の事を考えなければならないのだろうと思う。彼女は同じクラスにいたがどんな思いをかかえていたのだろうか。栞がどんなに苦しんでいるのか、僕にはわからない。どうすれば僕の背負わせてしまったその悲しみを取り除くことができるのか。栞はいつも明るくふるまって普通の女の子とかわらないようにみえたけれども彼女のからだはほかの子たちとはあきらかに違いはじめていた。彼女の強さは薄氷のうえに成り立っているのを僕は知っている。
マイクを嫌う先生があまり大きくもない声で授業をつづけている。板書もしなければプリントを配るわけでもなく、テキストもなしにただだらだらとしゃべり続ける授業をまじめに聞くわけがないのであって、とうぜん生徒は他のことをしだすに決まっている。おまけに話の内容が全くおもしろくないときてはどうにもならない。窓から入ってくる日の光が僕の背中に染み入ってきて温度を上昇させていき、いくら吸い込んでも酸素が含まれていないような苦しさをおぼえ、ベランダに通じている窓をおおきくあけはなつけれども風もなくて、どうにも変わらず頭痛の感じが強くなってくる。自然とまぶたが厚く重たくなっていくような気がして熱っぽい頭をこのまま机に乗せてしまい睡魔に屈するほうがどんなに楽だろうかと思った。少し斜め前に座っている坂井がこちらに気づき、大丈夫か、と声をかけてきたが薄く笑って手を振る。坂井は高校ころからの親友ではあるが、他人の進路のことなど気にしないたちだった僕ははじめてこのクラスが集まったガイダンスの時に彼がいるのをみて非常に驚いたものだ。彼はびっくりしたようながっかりしたような複雑な表情を一瞬うかべたけれど、すぐに独特な中国の豪傑のような笑い方をして「おまえとまた一緒のクラスだとは思ってもみなかったよ」といいながら手を差し出した。何もいわずに大きなあつい手のひらを握り返しながら、僕はどんなにかこの男を頼りにしていたか、あこがれていたかを思い出す。坂井は勉強もスポーツもなんでもできたが、僕はなにひとつまともにできなかった。どうしてその坂井が僕と一緒のこの専門学校にいるのだろうか想像もつかない。僕などとは違って彼の成績ならまちがいなく大学に入れただろうに。すこし前のある授業のとき教室が混んでいたのでそれまで話したこともなかった男が横にすわっていて、授業中に突然、
「君はこんな学校にきて、どうするつもりなんだい」
ときかれて返事に詰まったことがあって、後で坂井に同じ質問をしてみたが、彼はニヤリと笑って「おまえと同じさ」とそういったのだが僕はなんだかはぐらかされたような気がした。彼のそんな笑い方が卒業して一カ月ほどしかたっていないのに高校生だったころがなつかしく感じられる。僕らはよく二人で美術室で絵を描いている栞をクラブ活動の終わるまで待っていたものだ。僕が美術室にむかうのをみつけると坂井はいたずら小僧をつかまえたときのように笑みをうかべて、僕がなにもいってないのにあとについてきて栞の絵をみていた。美術室は絵の具の匂いだけでなく油や粘土やかびくさいような独特の匂いがして、薄暗い感じのするその教室を嫌っている生徒もいたけれど僕はそんなにいやだと思ったことはない。壁際には頑丈そうな棚がつくってあり一番上にはデッサン用の彫像がたくさんならんでほこりだらけでくすんでしまった白いはだをさらしている。棚の下の段は描きかけカンバスをかわかせるように仕切りがついていて、僕などのへたくそな絵もそのなかに並んでいるはずだ。僕と坂井がいつものように栞の絵をのぞいていていると顧問の先生がにやにや笑いをしながら、お前ら二人じゃまをするぐらいならどうだ絵のモデルをしないか、というのだ。たしかに坂井はがっちりして筋肉質だしギリシア彫刻のトルソのようにさまになるだろうが、僕はどちらかといえば痩せているほうであってモデルになるんだろうかと思う。美術部の部員は十人ぐらいだったけれど女の子のほうが多くほとんどの子が、恥ずかしげな声をあげているけれど、そのじつ心の中では期待してるらしいのがちらちらとこちらにそそがれる視線でありありとわかる。美術の先生は顔の下半分をおおっている髭をなでつけながら、にやにやと笑ってこちらをみている。