高野悦子さん、シャンクレールはもう閉店していました。そうそう、あなたが夢見たのはこんな日本ですか?
プロローグ
孤独であること、未熟であること。そんな二十歳の原点に散った女子大生がいた。
1969年(昭和44年)6月24日、午前2時頃、旧国鉄山陰線で一人の若い女性が鉄道自殺により自らの命を絶った。高野悦子、二十歳。立命館大学文学部史学科3年生。
学園紛争の真っ直中、時代の波に押し流され自分の居場所を見つけられないままその短い人生に自ら終止符を打った。
授業料の使い込み、ホテルでのアルバイト、そして学園紛争に翻弄されている娘の姿にいたたまれず父親は下宿を訪ねそして一気に責め立てた。
学校や親への抵抗、友人との軋轢、そして自分の気持ちを偽っての恋愛、全てに行き場を失ってしまった悦子は次第に自分自身の中に閉じこもっていった。絆であったはずの父親を自ら拒否してしまった悦子には最期の逃げ場も無くなってしまった。
「お父さん…、……」迫り来る列車の騒音にかき消されよく聞こえなかった。
あの時、あなたは最期に何を言いたかったのか。
あなたと同じように、私もシャンクレールの店の片隅でコルトレーンのバラードを聞いてみた。そしてそこで、古本屋で出会ったひとつの書物を開いてみた。黒い表紙に記された「二十歳の原点」というタイトルが気になり購入した。読み始めて私は何故か身体が震え、気持ちが高ぶっていくのを感じた。共感と嫌悪感を同時に持ったのを今でも覚えている。何かが違う。その時の私には分からなかった。ただ、何かが違うと思った。
高野悦子さん、貴方に聞きたいことがあります。
あなたはあの時、自分のお父さんの気持ちを考える余裕も無かったのですか?
最期にあなたはお父さんに一体、何を言い残したかったのですか?
何故、もう一度、お父さんの前に姿を見せなかったのですか?
格好悪くても、いいじゃないですか。寒い日に、駅のホームのうどん屋で、うどんをすすりながら身体が温まっていく些細な事に喜びを感じ、「よし、今日も頑張るぞ」と仕事に出かけていったあなたのお父さんの姿を想像もしなかったのですか?
父親という存在は、そんなにも無力なものなのですか?
あなたのお父さんが、遺品の中にあなたの日記を見つけた時の気持ちを想像すると私はいたたまれなくなります。
あなたが存在していたこと、そしてあなたもいつかは死を迎えること、そして、あなたの父親がいたこと…。この絶対的な真実に、あなたは何故、目を背けたのですか?
あなたは何故、格好悪くても良い、生き抜いていこうと考えなかったのですか?
あなたが投げかけたその命題に私が今ここで答えを出します。
高野悦子さん。あなたは、間違っている!
プロローグ
平成19年冬。
四谷駅、麹町口の階段を上がり、私と妻は上智大学に向かう交差点の信号が変わるのを待っていた。
何故だろう。私は、この交差点に立つと何時もあの二十歳の原点に散ったあなたの事を思い出す。目の前を行き来する車の騒音にかき消されそうになりながらも私の記憶の奥底から這い出そうとしてくる。
車の騒音があたかもあの学生運動のシュプレヒコールの様に鳴り響いてくる。
つぶされないぞと必死でもがいている一人の女性の姿が痛々しい。私は、最後には怒りでその記憶を消し散らす。
交差点を渡り上智大学の敷地に入ると車の騒音は一瞬のうちに消えた。
私は顔を上げ、空を見上げてみた。イグナチオの鐘の音が、澄み切った四谷の空に鳴り響いていた。あの時、未来に向かって鳴り響いていた鐘の音が、今私の耳に過去の記憶と共に到達した。何時も私を過去に引き戻そうとするその鐘の音を、私は受け入れたり拒絶したりしていた。
「ほら、ここから土手に上がるんだ」
私は土手に通じる細い石段を駆け上がりながら妻に話しかけた。妻とこの土手の遊歩道を歩くのは初めてだった。いつも私は一人でここを歩いていた。
上智大学のグランドを見下ろすその遊歩道からの景色は昔と全くと言っていいほど変わっていなかった。グランドの向こう側には丸ノ内線の赤い電車が時を刻むように四谷の駅に出入りしていた。
妻は珍しそうにその土手から眺める都会の景色に見入っていた。
「へえ、ここなの?あなたが予備校時代によく来たって言う場所は」
妻のそんな何気ない質問が私には少し気恥ずかしかった。
「ほら、あの正面に見えるのが赤坂離宮、迎賓館だよ」
私は質問をはぐらかし、ベンチに腰をかけた。妻も並んで座った。
二人は絡まったお互いの糸を手繰るようにして思い出を語り始めた。
ほとんどは子供達との思い出だった。私には、忘れられない北海道へのスキー旅行の思い出があった。
小樽駅
小樽駅1番線のプラットホームに置いてある、等身大の石原裕次郎の写真の前に私と妻は並んだ。
「違う違う。ほら、ほらこの角度からやで」
お姉、長女恵理子はカメラを両手に持ちじれったそうに言った。裕次郎と同じアングルで撮ろうと思ってお姉は私たちに指図した。
「そうそう、ほらプラットホームの番号の角度が同じになったやろ」
私と妻は顔を見合わせ思わず微笑んだ。一生懸命なお姉の姿がどこかおかしかった。
無意識にも裕次郎を意識してしまうのか、少しだけ私は身体を斜めにして構えカメラをにらみつけた。
記念写真を何枚か撮り終わり、私はプラットホームの椅子に腰掛け、電車を待った。
娘達は物珍しそうにホームのあちこちを見て回っている。
うとうとしていた私に向かって、「お父さん!」と娘達が叫んだ。
私は二人の声がする方を向いた。娘達が指さす方を見た。
マッチ箱みたいな車両の電車が入ってきた。
「あはっ、」
私たちは思わず顔を見合わせて笑ってしまった。
予想をしていなかった車両の大きさだった。
電車の大きさなど普段は意識していなかったのに、この様な場面で予想外の事に出くわし驚かされてしまった。一瞬、遊園地の中の電車が迷い込んだのかと思った。
大阪伊丹空港から千歳空港、そして小樽駅に約3時間かけて到着した。
今回の私の思い出の旅は、ここ小樽駅から始まった。
プラットホームの椅子にもたれ、向かいのホームをぼーっと見ていた私の目に初老の男性と高校生くらいの男の子の姿が映った。その初老の男は、大きなカバンを肩からぶら下げている男の子に何かを説明するかのように楽しそうに話しかけている。
私の祖父は北海道大学医学部を卒業し、精神科を専攻し精神科医になった。
明治生まれ、大学時代はそれこそ昭和初期の話である。今となってはもう歴史的な話である。しかし、私の頭の中にはその祖父の姿がいつでも存在している。
向かいのホームに映った二人の姿は、私と祖父の姿だったのかもしれなかった。
記憶が急速に逆回転してこの小樽の駅が何故か身近に感じた瞬間、二人の姿は消えていた。うとうとと、時間にすればほんの一瞬であろう、私は深い眠りに陥った。
県下の進学高校にいた私は卒業すれば何処でも大学に入れると勘違いしていた。
祖父の後ろ姿を見て育った私は医者になることがごく自然な選択だった。
小さい頃、祖父の膝の上に座っている時、突然祖父は自分の指を動かし、
「この指が何故、動くか解るか?医学にはまだまだ解らないことがいっぱいある。だから、おもしろいんだ」と私に話しかけた事があった。
私は今でもその指と、だからおもしろいんだ、という言葉を忘れない。
