第七の夜 さいごの夢
「ねぇ」
目を瞑ったまま、哲美は言う。
「あなたは、幸せだった?」
「……てつは?」
もうきっと感覚もないであろう手を握りながら、陽奈子は問い返す。
「あたしは、まぁ、そこそこだったけど、あなたに会えて、すっごく幸せだった、かな」
「そう」
「あなたは?」
「幸せだよ。哲美に会えて。すごく、幸せ」
哲美は過去形で幸せだったと言った。
陽奈子は進行形で幸せだと言った。
ただ、それだけのこと。
けれどそれは全てを意味している。
「あ~」
「うん?」
「すごく眠い」
ぎくり、と陽奈子は身を強張らせる。
それに気付いて哲美は唇の端だけ笑みを浮かべる。
「……死にたくないなぁ、やっぱり」
「死なないで」
涙で声が震えた。
「死なないで」
哲美はそれに応えない。
「……やっぱり、すごい、眠い」
ただ、それだけ声に出して。
「ごめん。少し、寝る」
「てつ」
もうどう呼んでも否定さえしてもらえない。
優しい、優しい、笑みを浮かべて。
「……眠ったら、さ」
あたたかい、声で。
「あなたの夢、見るよ」
そう言って。
ゆっくりと、一度、深く息を吐き出した後。
哲美は動かなくなった。
陽奈子は、涙を拭った。
小1時間ほど、哲美の冷たい身体に寄り添っていたのだけれど。
立ち上がって、台所に行く。
ざぶざぶと顔を洗ってもう一度戻ろうとした時、ふと、テーブルの上に置きっ放しだった郵便物が目に入った。
いくらか前に、冗談半分で「眠り姫の病」にかかる可能性があるか否かを調べた結果通知だった。
今になってようやく、感染する理由が判明したとテレビは報道している。
それは遺伝子の不具合なのだと専門家は言う。
今、地上に存在している人間の半数は感染する可能性があるのだと。
血液による感染が濃厚で、発症の可能性のある人間は注意をしなくてはならないとも。
そして、陽奈子もその中の一人だった。
今はまだ発症していないだけの、いつか発症するリスクのある人間のひとり。
治す薬は今のところない。
地上の半分の人間は日々を怯えて生きている。
空気感染でうつることはない病だからこそ。
人々は怯えている。
もう一度、哲美の手を陽奈子はその手に取る。
じゃらり、と手錠が音を立てる。
少し顔をしかめて、陽奈子は自ら口の中を傷つけた。
それから、哲美の指先を口に含む。
歯を立てる。
冷たい感触。
口に広がるのは、苦い、鉄の味。
口に広がるのは、甘い、てつの味。
指を口から離して、陽奈子は眠ったような哲美を見つめる。
「……ごめんね」
小さく謝罪する。
きっと、哲美は自分に生きていて欲しいと願っただろう。
でも。
左手の薬指の根元についた、小さな傷からは血が流れる。
結婚指輪のようだ、とぼんやり思いながら、小さく笑った。
そんな約束も出来ないまま、置いていかれてしまったから。
「あなたが生きていない世界に、わたしは生きていたくない」
生きる理由。
そのものでもあった。
彼女の存在こそが。
やがて、夜がやって来る。
陽奈子は哲美の眠るベッドに寄り添うようにして横たわる。
もうすぐ訪れる永の眠りを待っている。
彼女の元に行く日を待っている。
彼女の元に逝く日を待っている。
そして、陽奈子は目を閉じた。
七夜の夢はこれにておしまい。
ふたりはそうして眠りについた。