救いをもとめるように栞をみると、顔を赤くしてうつむき恥ずかしそうに小柄なからだをさらに小さくしてもっているえんぴつを意味もなくくるくるとまわしながらも小声で、いつも静物画ばかりだから、とぽそっとつぶやいたようだった。僕がどうしたらこの場を切り抜けられるだろうかと考えていると、「わかりました。芸術のために脱ぎましょう」と坂井が大まじめにいうのだ。こちらをむいて片目をつぶってみせて「なあ神谷」といいながら坂井は僕の背中をたたき、勢いに釣り込まれるように僕はうなずいてしまい、けっきょく僕らは体操着の短パンだけの姿で、ボディビルダーのような格好をしてモデルをすることになったのだ。
先生の声は相変わらず高くもなく低くもなく教室のなかを流れていくが空気と同じように誰ひとりそれに注意をはらうものはいない。生徒が遊んでいても注意もしない熱意のなさはたんに専門学校というものをばかにしていて、てきとうに授業のまねごとをしていればお金がもらえる程度にしか考えていないのだろう。もちろん生徒たちもただなんとなく学生でいるための口実としてかよっているのが大半であって、生徒と先生の共謀のなれあいのもとにこの学校の授業はなりたっているのだ。熱にうかされたような人の顔が肉色の卵に見える感覚が続いている。輪郭がくずれてにじむようにぼやけて背景と混ざる。あるいは一人熱に苦しんでいる栞の感覚が移ったのだろうか。僕はいらいらと怒りにも似た奇妙な感覚をつのらせて、この場にいる全員の横っつらを叩いてやりたくなる。机のうえに木目でわかりにくくなっているけれど、えんぴつでひどく写実的にかかれた男性器とひわいな言葉が羅列してあるらくがきをみつけ、僕はけしごむをとりだして痕跡ものこらないように入念になんどもなんどもこする。ふいに風が頬にあたり、懐かしいような匂いを運んできた。子供のころどこかでかいだようなきがしてふいに郷愁めいた気持ちにとらわれる。窓のすぐそばには普通の家が建っていて、そこから流れてきたのだろう。僕の勝手な思い入れにすぎないけれどこのミルクを暖めているときの匂いを嗅ぐとどうしても幼いころのことを思い出してしまう。
神谷、平気なのか。だいぶ具合が悪そうだぞ。熱もあるみたいじゃないか。
坂井の声だ。いつのまにか授業は終わり初老に入りかかったつまらない先生はいなくなり、目の前には坂井の大きな体が視界をふさぐように立っている。
帰った方がいいんじゃないか、まだもう一時間あるけれど、坂井の声が虚ろに耳孔からはいり頭蓋骨の内側で反射している。そうだね、少し頭痛がする、栞を看ててあまり寝てないから、といいわけめいたことを口にしながら帰り支度をしようとすると坂井が手伝ってくれた。もっとも手伝うほどのものは持って来ていないのだけれど。なんだ栞さんの風邪はまだなおらないのか、お前も無理するんじゃないぞ、と本気で心配している坂井がこの見知らぬクラスの中でどんなにありがたいか。それにしても本来は同い年であり、栞の三倍くらいの体格をしている坂井がそのときだけはかしこまったように『栞さん』と呼ぶのはいつ聞いても奇妙でおかしい。すこしふらつく僕を支えながら、坂井は校舎の玄関の所まで送ってくれた。本当は家まで送ってやりたいところだけどな、そういいながら、ここまで持って来てくれたカバンを僕に渡してくれる。いや、大丈夫だよ、そんなに心配するほどじゃないから、と僕がいうと、そうか、あとでお見舞いに顔だすよ、といって坂井は顔に手をもっていってなでつけている。
「栞さんによろしくな」坂井はそういうと校舎の中に消えていった。いちおう玄関らしくみせるためにつくってある植え込みの間をぬけて道路にでた。僕は引きずるように体を動かしながら栞の待っているはずの家に向かう。五月の気持ちのいい風が髪をなでていく。腐肉の匂いは風が運んでいったのかしなくなっていた。