私は、そんな祖父の後を、いや意志を継いでなんとしても北大に入りたかった。
北大に入ることで祖父と同じ道を歩めると思えた。もう既にその時から私の頭の中には親父の姿は消えかかっていた。私は、北大受験に失敗した。
夢の中の私は、予備校時代の姿に逆行していった。
「春の空。四谷の空に鳴り響く、イグナチオの鐘の音。
あの塔に登れば見えるだろうか、雪解け後のクラーク像」
私が東京の予備校に通っていた時、国語の解答用紙の隅に書き留めた文章である。
ある時私は、国語の講師に、「どうしたら、点数が取れるようになれるでしょうか?」
と、講義の後に勇気を振り絞り、講義室に聞きに言ったことがあった。
ソファーには他の教科の講師達もいて、私が入っていく時にちらりと横目で私を見た。
何故だろうか、私は何か悪いことをしているような気がしてその場を逃げ出したくなった。自分の無能さをさらけ出しているような気がして、ものすごく惨めな気持ちになっていたのかもしれない。しかし、何処が悪いのか。答えが見つからなかった。
あの国語の講師なら何かヒントをくれるかも知れない。ふとそう思い、気がついた時には講師室の扉を開けていた。
何にでも自分で決めないと気が済まない我が儘な性格で育った私は、困難にぶち当たると真正面から自分で無理矢理に解決しようとしていた。正しい方法を、正しい指導者から学ぶ。物事には、こつがある。人から指図されると自分が崩れてしまいそうな不安をいつも抱えていたような気がする。だから、人の教えをなかなか受け入れられないできた。
高校までの生活の範囲では、ほとんどが何とかなった。私には、祖父がいた。母親も私には逆らわなかった。違うことを違うと言い聞かせて貰うことがなかった環境で育った。祖父の跡を継いで医者を目指している。それだけで我が家では全てが許されていた。
私はうつむきながら、国語の講師の座っているテーブルに向かっていった。
そして、そのテーブルの前まで来て私はテーブルの上に置かれている自分の解答用紙を見つけ思わず足を止めた。
「これは、君のか?」
私の表情を見て直ぐに悟ったように、国語の講師は微笑みながら話しかけてきた。
私は、何故自分の解答用紙がそこにあるのかとまどいながら、もしかしたら講師達の間で笑いものにされていたのではないかとまで考えを巡らせていた。
「おもしろいよ」
その講師は私の解答用紙を手に取りながら私に向かって言った。
そばにいた他の講師も、押し黙っている私に向かって微笑んだ。
「こんなに素直に、ストレートに自分の気持ちを表現できてるじゃないか。今、みんなに紹介していたところだよ」
自分の気持ちが通じていたのかな。私は、何かのトリックにかかったような気がしていた。それでも自分の文章が誰かの目にとまり、雑談の中とはいえみんなの話題になっていた。そんな事がその時の自分にとってはものすごく嬉しかった。
自分の存在がちょっと認められた様な気がした。ほんの一瞬であったが孤独から解放されたような気がした。
「もっと、問題文を丁寧に、素直に読んで、想像力を働かせたらいいよ。今回の国語の点数だって決して悪くない。いや、十分に合格点だよ」
褒められると言うことは、自分が認められたと実感することであるとこの時つくづく思った。その講師のアドバイスは私の自信を引き出してくれた。とにかく嬉しかった。褒められることがこんなに嬉しいことかと思った。
ほっとした気持ちになり、そこで私は眼を覚ました。もう一度、視線を上げて向こう側のプラットホームを見た。二人の姿はもう見えなかった。孫の受験に付き添ってきた祖父と私の姿はもう目の前から消え去っていた。眼は覚ましているはずなのに一瞬、記憶の奥底から湯けむりの中に浮かぶ祖父の顔が鮮明に映し出されてきた。
「定山渓温泉に連れて行ってやる。がんばったからな」
祖父と二人で定山渓温泉に行った時の記憶だと思う。そんな祖父の期待を私はことごとく裏切ってきた。祖父は北海道大学を卒業後はここ小樽の長橋というところの病院の院長を務めていた。
「慎一郎、おまえが受かったらいろいろな先生のところに挨拶にこなくちゃいかんな」
祖父は嬉しそうに話した。
「うん」
試験の手応えをあまり感じていなかった私は自信なげに返答した。
今から思えば、浪人時代は力づくで勉強をしていたような気がする。
それでも時間と量だけはつぎ込んだ。こんなに時間を費やして勉強をしているのになんで点数にならないんだろう。そんな不安と疑問をずっと持ち続けていた。
しかし、今ではその時の無駄が手に取るように解る。
「おとうさーん、電車来たよ。もう乗るよ」
ボーっと向かいのホームを眺めている私に向かって娘達が私の方に駆け寄ってきた。
この子達には、私たちがしたような無駄はさせたくない。
しかし、自分の費やした無駄は今の私にとっては決して無駄では無くなっている。
いっぱい無駄なこともしなさいと、本当は言ってやりたい。
自分の残された時間が少ない分、大人は子供達に向かって無理に無駄を省くようにするのだろうか。
娘たちの声で、すーっと幕が降りて私はひとときの夢から覚めた。
「わかってる。今、行く」
と大きな声で娘達に向かって返事した。
余市からニセコまで、海岸線や山間を抜け、大阪を出発してから約5時間。
ようやく私たちはニセコの駅に着いた。ここがまた私の思い出の出発駅になった。
ニセコ、比羅夫スキー場
今回のスキー旅行は、娘たちの学校の友達家族と一緒に約束をし、現地で集合した。
母親同士が中学高校の同級生であり長女同士も同じ小学校の6年生最後の春であり、仲の良いクラスメートであったことから今回のスキー旅行が計画された。
お姉達の為の卒業旅行のような意味を持ったスキー旅行であった。
母親同士が電話で連絡しあい計画を進行させている時など、一番楽しみにしていたのは姉の恵理子の方だった。その時に妹の亜矢子が姉と同じ様には何時も嬉しそうな表情になっていなかったことに私はその時点では気がつかないでいた。
私も家族で北海道にスキー旅行が出来ることに有頂天になっていた。
休みの調整も何とかできたことに自分の役割を果たしているように安心していた。
「何や、亜矢ちゃん。スキー旅行、楽しみと違うんかいな」
と、あまり嬉しそうな表情でなかった亜矢子に一度だけ聞いたような気がする。
「ううん、楽しみやで」
亜矢子は、そう答えたがそれ以上は話さなかった。
ニセコ、比羅夫のスキー場には欧米人の家族の姿が目立った。
話を聞くとほとんどがオーストラリアからの観光客だという。
そういえば町中の案内板にも英語の文字が目についていた。
この地に永住することになった一人のオーストラリア人が比羅夫の魅力にとりつかれ、自分の出身国であるオーストラリアに紹介したのが始まりだという。
今では、オーストラリアだけでなくニュージーランドからも家族連れの観光客が増加しているという。
一人の人間の紹介がつながり世界から比羅夫にスキー観光客が来るようになった。
オーストラリアは暖かい国というイメージがあったため最初は北海道のスキー観光地とのつながりがピンとこなかった。
「オーストリアと違うんかいな?」
と聞き直した程だった。
私と妻は、お姉達をレッスンできる程スキーは上手ではない。
最初からお姉はスキー場のスキースクールに入れるつもりでいた。