僕がハンドルを握って運転席におさまっている。メーターの針が振り切れるような非常なスピードをだしながら自動車の運転をしたいなどと思ったことはあの事故のときから一度もないのだとはちらとも考えもせずいまよりも少し低い目線で対向車のまったくない平坦などこまでもまっすぐにつながった道を見ている。中学二年である僕の手足は短いはずなのだけれどまったく違和感なくすわってハンドルにもアクセルにもとどくのだ。僕はかわらずアクセルを踏み込んだまま誰もいない平原の中をつきすすみながら遠くに見えるするどい峰をもつ山を理由などわからぬまま目指している。草原の緑、耕された畑の土の色、遠くの大きな木などの景色がスピードがあがればあがるほどゆっくりと動いていくようなおかしな感覚にとらわれながらもさらにスピードをあげエンジンのうなりがひきちぎれるように消え去っていく。スピードの快感にふるえる僕が視線を戻すと、とつぜん目の前に人影があらわれたけれども、その認識は手足の筋肉へとは伝わらない。それどころか僕の足がさらにアクセルを踏み込む。鈍い衝撃とともに視覚だけがさえわたり今の栞と変わらない中学二年の姿で澄んだ瞳が怒るのでも憎むのでもなくこちらを見つめていることだけが脳裏に刻まれていく。栞は表情をまったく変えずにすこしほほえんだままボンネットに跳ね上げられ青い空を背景にして舞をまっているように見えた。しばらくして僕はフロントガラスが赤く染まっているのに気がついた。奇妙に静まり返った中にきゅうに笑い声がしだした。心底から楽しそうに僕が笑っていた。弛緩した体の中でルームミラーに写った顔だけが悪鬼のように引き歪んで見える。
目をあけると電車の中は学校帰りの学生やサラリーマンがおおぜい立っていてほとんど視界がふさがれている。オイルの匂いが鼻の中に残っているような気がするがそれはあきらかにさっきみた夢から持ち帰ってきたものだろう。だが夢の中のそれも嘘であって五年前のあの事故の瞬間の記憶といえば僕は降り始めたばかりの雨の冷たさとアスファルトから立ちのぼる水と土のまじりあったような匂いしか覚えてはいない。まして運転していたのは僕ではなかった。僕が父の運転の邪魔さえしなければ父も栞の両親も死なずにすんだのだ。反対側のガラス窓に反射する自分の顔がひどく違和感があって夢の中の悪鬼のような顔を思い出させ、僕は目の網膜ににこびりついてしまった栞の顔を振り払うように強く頭を降った。いつまでもつきまとう事故の記憶は僕の過失のせいであって、栞にたいする重すぎる責任と共にもちろん忘れてはいけないことではあるのだが、いつもあいまいになってくる記憶の痛い所をえぐり出すように手をかえ品をかえてくりかえされる悪夢にはいつまでたっても慣れることはないのだ。少し熱が出てきたみたいだ、栞の風邪がうつったのか、と思うことさえ頭痛のせいで難儀なことのように思えてくる。
窓の外が明るくなりそれとともにいままで縛りつけるように響いていた轟音がゆるみ、電車は地下から這い出しもうすぐ降りるべき駅が近づいたことを知らせてくれる。都の建てている団地の工事が行われ古い長屋のようにつながった建物の町並みが消えていきはじめ、無機質でおなじ形をした部屋をつらねたおおきな箱が整然とたちならぶことになるだろう。アスファルトがはがされてあちこちに土がむきだしされているが、建設機械も作業をする人もまるで見当たらない。いまごろ栞はたった一人で家のベッドに横たわったままどうしているのだろうか。栞がなんといおうと学校を休んで彼女のそばにいるべきだったのではないのか。僕には栞にたいしてはらいきれないほどの負債があるのだから。あの事故を起こしていらい、どうすれば栞を幸せにすることができるのだろうかという事だけを考えて生きてきた気がする。電車がホームにとまり終点であるので両方の扉が空気の抜けるような音とともに開いたので僕は鞄を持ち直し同じように帰路を急ぐ人々の間をぬけて改札口へと向かう。