一緒に来た友達家族の父親は学生時代にスキー部で活躍し、インストラクターもできる位のスキー技術を持っていた。しかし、それでも自分の手から離れてスクールで練習するのが良いと考えていた。スクールで緊張した環境ですべるのが上達が早い。そう、考えていた。特に、ここ比羅夫のスキースクールでは外国人の子供達のレッスンもする必要から、外国人のインストラクターもいた。日本語と英語が混ざった国際色豊かなスキースクールだった。いろんな環境に触れさせてやりたい。そう考えもした。
「亜矢ちゃんもスキースクールに入ったらよ」
私と妻は妹の亜矢子にもスキースクールでの練習を勧めた。
しかし、お姉達のクラスに入るにはまだ技術的に未熟でついていくことができなかった。
かと言って、自分一人で知らない子供たちと一緒のクラスに入ることも躊躇っていた。お姉とお姉の友達の日登美が二人仲良くスキースクールの準備をしているのを少し気にしながら私とファミリーゲレンデへ行く事に決めた亜矢子の姿をみて、私はあれっと思った。そして、ふうんと納得した。そこには、妹の顔があった。
スキー、一日目。
お姉と日登美は外国人の子供たちと混じってスキースクールに入り、頂上を目指したリフトに乗り込んでいった。日登美のお父さんは奥さんと長男の純君を連れて滑りなれたゲレンデを目指していった。
私は、亜矢子と二人、ホテルの横を滑降するファミリーゲレンデに向かった。
「それじゃ、がんばってね」
と、私の妻はホテル内のエステサロンに消えていった。
ファミリーゲレンデは、ホテルの横の緩斜面に作られているゲレンデであった。
傾斜は緩やかであったが距離は結構あり、初心者の子供達にも充分に楽しめるゲレンデであった。私も、この位の傾斜だと楽に綺麗なパラレルで滑降する事ができ、久しぶりのスキーなのに機嫌良く滑ることができた。
私と亜矢子は何度もこのゲレンデを一緒に滑った。一気に滑る降りては繰り返し二人乗りリフトに乗った。リフトに乗っている数分間、亜矢子はずっと喋り続けた。
違う話題の事もあれば、同じ話題を忘れずに話続ける事もあった。
「お父さん、私な、学校委員に選ばれてんで」
「すごいやんか。クラス委員より偉いやんか」
「学校ってな、みんなケンカする時もあるやろ。私もするけどな。でもな、仲間はずれの子が無い学年にしよう思うねん」
「そやな」
4年生の新学期が始まり、最初の4月の月に亜矢子から学校委員に選ばれたと報告を受けたことがあった。
私はテレビを見ながら、ふうん、と聞き流していていたように思う。
私の日常の記憶からはほとんど忘れかけていた事だった。
「でも、亜矢ちゃん、お前。誰やったっけな、しつこい男の子がいて嫌やゆうとったやんか」
「あれは、別や。ほんまにうっとうしいねんで。私がノートとっていると直ぐに見せて、見せて言うねんで。ほんま、きしょいねん」
「それやったら、あかんやん。そういう子ともうまくやってかな」
「でも、なにかやってると直ぐにくっついてくんねん。ペース合えへんねん」
妻から聞いた話を思い出した。
今、亜矢子が言っている男の子は一人っ子で、学校でもみんなから嫌がられているという。
妻の話を聞いていると決して変な子では無い。逆に、みんなの気持ちに触れるということはその子に何らかの魅力があるからかもしれない。妻の話を聞いていて私は、そう思えてきた。しかし、大人には他愛の無いことでも子供達の世界にもそれなりの付き合い、相性があるのだろう。
女の子達が2,3人で集まっていると直ぐに寄ってきて、何をやってるのと参加しようとする。次第に、その子が近づいてきただけでみんなさーっと散っていくのだという。
そばにいると妙なエキスが付くといってみんな逃げていく。亜矢子もその一人であった。
私は、亜矢子が学校委員として考えていることと、実際に友達関係の中で一人の男の子に対してとっている行動との隔たりにどこかおもしろさを感じて、少し意地悪く、亜矢子に対してその男の子の話を続けた。
「でも、その男の子はまだ人との付き合い方を知らないのかも知れへんで」
「全く知らんわ」
「まだ、相手の事を考えてから接しようとせえへんのとちゃうか?」
ある日、妻のところにその男の子の母親から電話があった。
亜矢子が最近その男の子に対する態度が冷たくなったとその男の子が家に帰って母親に告げたそうだった。その母親が、心配して勇気を出して私の妻のところに相談の電話をかけてきた。私の妻になら話しても受け入れてもらえそうだとその母親は言っていた。
相手の真剣さに恐縮しながらも私の妻は話を聞いている内におかしくて笑いをこらえるのに必死だったらしい。
その母親は、恐縮しながら、自分の子供が亜矢子に冷たくされて落ち込んでいる事、駅のホームで母親と手をつなぐその男の子の姿を同級生の男の子に見られて揶揄されたこと、また、駅のホームでその男の子が急に走り出して大人の人にぶつかって危なかったことがあったのだが、その理由が、向かいのホームで母親の姿を見つけてまた同級生からからかわれるのが嫌だから逃げ出したということ、好きなサッカー選手と同じ髪の毛をしたくて床屋に行ったが、似合わないからと刈り上げみたいな髪の毛にして、それを学校で女の子達から『きのこ頭』と言ってからかわれたこと、等々延々と2時間も喋っていたそうである。母親が、子離れ出来てないだけのように思えた。
私の妻は、その子の何処が何故嫌なのかをはっきり言ってあげなさいと亜矢子にアドバイスたら、亜矢子はその通りにはっきりとどこそこがいやなんやとその男の子に告げたそうである。それから、その男の子は亜矢子にも冷たくされたと感じるようになったそうである。この男の子はいままではっきりとものを言われたこと、注意されたことがなかったのだろうか。母親に言われたとおりはっきりとその男の子に言った亜矢子の行動も私にはおもしろかったが、その男の子がその亜矢子の行動を冷たくされたと感じて自分の母親に告げていたこともどこかおもしろかった。
「なんや、良い子やんか」
妻からの話を聞いて最後に言った私の言葉である。
その男の子にとっては、亜矢子は自分の母親と同じように接することができる同級生であったのかも知れないと思った。
未熟な亜矢子もまだ、そこまでは受け入れることはできないのだろう。
「関わっているっていう事は、どこか縁があんねんで、亜矢ちゃん」
「いらんわ、そんな縁」
亜矢子はぷいと横を向いて、スキーの先を揃え足を上げリフトを降りる準備を始めた。
その男の子の母親が私の妻に電話をかけてくるまでに何回受話器を置いたかを考えるとどこかおかしかった。
笑いをこらえながらも真剣に応答している私の妻に一生懸命に自分の子供の話を続けるその母親の姿を想像するとどこか滑稽に思えた。
そして、電話をかけてきたその母親の勇気にほっとした気持ちになった。
そうそう、こんな話もした。
「あやちゃんな。お父さんは100歳まで生きると決めてん」
「えーっ、百歳!」
私は、亜矢子のそんな驚く返答を予想して突然そう言った。
私の予想通りびっくりした声で亜矢子は聞き返した。
「お父さんが100歳やったら、えーと、あと50年。私は、59歳や」
そして私は外来患者さんで102歳になった患者さんの事を話した。
若い時にその女性患者さんは書道の講師をしていたそうである。
「そうですか。木村さんは背筋もしっかりされていますし、お歳の事をいうと失礼かも知れませんが、しっかりされていますよね」
付き添いに来ていた家族も、
「いまでも、時々昔の生徒さん達が家に来られて、その時は一緒に筆を持って書いている事もあるんですよ」
木村さんは、私と家族とのやりとりをにこにこしながら聞いていた。
100歳になってなお、自分の好きなことを続けている木村さんがうらやましく思えた。
私は、診察所見をカルテに記載しながら木村さんに向かって、
「へえー、すごいですね。今度私にも新しい作品ができたら見せて下さいね」
と笑顔を向けた。これからも元気で続けられるといいですね、頑張って下さいね、っという気持ちで言った。102歳の女性の行動に自分の気持ちが動かされているのを感じながら、私はその患者さんを見送った。
それから、4週間後の再診外来の時だった。木村さんは、診察室に入ると私に寿という文字が書かれた一枚の色紙を差し出した。
家人の話では、前回の外来からこの4週間、毎日の様に筆を持ち、この寿の文字を練習していたという。納得の行く字体ができるまで何枚も何枚も書き続けていたという。色紙を受け取り、寿の文字をじっと見ている私の表情を確かめるように木村さんはじっと私の反応を待っていた。
私の笑顔をみて、木村さんの表情も満面の笑みに変わった。そして、
「こんなの先生にお渡しして失礼ですけど」と言った。
私は、家のリビングにその色紙を置いた。
夜遅くに一人でその色紙を眺めている時にふと思った。
私も100歳まで生きてみようと。そして、そう思った瞬間、時間の動きがゆっくりになったように感じた。
「そうやで。亜矢子は59歳になるんやで」
私の持っている時間と娘達が持っている時間のスピードは同じはずなのに違うのかなっと思った。
「ぴんとけえへんな」
娘にとってはあまりにも先のことで想像が付かないのだろうと思った。
しかし、私はその日以来、自分の100歳までの年月を意識するようになった。
そしてこれからの人生の時間を引き算ではなく、足し算で考えていこうと思った。
ファミリーゲレンデのリフトの終点がまた近づいてきた。
私はスキー板を揃え娘とタイミングを合わせてリフトを降りた。
リフトに乗っている間は確実に父娘の時間はリフトのスピードに合わせ、同じ時間を過ごしていた。
何回目のリフトだったか、亜矢子は突然私に聞いてきた。
「ねえ、お父さん。お父さんはお姉ちゃんと私とどっち好き?」
何を思ってこいつはこんな事を聞くのかな、っと考えながら、私は、お母さんと比べたらお前達二人はどっちでもいい、と答えてやった。
それじゃ、お母さんと私達、お姉ちゃんと私とどっち好き?とさらに聞かれたら、私は、「お父さんは家族が好きだからあんたら3人はどっちでもいい」と切り返してやるつもりでいた。
しかし、亜矢子ははぐらかされたように、
「ふうん…」と言って話を続けなかった。
「そしたら、亜矢ちゃんはお父さんとお母さんとどっちが好きや?」
と聞いてみた。
亜矢子はすぐに、「二人とも好きやで」と答えた。
どちらかに選択させようとした私の方が恥ずかしくなるような程当たり前のストレートな言葉で答えが返ってきた。それでいいと私は思った。
ファミリーゲレンデのリフトに乗っている間だけは確かに、同じ時間が流れていた。
1日目のスキーは、各自がそれぞれ予定していたような段取りで終わった。
スキースクールから引き上げてくるお姉と日登美は少し疲れた表情を見せていながらも満面の笑みで楽しそうだった。
待ちに待ったスキー旅行が実現し、彼女たちにとっては最高の卒業旅行になった。
私と亜矢子は、何回ファミリーゲレンデを繰り返し滑ったであろうか。亜矢子もそれなりにスキーをたのしんでいた。
滑っては喋り、喋っては滑り降りた。スキー板をはずしながらお姉に自分がどれだけ上手になったかを一生懸命に説明していた。
ホテルのロビーでは、私の妻と友達の奥さんとがもう着替えてみんなを出迎えていた。
「早いじゃないですか?」
純君とお父さんと一緒に滑っていたはずの純君のお母さんに話しかけた。
「実は…」
と照れくさそうにしながら、昼休みの休憩の時にゲレンデの上の休憩所の階段のところで転倒して尻餅をついてしまい尾底骨を痛めてスキーどころでは無くなってしまったと説明した。午後には、私の妻と一緒にホテルで一緒にマッサージを受けていたそうである。
二.
高野悦子さんへ、
私も、娘二人を持ち、あなたのお父さんの年齢に近づいてきました。
あなたが過ごした昭和の時代は終わり、今は平成の時代に入りもう19年目です。
最近では中学生があなたと同じ様に、理由は様々でしょうが自らの命を絶っています。
この平和な日本にあってです。
私は、新聞でそのような記事を見つけると、いつもあなたの事を思い出し、そしてあなたに問いかけています。この子達は何故、死を選択するのか、と。
高野悦子さん、私にその答えを教えて下さい。
今、ここで、納得のいく説明をして下さい。
私は、そのような記事を読み終える度にいつもあなたのお父さんに語りかけています。なんとかならなかったのだろうか、と。
そんな時あなたのお父さんはいつもこう答えてくれます。
「格好悪くても良いから生きろ、と私たちで怒鳴りつけてやりましょうよ」と。
鐘の鳴る丘
2日目の午前中。
お姉と日登美がスキースクールの間、私は亜矢子と二人で3キロの林間コースへ行った。リフトで頂上まで行き、山の裏側を回り込むようになっている林間コースは、傾斜こそ緩やかであったが距離が長く、途中の平坦な所ではストックを使って必死に滑らなければならない所もあった。
亜矢子は顔を真っ赤にしながら私の後を一生懸命ついてきた。
しかし、最後の斜面に差し掛かる頃には何度も尻餅をつき、疲れ切った表情だった。
「お姉ちゃん達に会えへんかな」
亜矢子は、斜面にへたり込みながらぽつりと言った。
スキーだけがしたいのではなくお姉達と一緒に滑りたかったようだ。
2日目は、ゲレンデ下のロッジにみんなで集合して、一緒に昼食をとった。
亜矢子は、お姉達の席に飛んでいった。日登美の弟の純君も一緒のテーブルにいた。
亜矢子よりも1学年上の小学校5年生だった。
小さい頃から本格的に体操を習っており、本気でオリンピックを目指しているらしかった。その為、運動神経が良く、スキーも父親譲りの素質もあるのだろう。
ほとんど父親と一緒のゲレンデを滑り降りていた。亜矢子の表情にいっぺんに笑顔が戻っていた。お姉と日登美が隣同士で座っている横に自分も座り、3キロもある林間コースを滑ってきたこと、途中にある細い急な斜面でコースから外れそうになり怖い思いをしたことなどを一気に話していた。
お姉も日登美とのスキースクールでの時間を充分に楽しんだのか亜矢子の話もにこやかに聞いていた。
「北山さん。午後からは、子供達も一緒に、みんなで滑りませんか?」
同じテーブルで食事をとっていた純君のお父さんが私に提案した。
私の表情を見て、純君のお父さんはそう言ってくれたのかなと思い少し気恥ずかしかった。
「えっ、あ、はい」
私は、子供達の先頭を滑って誘導できるほどスキーが上手ではない。
インストラクターの免許も持つ純君のお父さんが誘導してくれるのなら安心だった。