玄関をあけるとかすかにあの病人独特の熱のこもったような匂いが部屋のなかにわだかまっているように思われた。僕にはそれがさっきの悪夢の続きのように感じられて自分の家だというのに思わずためらわれてしまう。部屋の中は静まり返っている。あまり物音をたてないように栞の部屋にいってみると彼女はベッドの中でじっと眠っているようだった。ほっとして心をゆるめながら栞の部屋の扉をそっとしめて僕はすぐとなりに並んでいる自分の部屋にはいってカバンをおいた。台所のテーブルの上においてあった帰る途中で買ってきた夕食用の材料を冷蔵庫へいれようとドアをあけると吐き気をさそうような嫌な匂いがした。冷蔵庫の中にいれられているいろんな物の匂いがまじりあってしまいものすごい匂いになっているらしかった。冷蔵庫の整理をいまやっている暇はないので、とりあえず僕は鼻をおさえながら夕食の材料をしまってフタをするようにドアをしめた。冷蔵庫にもたれて一息ついていると壁に掛かったカレンダーが目に入り、そういえばもうすぐ叔父のやって来る日なのだと思い出した。叔父は僕と栞がこの部屋で生活しつづけてもいいかわりに月に一度、かならず自分で視察にくるという条件をだし僕らはもちろんそれを受け入れるほかはなかった。叔父は煙草を吸いながら鋭い目でひと部屋ひと部屋ゆっくりとみてまわり、トイレや風呂場やはてはごみ箱の中や冷蔵庫のなかまでもこまかくチェックしていくのだ。どんな小さな秘密でさえ暴き出さずにはいられないような叔父のそんなやりかたを僕はひそかに嫌悪している。あるいは縁のうすかったこの叔父を憎んでさえいるかもしれない。おまけに僕も、もちろん栞も煙草は吸わないけれどこの叔父は部屋をまわっているあいだ煙草をすいつづけ、僕がわざわざいっしょにもって歩いている灰皿に山のような吸い殻と部屋の中が霞むぐらいの煙を残していくのだ。栞はなにもいわないで表情をなくしたままじっとたっている。叔父が帰るとすぐに栞は窓を大きくあけて、床や壁についてしまったヤニを落とそうとぞうきんで拭きはじめ、自分の手の届かないところは僕をかりだして掃除するのだ。ほうっておくといまにも泣き出しそうな表情のままいつまでも床をごしごしとこすりつづけている。
僕は夕食をつくるまえに栞のようすをみておこうと栞の部屋に戻った。彼女の部屋は油絵の具の匂いがするがもちろんそれは当然のことで、栞は高校ときの美術教師の紹介でとなりの区の絵画教室で手伝いをしながら自分もまたその先生について画家をめざしている。栞はすでに学生コンクールで優秀賞をとっているぐらいの腕前なのだ。いまも描きかけのカンバスが部屋の隅におかれていて、絵の具のいろんな色がまじりあってついてしまい黒くなったイーゼルの上で筆を入れられるのを待っているがその絵の主たる栞が風邪で寝ているためにほうっておかれている。
栞は目をとじて静かな寝息をたてている。ひたいに乗せてあったタオルを持ちあげるとすっかりぬるくなってしまっている。僕は栞のひたいにそっと手をおいた。熱はかなり下がってきているようだ。栞はかすかに吐息のようなつぶやきをして、ひらいたくちびるの間からピンクの口腔が濡れて光っているのがみえる。かすかに、かわきはじめねばついている唾液のような匂いがしたけれども、それはけっして不快ではない。身じろぎをするようにして栞は目をあけた。帰ってたんだね、と栞はこちらを見上げてかるくほほえんでいった。やはりまだつらいのか熱によってその表情はぼうっと霞がかかったように見える。
「お腹はすいてないかい、すぐ夕食にするよ」と声をかけながら、栞のしている水枕の氷もかえようと手で合図して、栞が頭を浮かしている間にすばやく抜き取る。氷を入れるために部屋を出ようとする僕の背中に栞のいつもありがとうねという声が追ってくるのでふりかえると寝返りをうった彼女の近ごろのばしだした髪とまるみをおびた背中が見えただけだった。
冷凍庫の扉をあけてふつうの製氷皿ではおいつかないので中ぐらいのプラスチックでできているタッパを使って作った氷を取り出すために水道の水にひたした。勢いよく流れ出る水がタッパから離れるぐらいに氷を溶かしたのを見計らってまな板の上に置きアイスッピックで水枕の口をとおり頭をのせても痛くない大きさにまで砕く。大きな氷の塊が僕がふるうアイスピックによって崩れ小さな塊ともっと小さなきらきらと光を反射する破片を飛び散らせながら溶けて消えていく。破片といっしょに氷の塊からカルキの匂いがただよってくるけれど、僕などはもう慣れすぎて逆にこれこそが水の匂いだというようにすりこまれてしまっているのだ。じっさいカルキの匂いがどうだなどとテレビなどではさわいでいるけれど、ではどうすればいいというのだ。水を安全に飲めるようにした結果がカルキ臭となって嫌われる。良いことをすればほめられるというわけでは決してないという証しなのか。僕はカルキのようになってはいないだろうか。栞のためにといっておこなうことが、さらに彼女を苦しめているのではないのか。そう考え出すと僕はとほうにくれて、いままでの行動すべてをおもいだしては間違ってなかっただろうかと確かめたくなる。