子供達も含め、私も練習になるかも知れないと嬉しかった。
純君のお父さんと純君、お姉と日登美、そして亜矢子と私。
合計6人のスキーパーティーがニセコ比羅夫のゲレンデの頂上を目指し、それぞれのリフトに乗り込んだ。
みんなで眺める頂上からの景色は雄大であった。
純君のお父さんを先頭に、日登美、お姉、その次に亜矢子が続いた。
純君はお父さんから離れ、亜矢子の後ろについてくれた。
私は、みんなが出発するのを見届け、少し離れて滑り出した。
急斜面を純君のお父さんのあとについてみんなで滑り降りる。
純君のお父さんは先に滑り、子供達が滑れそうな斜面を見つけていった。
お姉と日登美は同じようなスピードでついていく。
斜面の途中で3人は亜矢子と私、そして亜矢子の後ろについてくれている純君を待ってくれた。後の3人が揃うとまた、スーッと最初の3人が滑り出す。
ムカデの列は、後ろの方で直ぐに乱れた。亜矢子は必死に、お姉達が滑った後をなぞるようにゆっくりと降りていく。純君はその数メートル後ろでぴったりとついて滑っている。
転んだら直ぐに助け出せる距離を保ちながら亜矢子の後ろをついていく。
純君は強い子だなと思った。強い子は優しいなと思った。
二人の後を少し離れて私はゆっくり自分の姿勢を気にしながらゆっくりとついていった。
なだらかな緩斜面に入り、三人の列は一気にばらけていった。
純君は亜矢子がもう大丈夫と判断したのだろう。
思い切り前傾姿勢になりながらリフト乗り場まで直滑降で一直線に滑り降りていった。
私も亜矢子の前に出て両手を広げながら一気に滑り降りていった。
私と純君はリフト乗り場の前で亜矢子の到着を待った。
亜矢子は純君の目の前で止まった。
「こけへんかったな」
「うん」
リフトの順番待ちの列に並んだ。
亜矢子と純君は肩を並べてその列に入った。
リフトの中では一言も喋らなかった二人が初めて言葉を交わした。
私たちは、鐘の鳴る丘のあるゲレンデに向かうリフトに乗った。
山頂に近いところまでリフトを乗り継ぎ、私たちはゲレンデの一番上までやってきた。
山の斜面は、真っ青な青空と真っ白な雪面が一続きになっているのではと思われるほど平面的で空に近かった。
時々吹き付ける風が斜面の粉雪を舞わせ、山の輪郭を立体的にぼやけさせていた。
私たち6人は、純君のお父さんを先頭にして一列に順番に並び、純君のお父さんの後に続いてそのシュプールをなぞるように滑り降りていった。
頂上付近の斜面の緩やかなところでは、亜矢子もお姉の後に続き、少し前傾になりながらも上手に滑り降りていった。
「うわー、見て見て!」
日登美が、ストックを空高く上げながら叫んだ。
その声につられ全員が顔を上げた。羊蹄山がみんなの視界の中に飛び込んできた。
斜面ばかりを見て滑り降りていたので気がつかなかった。
青空の中に羊蹄山はその姿をくっきりと浮かび上がらせていた。
手を伸ばせば届くのかもしれないと思えるほど私の目に迫って見えた。
羊蹄山を見上げているみんなの顔がきらきらと輝いていた。
「よーし、行くぞ!」
純君のお父さんが大きな声でかけ声をかけた。
何本かの枯れ木の間をすり抜け、緩斜面のゲレンデにさしかかった時、目の前に小さな鐘がつり下げられているのが見えた。私たちは、ひとりひとりその鐘の下を滑り抜けながら紐をつかみ、力一杯にその鐘を鳴らした。
カアアーン…、カーン、と澄んだ鐘の音がニセコの空に響き渡っていた。
亜矢子も少しスピードを落として必死でバランスを保ちながら、その鐘の下を通り抜けていった。
綱を手でうまくつかむことはできなかったが、手で払うようにして鐘を鳴らした。
カン、カーン、と短いけどはじくような鐘の音が響いた。
その音が消えないうちに、純君が後ろからスピードを上げて鐘の下に入り綱をしっかりとつかむと力一杯に鳴らした。
亜矢子の鳴らした鐘の音は、純君の音にはじかれるようにしてニセコの空に舞い上がっていった。
この鐘は、恋人どおしが続けて途切れることなく鳴り響かせることができたら、永遠の愛を誓う事ができると言われている。
私たちの前にもそんな恋人達の願いを込めた鐘の音が幾度となく鳴り響いていた。
私も純君の後に続き、思いっきり鐘を鳴らした。
みんながびっくりするくらい大きな音を鳴らした。
私はみんなが一瞬振り向くのに得意気に右手をかざして見せた。
ニセコの鐘の音は、私の記憶の奥底であのイグナチオの鐘の音に絡まっていった。
また…、あなたの事を考えていた。
「本当に良かった」
大学の合格が決まった後、四谷にある上智大学のグランドを見下ろす遊歩道のベンチに座り、私は丸ノ内線の電車が四谷の駅に出入りするのを眺めながら一人つぶやいた。
取り敢えず医師としてのスタートを切ることができた。
浪人中、都内の予備校に通っていた。その時の自分の所在の無さ、抱いていた不安感は消し去ることができた。
予備校の国語の教師に相談に行ったあの時の恥ずかしさもその時には消えていた。
祖父の後を追いかけていた北大入学の夢は叶わなかったが、大阪の医大に入学する事ができた。その時からこの四谷の風景は私にとっては思い出に変わっていった。
今、子供達の後に続き比羅夫の鐘の音を鳴らした瞬間、私の記憶の中のイグナチオの鐘の音はやっと思い出に変わることができたような気がした。
30年間、引きずっていたその鐘の音はようやく私の心の中で静かな居場所を見つけることができた。この娘二人に、私と妻の未来を預けてみようと思った。
「お父さーん、早く!!」
気がつくとみんな、急斜面の手前で並んで私の到着を待っていた。
その後も私たちは何度もリフトに乗り、ほとんど全てのゲレンデを滑降した。
亜矢子と純君が初めて言葉を交わした時から私たちスキーパーティーの並び順が微妙に変化していた。
それまでは、お姉と日登美はいつも三人がけのリフトに二人で乗っていた。
話すことがいっぱいあるのだろう。
普段学校では話せないことを思いっきり話しているだろう。
リフトを降りるたびに二人の距離が縮まっているように思えた。
そんな二人の後に続き、いつも純君と純君のお父さんがリフトに乗った。
そして、私と亜矢子が最後のリフトに乗った。
私と二人でリフトに乗るときの亜矢子はファミリーゲレンデのリフトの時と同じようによく喋った。私も目の前に見える風景のちょっとした変化を見つけては話題にした。
そして、純君はある時亜矢子が到達するのを待ってくれた。
そして、亜矢子の隣に並び三人がけのリフトに一緒に乗った。
私は思わず前にいる純君のお父さんを探した。
純君のお父さんは前に行き、お姉と日登美のリフトに乗り込むところだった。
「お父さん、僕、後ろに行っていい?」
純君はリフトに向かう緩斜面で父親と並んで滑りながら聞いた。
「かまへんよ」
「でも、亜矢ちゃんのお父さん、嫌がるかな‥?」
「そんなこと無いわ」
「それじゃ、後ろに行っていいね」
「ああ‥」
そんなやりとりを父親とした後、純君は、亜矢子がリフト乗り場まで到着するのを待っていたのだった。
そして純君は黙って私と亜矢子の列に並びリフトの方に向かってスキーを滑らせた。
亜矢子を真ん中にして左手に純君、右手に私が座った。
私と二人の時は多弁だった亜矢子も純君が一緒になって直ぐには自分から話をしようとしなかった。
「純君、飛行機怖くなかったか?」
「うん、平気やった」
「晴れてたからよかったな」
私は、亜矢子の頭越しに純君に話しかけた。
「うん」
ストックを両手に持ち替え、ゴーグルの具合を確認し降りる準備をしながら純君は答えた。
純君に習って亜矢子もリフトを降りる準備を始めていた。
先ほど鳴らした鐘の音がまだ私の頭の中で鳴り響いていた。
陽も落ち、いよいよその日のみんなでの滑降は最後のゲレンデを迎えた。
ホテル前のゲレンデに向かう最後の急斜面に入った。
遥か下にホテルの明かりを見下ろし私達はゲレンデの緩斜面のところに横一列に並んだ。
「ここからは、最後だから思い思いに滑り降りてみようか」
列の先頭にいる純君のお父さんが振り向き、みんなに声をかけていた。
少し列の後ろに並んでいた私はその声を聞き亜矢子の方を見た。
亜矢子もちょうど後ろを振り向き私の方を見ていた。
私は、にこっと微笑み、亜矢子に向かって、
「お父さんと一緒にゆっくり降りようか」
と声をかけた。
亜矢子はほっとした表情で頷き、また斜面の方に向き直った。
脇道へそれれば林間コースのなだらかな斜面を使って降りていくこともできる。
しかし、亜矢子の後ろ姿は目の前の急斜面を降りる決意にあふれていた。
お姉の後についていく。そう物語っていた。
瞬間、純君のお父さんの後ろ姿が目の前から消えた。
少し背伸びをして斜面の下の方をのぞき込むともう斜面の中腹まで見事なシュプールを描き滑り降りていた。そして次の瞬間から次々と目の前の子供達の姿が消え去っていった。気がついたら私と亜矢子だけが斜面の上に残されていた。
「よっしゃ、亜矢ちゃん。ゆっくり行こう。お父さんの後についておいで」
私にとってもかなりな急斜面だった。
お姉達は大きく蛇行しながらも純君のお父さんの滑り降りた後について滑降していった。
上手になったな。この3日間だけでも確実に上達していた。
私はほとんど斜面を横切るような角度で滑り降りた。
亜矢子がボーゲンで必死についてくる。私は向きを変え亜矢子の到達を待っていた。
ほとんどおしりが雪面につくのではと思われるくらい腰を屈め必死に転ばないようにと踏ん張って斜面を降りてくる。
「亜矢ちゃん、赤ちゃんだっこのポーズ!」
と、大きな声で励ます。
腰が引けた状態でストックを持った両腕だけを前にだして必死になっているポーズは滑稽でもあった。向きを変えようとするときに尻餅をつきそうになるのを必死にこらえ私の後についてくる。
「わっ!!」
最初にバランスを崩してのけぞってしまったのは私の方だった。
亜矢子が笑った。
緊張の糸が切れたように、あはははっと、笑った。
斜面に仰向けになり天空を眺めた。
かなり降りたつもりだったが、まだ斜面の中腹くらいだった。
少し斜面の傾斜もゆるんでいた。今度は亜矢子を先頭に私がその後をついていった。
ホテル前のゲレンデに近づくに従ってぼんやりとゲレンデの方を向いて立ち止まっている二人の姿が浮かんで見えた。
純君のお父さんとお姉が亜矢子と私の帰りを出迎えてくれた。
私は予想もしていなかったので一瞬通り過ぎそうになった。
亜矢子は直ぐに気がつき二人の目の前で息を切らせて止まった。
「すごいやんか。こけへんかったやん」
お姉は満面の笑みで亜矢子を褒め称えた。
「この斜面を滑れたらすごいで」
と、私も息を切らせながら褒めた。
亜矢子はお姉の目の前で自分のスキーをはずし、何も言わずにただにこにこと満面の笑みをたたえていた。亜矢子は自分の力でお姉の気持ちをつかんだ。
「お疲れ様でした」
純君のお父さんが私にもねぎらいの言葉をかけてくれた。
先にホテルに戻らずに、お姉と二人で私たちを出迎えてくれたことに心から感謝した。
ただただ嬉しかった。
三、
なんば歩き
その日の晩。私たちはまた、ふた家族でスキー場に来る途中にある地元の寿司屋に行った。
ホテルのロビーで待ち合わせしている時、子供達は一日目と違いはしゃいでいた。
純君はロビーで逆立ちやバク転をし、それをお姉や亜矢子達は大はしゃぎで見ていた。
「お待ちどおさま」
母親達がロビーに降りてきた。
私は先にホテルの玄関まで出て待っていた。
お姉と日登美、そして亜矢子が肩を並べて出てきた。
私の目の前を通る時も、亜矢子は私に脇目も触れず楽しそうにお姉達の会話に入っていた。
「何を喋っているのだろう」
私は少し気になった。
「北山さん、行きましょうか」
純君のお父さんが私の後ろから声をかけてきた。
「あっ、はい」
私は純君のお父さんと肩を並べ亜矢子達の後について行った。
地元の寿司屋までの道は軽い坂道になっていた。
所々、除雪された雪が道路脇に積み上げられていた。
歩道まで積み上げられ、せり出している場所を通りかかった時、お姉はぶつからないようにと車道側にさっと避け、日登美の左側に自分の位置を変え歩いた。
お姉の右側を歩いていた亜矢子はすかさず自分もお姉の左側に回り込んでいた。
決してお姉と日登美の間には入ろうとはしなかった。
私はそんな3人の後ろ姿をみて思わず嬉しくなった。
亜矢子は自然とお姉の左腕に絡みつきながら楽しそうに会話に入り込んでいる。
至極自然に3人は坂道を歩いていた。
その夜、地元の寿司屋で大宴会になった。私たちは広い座敷の宴会場に案内された。
50人くらいは入れる広さの宴会場についたてのしきりをしたテーブルに私たちふた家族だけが案内された。
純君にとってはちょうど床体操ができるくらいの広々としたスペースに思えたのであろう。じっとしていられなかったのか、がらんとした畳の上で柔軟体操をし始めた。
純君が逆立ちをし始めたのを見た亜矢子は、
「私も逆立ちできるようになってんで、なあ、お父さん」
そう言って立ち上がりみんなの前に出て行った。
私もその言葉に促されるようにして立ち上がり、亜矢子の前で構えた。
「そうやな、お父さんが足を支えてやったらできるな」
私は、亜矢子と向かい合い亜矢子の足を受け止めようと構えた。
勢いよく倒立をして両足をばたつかせながら私の方に倒れかかってきた。
あまりの勢いに私は抱えるようにして亜矢子の身体を受け止めた。
「おい、こら。そんなに‥うわっ」
調子に乗って勢いよく蹴り上げて逆立ちをしたものだからほとんど私の方にぶつかるように向かってきた。
2回目は少し気をつけてゆっくり足を上げていたが今度は届かずに片足ずつをばたばたさせていた。私は目の前でばたついている亜矢子の足を片方ずつつかみ無理矢理によいしょと足を揃えて少し持ち上げた。
亜矢子が自分で倒立をしているのか私が両足を持ち上げて逆さづりにしているのか解らなかった。それでも亜矢子は自分で倒立しているつもりなのであろう。
両腕をまっすぐ伸ばして必死に身体のバランスをとろうとしていた。
「亜矢ちゃん、もう少し首をそらせて」
と私が声をかけた時、傍で見ていた純君が駆け寄ってきて、
「違うで。頭はまっすぐにしてな、首の骨と背中の骨がまっすぐになるようにすんねんで。だから、頭はそらしたらあかんねん。あごを引いてまっすぐにすんねん」
と言った。
オリンピックを目指してるジュニア体操選手の意見だった。
小学生といえどそれが今の体操の常識なのだろう。
「へえ、」と感心している私の横で、純君は亜矢子の逆立ちをした頭の後ろに手をやりまっすぐにさせた。