僕は蟻のようにむらがってきた暗い考えを、アイスピックと一緒に最後のおおきな塊にむかって打ち下ろした。アイスピックを使うときはいつも口の中に鉄のさびたようないやあな味が広がってなぜだか落ち着かない気分にさせられる。じゅうぶん小さくなった氷をカルキの匂いとともに水枕の中に落としこむ。そういえば僕などが熱をだすと、こうやって母が水枕を作ってくれるのをずっとながめていたのを思い出す。風邪をひいて具合が悪いのに氷を割るのをみないと気が済まなかったのよねといって、母は小さいころの僕を思い出し笑いながら栞にむかって楽しそうに話し、栞も笑って小さいころの僕の失敗談や恥ずかしい話を聞いていたものだ。その母も亡くなってもう三年ぐらいになる。栞はほんらい他人であるはずの僕の母のためにずいぶんと悲しんで葬式が終わってからもしばらくはふさぎこんでいたものだが、僕はといえばやっぱり涙はわいてこずにひどく冷静に叔父を手伝って葬式やそのあとの手続きをこなした。それいらい僕と栞は二人きりでこの部屋に住んでいる。
夕食の片付けも、明日のための学校の用意なども終わりあとはただ寝るだけになり僕は栞の様子を見るためにもう何度目になるのかわからないが栞の部屋の扉をあけた。栞は体をお湯でぬぐって下着とパジャマを取り替えたせいか気持ち良さそうに眠っていた。枕元には洗面器に満たされたお湯と体を拭いたタオルがならべられその横に着替えた服がきちんとたたんでおかれていた。栞の部屋はいがいとこざっぱりとしているけれども、部屋の書棚のうえにちょこんとピンクのウサギがのっていたり、机のまわりのこまごまとした小物がかわいらしいデザインのものだったりして、やはり女の子の部屋なんだと思わせられるときがある。僕の部屋とくらべて段違いに整理されていて、いきとどいた心地よさを感じさせる。たいていはデッサン用の静物がのせられているサイドテーブルや油絵の道具類をいれている棚、イーゼルやカンバスなどが、女の子の部屋には似つかわしくないといえるかもしれない。栞のかく絵は僕などの目からみてもたしかにうまいと思う。僕は絵を描いてるときの栞のまなざしを思い出す。彼女は小さな子供がうずくまって、蟻の巣からえさをかかえてではいりする蟻たちをあきもせずただじいっと見ているように、対象と真っすぐに向きあってその瞳をかがやかせながら筆を動かすのだ。僕は美術室で坂井といっしょにモデルをやったとき、はだを女の子たちにさらしていることよりも、ただ栞のそのなにものも見逃さないように見つめてくる視線だけが恥ずかしかった。普通のデッサンの視線というのは細部をこまかく観察してかきうつしていく作業のくりかえしであって、ほかの女の子たちは視線があちこちの動いて落ち着かないように見えのに、不思議なことに栞は絵をかいているあいだじゅうほとんど視線を動かさないで描き続けている。ほかの女の子とくらべてもあきらかに小さいからだのつくりのなかできわだって目をひく大きな黒い瞳が、僕をつつみこみひろがっていくようだ。カンバスの上を炭や筆がこすっていくささやきのような音をききながら、早く全員の絵が完成して僕らを解放してくれないだろうかとそればかり考えていた。僕はしかたなしに古くなりはじめた美術室の天井や、牛だか鹿だかの頭蓋骨をみていたけれど、けっきょく視線は栞のもとへと戻ってしまい、真摯な顔の表情や手の動きをみて時間をつぶした。坂井は自分からいいだしただけあって、けっこう気に入ったらしく毎日たのしそうに美術室に通っていたけれど、その何でもたのしんでしまえる強靭な精神力がうらやましいと思ったものだ。いまイーゼルのうえにのっている描きかけの絵はなにを描いているのだろうかと思ったが、栞が完成していない絵を見られるのを嫌うのをしっているのであえて無理にみようとは思わない。ほかに栞の部屋のなかにあるものといえば、いま栞の寝ているベッドぐらいのものですべてだろう。彼女は前の家からほとんど物をもってこなかった。理由を聞いたことはない。