その瞬間、亜矢子は「うわっ」と言って、足をくねらせ倒れ込んでしまった。
正しいバランスの取り方に身体が慣れていなかったのであろう。
私も亜矢子の足をつかんだまましゃがみ込んでしまった。
亜矢子の足を持ったまま尻餅をついてしまったものだから私はおしりを畳にしこたま打ち付けてしまった。頭のてっぺんまで電気が走ったような痛みに耐えている私の姿を見てみんな大笑いをしていた。
尻餅をつきながら私はその時に一瞬ひらめいた。
逆立ちは、弓なりになってやじろべえみたいにしてバランスをとるものだとばかり思いこんでいた私は、純君のアドバイスに目から鱗であった。
考えてみれば当たり前であった。頭から首、背中にかけては脊椎は積み木みたいなものでまっすぐに積み重なっている方が安定しているはずである。だるま落としのだるまである。
「そうか!」
私は、毎日しているゴルフの練習で悩んでいた疑問点がその瞬間に解決した。
少なくとも理屈上では納得した。フィニッシュをとるときには目標にまっすぐ向く。
その時、身体を反らせるのではなく、すっとまっすぐに立つ。
両腕の動きは上下の動きが入るが(実はこの動きをするのは肘から先の前腕部分だけなのであるが)両肩は背骨に対して直角な面の中で水平に回す。
そして、フィニッシュでは身体全体が目標にまっすぐに自然体で向かっている。
フィニッシュで身体全体が弓なりになっている形はいかにも力強そうであるが実は、非常に身体に無理をしている体勢なのである。
人間の身体は、背骨を生理的な範囲内でまっすぐに自然に保ち、その軸を中心として水平に身体を回転させるのが一番理にかなった動きなのである。
独楽の軸と本体の角度がずれていたら独楽は決して澄んだ回転はしない。
「なんば歩きと同じやんか!!」
私は、思わず叫んだ。
みんなきょとんとして私の方を見ていた。
「なんば‥?」
お姉が、何それっといった感じで聞き返した。
「あんな、お父さんな最近なゴルフの練習の時にずっと考えていたんやけどな。どういう風にしたら身体をスムーズに回せるかって」
私は、すっと立ち上がりみんなに向かって講義し始めた。
「なんば歩きってあるんやけどな、今、純君が言った言葉でふっと気がついたわ。
運動の基本ってみんな同じなんや」
そう言いながら私は、右足と右手、左足と左手を交互に同時に前へ出すようにしてみんなの前で歩いて見せた。
身体をねじるという事をせずに、身体に無理な負担をかけずに動かす。
これは、江戸時代の日本人の歩き方で、古武道の考え方にそった身体の動かし方なのである。足の動きと腕の動きが同じ側が同時に動いてしまう。
幼稚園や小学校の子供達の中には時々この様な歩き方をする子がいる。
しかし、それは子供が自然な動きの中でする歩行方法である意味では生来、人間の身体に自然に身に付いている動かし方、バランスの取り方なのである。
子供は、教えなくても一番身体にとって楽な動かし方をするものである。
大人が、教育の名の下で不自然な矯正を強いている場合も多い。
「なにそれ?」
お姉はびっくりした顔つきで聞き返してきた。
「知らんか?みんな」
私は少し得意気に説明をしながら、またみんなの前でなんば歩きを披露して見せた。
「変やで、おとうさん」
私の歩き方を見て、亜矢子が言った。みんなも苦笑していた。
「なんでや。こうしてな、身体をひねらないようにして歩くと身体に、特に骨に負担をかけずにあるけるんやで。これは人間の身体にとって自然体の動きなんやで」
自分でもまだ身に付いているわけではなかったので動きがぎこちなくなっていた。
「最近、短距離選手の末次選手もこの走法を取り入れて成績を伸ばしたって言うてたで」
私は、最近に得た知識を思い切り知ったかぶりをして披露した。
ある高校のバスケットボール部でこの理論を取り入れて全国大会に出場するまでになったという事も必死に説明した。
まだ自分のものにもなっていないのにいかにも自分のものであるかのように必死に説明する姿に自分でもおかしかった。
しかし、酔いもまかせて私は上機嫌であった。次第に子供達も立ち上がり面白がって私のなんば歩きをまねていた。
「変やで、変やで」
と言いながらみんな結構、面白がってまねをして歩いていた。
ちょうど料理を運んできたお店の人が、私たちの盛り上がり方を横目で見ながら少ししかめっ面をしていた。
「はい、もうそのくらいにしときましょう」
と、私は子供達と一緒に、二人の母親からたしなめられた。
なんば歩きで一気に盛り上がった後、運び込まれてきた食事をみんなで食べた。
「これ、なんやろ」
注文した食事の中にお姉が今まで食べたことのないものがあったらしい。
初めての食べ物で敬遠しようとするお姉を見て私は、
「まあ、取り敢えず食べてみ、あえへんかったらおいといたらええやん」
何もせずに最初から駄目だと決めつけてしまう。
私も妻もそんなのは嫌だった。
私とお姉のそんなやりとりを見ていて純君のお父さんとお母さんが顔を見合わせていた。
「うちと一緒や」
純君のお父さんがそう言って笑った。
「食べてみ。あかんかったら止めといたらええ」
そう言って同じように自分の娘にも勧めていた。
お姉と日登美はちょっとためらいながら、お互いに顔を見合わせながらそっと口に運んでいた。
「どや、おいしいやろ」
まだ二人とも噛んでもいないのに親たちはたたみかけるように言葉をかけた。
まだ、口に運んだばかりで味わってもいないのにお姉と日登美ちゃんは親たちの勢いに負けて、「うん」と頷いていた。
「お父さん、これ」
私たちのやりとりを見ながら妻がお土産袋をそっと私に渡した。
「ああ、そうそう」
私は勿体ぶって受け取った。私も、この袋を差し出すタイミングを待っていた。
「純君な、これ」
私は、妻から受け取った袋をそのまま純君の目の前に差し出した。
あたかも妻から渡してるかのようにそのまま差し出した。どこか私にも照れがあったのかもしれない。純君はちょっととまどい、直ぐには受け取ろうとはしなかった。
純君の母親がきょとんとしてそのやりとりを見ていた。
「これはおじさんからや」
純君の目の前に袋を差し出したまま私は純君に言った。
「今日、みんなで滑ったとき、後半は純君、亜矢ちゃんの後ろについてくれてたやろ。
倒れたときにも直ぐに助けに行ってくれたやんか。亜矢ちゃん心強かったと思うんや」
目の前の袋を受け取っていいものか戸惑い、純君は母親に視線を向けた。母親は黙っていた。
「純君は強い子やなと思った。偉いなと思ったんや。だから、これはおじちゃんからのプレゼントやからもらっとき」
気持ちが伝わったのか、純君はにこっと微笑みながら手を伸ばし袋を受け取った。
「ありがとう」
と小さな声で言った。
「よかったやんか、純」
純君の母親も嬉しそうに言った。
ホテルのお土産売り場で、布製のペットボトル入れを買っておいた。
勇気を出して渡せて良かった。
「体操の練習の時に持って行けるな」
一番嬉しそうに微笑んでいたのは純君の父親だった。
純君は本気でオリンピックを目指して苦しい体操の練習を毎日毎日続けている。
目標を持って、正しい指導を受けて毎日練習を続けている。そして何よりも本人が楽しんでいる。
「でも何故、体操なんか始めようとおもったん?」
私の妻が、純君の母親に唐突に聞いた。私も聞いてみたかった。
帰ってきた答えは私たちにとっては意外なものだった。
純君の母親は思い出し笑いをしながら話し始めた。
「それがさ。この子がよちよち歩きをやっと始めた頃にね、あぶないって思っても柱とかによじ登ろうとするのよ。それで、鉄棒みたいなところは平気でぶら下がっているし。危ないって思って結構冷や冷やしたけど、それが私たちもびっくりするくらいしっかりとぶら下がってたりするのよ」
純君のお父さんも純君の小さい頃の事を思い出しながら母親の話に頷いていた。
「へえー」私の妻は予想外の答えに驚いたと同時に関心していた。
それこそ、親が連れて行った幼児体操教室かなんかで少し上手だったからその延長で続けていたのだろう、位に思っていたのだろう。
「公園なんか連れて行ったら、本当、猿みたいよ。木から木へと一度よじ登ったら全然降りてこないんだから」
小学校の時から毎日練習を続けるなんて大変だと思っていたけど本人にとってみれば自然に身体が動いてしまうことだし、自分がやりたいと思っていることをやっているんだし、練習はつらいこともあるだろうけど、楽しんでいるんだろうな。
こんな小さな子供に少しの嫉妬心を感じた。
「小さい頃にそんなだったから、お父さんと相談をして少し本格的なスポーツクラブに行かせてみたのよ。そしたら、純の方が喜んで行くって」
小学校の授業が終わってから毎晩、スポーツクラブへの送り迎えをしていると楽しそうに純君の母親は話を続けた。
自分の子供の良いところを見つけ出した純君のお父さん、お母さんは偉いなと思った。
「明日は今日よりももっと上手になるぞ、オー!!」
と言って子供達のエレクトーンの練習に付き添っている自分の姿と重ねてみた。
親として、どんな小さなものでも子供達の長所を見つけてやろう、それがその子の原石かも知れない。一緒に根気よくその原石を磨いていってやろう。
一歩ずつでも前へ引っ張って行ってやろうと思った。
褒めてやるタイミングをきめ細かく見つけてやろうと思った。子供を通して自分の未来を確保しようとしている。子供を通して自分と違う人生を楽しもうとしている。
私の人生は私だけのものであり、一度でいい。その緊張感が楽しい。
高野悦子さん。
あなたは未来についてどの様に考えていましたか?
目の前の体制を崩すことばかり考えていて未来が見えなくなっていませんでしたか?
私は、今あなたの未来を生きています。いつの時代だって辛いし、悲しいしです。
そしてあなたが言うように、みんな自分は未熟であり、孤独と感じています。
でも、生きていることはむちゃくちゃ楽しいですよ。
井上陽水って知ってますか?人生が二度あればって歌っていました。
私も昔はそう思っていた時もありました。でも、人生は一度でいいです。
一度だから面白いんです。私は今、こうして生きています。そして明日からもこうして生きていくだろうと思っています。悔しいけれど、結局、最近よく吉田拓郎を口ずさんでいます。本当に、人間なんて、ララ、ラーラララ、ラーラですよ。
人間は変わるんですよ。人間が作った社会なんかころころ変わるんですよ。
でもね、あなたのお父さんの気持ちと私の気持ちは時代を隔てても同じだと思うんです。
高野悦子さん…。
やっぱり、あんたの判断は間違っているよ。
四、
雪だるま
今日一日だけの私たちの家族。
こんにちは、
さようなら。
翌日の朝、私は亜矢子と二人でホテルの前に出て、ゲレンデの片隅で雪だるまを作った。
そう言えば、スキー場へ行くと必ず私たちは雪だるまを作って遊んだ。
六甲のスキー場へ行った時も、新井のスキー場へ行った時も。
ゲレンデの雪を両手いっぱいにすくっては丸く積み重ねられた雪の固まりの表面にくっつけていく。これも雪化粧というのであろうか。
ゲレンデの凍り付いた雪をスキーシューズの踵でガッ、ガッ、っと削り取っていく。
今日一日だけの家族が形になっていく。
シャーベット状の雪の固まりをドカッと積み重ね、雪だるまの頭の部分を作っていく。
亜矢子が新雪の固まりを両手いっぱいに抱えて持ってきてはザラザラの雪だるまの顔に塗り重ねていく。
さらさらの綿のような新雪は雪だるまの顔に白粉を塗って化粧をしていくように塗り重ねられ、表情ができあがっていく。
亜矢子は、雪だるまの化粧に夢中である。
自分の腰の高さくらいまでの大きさになった雪だるまの顔に中腰で一心に新雪をくっつけては手のひらでパンパンと叩いていく。
顔のでこぼこが無くなり、雪だるまの顔のあばたはえくぼに変わっていった。
「足も作ってやろうや」
「足?立たれへんやんか」
「違うよ。両足を前に伸ばしたような格好にしてやるんや」
そう言って私は、雪だるまの前に雪をかき集め、両足を伸ばして座っているような格好になるように作っていった。
「あはっ、それやったら靴も履かしたろ」
私と亜矢子はそれぞれ足に靴を履かせてやった。
少し大きさの違う新品の靴を履いた雪だるまに陽の光が反射してにこっと笑ったように見えた。私は、この雪だるまを家族の一員に加えてやった。
私が決断しなければ誰が決断する。
「よし、完成。そしたら、名前を付けてやろう。亜矢ちゃん、何にする?」
「うーん…」
頭に木の枝やら飾り物をしながら亜矢子は名前を考えた。
「純君。あっ、それじゃ、純君と同じになるか。うーん…」
「ニセコ、比羅夫、生まれやから、ヒラオはどうや?」
私は、適当に思いついたままの名前を言った。
「ええよ」
「よし。ヒラオにしよう。写真撮って、お母さん達にも見せよう」
私は何枚かの家族写真を撮った。
ファインダー越しに、こんにちはと挨拶をした。
そして、必ず来る別れを想像して、
「さようなら…」と呟いた。
エピローグ
高野悦子さん。
私の大切な家族の思い出話、何処かで聞いていて下さいましたか。
ようやくあなたのお父さんにも私の気持ちを伝える事ができたような気がします。
私は、あなたのお父さんがあなたの為に残した一冊の書物から一生考え続けなくてはいけない命題を突きつけられてしまいました。
その命題の答えを得るために生き続けているような気もします。
しかし、30年たって、私の二十歳の原点にも答えのようなものが少し見えてきたような気がします。あなたに教えてあげます。大切な人の為に生きると言うことはこういう事なんだということを。
「寿則辱多」
最近、この言葉を知りました。それならば、私は人と接していく中で辱をかいて生きていこうと思います。どんなに格好悪くても、生き抜いていこうと思っています。
高野悦子さん。ありがとうございます。どうぞ、静かにお眠り下さい。
これで、私の二十歳の原点にもひとつの区切りをつけることができたように思います。
ニセコ比羅夫の鐘の音は、いつまでもいつまでも鳴り響き、決して消え去ることは無い。
そして今、四谷の空の上でイグナチオの鐘の音と絡まり合いながら、私と妻の頭上で鳴り響いている。
「次にこの鐘の音を聞くのはいつ頃だろうか…。何処で聞くことになるだろうか」
思わずそう呟きながら、私は上智大学のグランドを見下ろす遊歩道をゆっくりと歩いた。
少し離れて妻が私の後をついてくる。
「お父さん。今頃、あの娘達はどうしているんでしょうね」
妻は私の後ろ姿に向かってぽつりと呟いた。