洗面器と栞の着替えおわった服を片付けてきて僕は枕元に椅子を引き寄せ、腰をかけて栞のようすをみる。小さな花柄のパジャマに包まれた左の腕が布団からはみ出しているのでそっと毛布をはいで掛け直す。栞の手のひらのあたたかな感触が僕の手のひらにも残った。熱のせいで栞のほほは桜色に染まりもともと白い肌をしているだけに美しいと思う。細く豊かな髪が乱れて肩のあたりやほほにかかっているのを見てのばし始めた理由をきいても内緒だといって笑って教えてくれなかったのを思い出す。
僕は不意に栞のすこし開いたくちびるにすいよせられように顔を近づける。ちいさなくちびるがいつもよりも艶のある朱色をしているような気がする。そこだけが生気にあふれてひどくなまなましい感じをあたえてきて、僕は呼吸が感じられるほどの距離に顔をよせたままじっと栞のくちびるを見ていた。僕はまったくなにも考えてはいなかった。はだが透けて血管やそのしたにある組織がいろあいをかえ、こまかなうぶ毛がかすかにほほをふちどっているのがみえた。
「……あさん」突然に栞のくちびるから言葉がもれた。閉じたまぶたから涙を流している。栞はたぶん両親をよんだのだ。僕はさっき帰りの電車の中で見た悪夢がふたたび目の前に亡霊のようにひろがってくるように思われた。僕はそのまま暗い淵にひきずりこまれるような気がして自分の身体をしっかりと抱きとめていた。栞は苦しげなうめき声をしばらくもらしていたがやがて落ち着いたらしく規則正しい寝息にもどったが僕は彼女を見ながら立ち尽くしていた。
僕のせいなのだ。栞の両親が亡くなったのは。それだけではない。さっき栞が着替えているときに外に出ていたのはもちろん常識としての問題でもあるのだがそれ以上に僕は彼女の体を見るのがつらいのだ。今もやわらかい布団に隠されているが彼女の体そのものが僕の犯した罪を意識させるからだ。栞の肉体はあの事故の日から成長することをやめてしまった。彼女の身体は今も中学二年のままなのだ。すべては僕の罪だ。何も夢などは見なかったかのように栞は整った顔を水枕にしずめたまま静かに眠っている。初めてあった時から彼女は変わっていないように見えるがそれは外見だけのことであり僕のぶち壊してしまったものはもっと奥深い何かなのだ。
いま目の前で栞が苦しんでいるのも僕が悪いのかもしれない。そもそもこんな時期に風邪をひくなんて、栞に負担をかけすぎたのではないだろうか。四月から今日までふたりとも環境がかわって、ごたごたしていたせいもある。父の会社を継いだ叔父のおかげで生活には不自由なくさせてもらっているがいつまでもこのままではいられない。僕のことを心配していたが栞のほうがよほど無理をして生きてきたのではないのだろうか。僕はカルキのように栞をくるしめているのか。椅子を戻して栞の部屋の電気をけして自分の部屋へとむかいながらも頭の中ではどうすれば彼女を幸せにすることができるのか考え続けている。 カーテンをひかずにいた窓ガラスに憔悴した男の顔を見て、昼間は頭痛がして熱っぽくて学校を早退したんだということを思い出した。扉をしめたひょうしに胃のほうから、さきほどの夕食に、栞のために栄養のあるものをとおもっていれたきざみねぎの匂いがせりあがってきて、僕はそれを呼気とともにはきだした。ねぎの匂いが空気にまじり薄れていくのを感じながら僕はかんがえている。これからどのように生きていけばいいのだろうか。僕らの未来はぼんやりとかすんだ彼方にあって、まるで幻のように実感がわかない。栞が幸せになるということはどういうことなのかそれらもすべてこれから見いだすことになるのだろうか。僕にはまったくわからない。しばらく外の闇をながめていたがカーテンをひいて机にむかい、明日までに読まなくてはならない課題の本を開いて読み始める。どこからか、あまい腐肉の匂いがただよっていた。