第四の夜 赤い夢
白い消毒液の匂いのする部屋で。
哲美は椅子に腰掛けていた。
目の前に座る男性は難しい顔をしていた。
「スリーピングビューティは知っているね」
男が言った。
哲美は眉間に皺を寄せた。
指先は冷え切っていて、感覚がない。
自分が冷え性なのは知っていたが、ここのところいつもよりも酷い。
「知ってますが、それが何か」
そう言って、気付いた。
目を出来る限り見開いて医師を見る。
男は首を横に振った。
「……残念だが」
「そんな、こと……」
指先が震えた。
「持って、後1週間だ」
指先の凍るような冷たい感触。
哲美は目を伏せる。
「……直す方法はないんですよね」
「今のところは」
その言葉を聞くか聞かないかの内に哲美は立ち上がっていた。
そのまま、横に置いていたバッグをひっつかんで後ろも振りかえらずにそこから出ていく。
何も出来ない場所に用はなかった。
湧きあがったのは死への恐怖。
でも、それよりも先に。
怖かったのは。
何よりも怖かったのは。
彼女を失うという事実。
彼女を置いて逝くという現実。
ぐったりと眠ってしまった陽奈子の髪をゆっくりと撫でる。
今日で、四夜。
来週には自分は物言わぬ物体と化す。
ワガママだった。
最期の。
手錠をかけて、外せば別れると言ったのは。
陽奈子がそう出来ないことを知っていたからこその言葉。
せめて、自分が最期を迎えるその時まで、一緒に居て欲しいと思った。
それはただのエゴだ。
陽奈子が目を覚ますと手首にまた違和感があった。
目を凝らすと、銀色の手錠の先にワイヤーが付いている。
「おはよ」
相変わらずの調子で哲美はそこに居る。
「……これ」
「お風呂入りたいかな、と思って」
「ああ、なるほどね」
逃げられないように、というわけでもない。
だって鍵はまだ陽奈子の傍らに無造作に置いてあるのだ。
「じゃあ、ちょっと」
「ああ」
哲美はかちん、とライターを灯す。
いつもだったらこの部屋で煙草を吸うなと叱りつけるところだったけれど、それに何も言わずに陽奈子はバスルームへ入っていった。
(どうにかして)
ぬるい湯を身体に浴びせながら、陽奈子は外と連絡が取れないものかな、と思う。
哲美はほとんどずっと傍から離れようとしないので電話をすることもままならない。
何がどうしてこうなったのかはわからないけれど、やはり自分の口で休むなら休むと告げておいた方がいい気もする。
身体にこびりついた汚れを落とし、鏡に映った自分の顔に苦笑する。
「案外、おかしなとこでまめなんだよね」
メイクはきちんと落としてくれてあった。基礎化粧品で整えてくれたからなのか、顔は思ったよりくすんでいない。
身体もそれほど気持ち悪いわけでもなかった。
哲美が熱い湯で湿らせたタオルで身体中を拭ってくれたからだ。
「どうしてだろ」
何故か、鼻の奥がつんとした。
「どうしたんだろ」
嗚咽まじりの陽奈子の呟きは、シャワーの音にかき消された。
「出たよ」
「ん~」
テレビを見ていた哲美は、戻ってきた陽奈子を見て苦笑する。
「はやく頭乾かさないと風邪ひくよ?」
「うん」
いつもの会話。
いつもの哲美。
でも日常とは違う。
明らかに、違うのだ。
「じゃああたしも入ろうかな」
そう言って哲美は立ち上がる。
服を手早く脱ぎ捨ててそのままバスルームに入っていった。
陽奈子はテーブルの上にスマートフォンを見つける。
(哲美のだ)
じっと見た後、思い立つ。
(ちょこっとなら、平気だよね)
ワイヤーはそこそこ長いので部屋の探索も自由に出来る。
自分の手帳を見つけた陽奈子はそれをぱらぱらとめくって電話をかける相手を捜していた。
熱い湯が降り注ぐ。
自分の腕をなぞって、哲美は顔をしかめた。
(もう、ここまで来てるのか)
すでに手のひらから肘の部分まで氷のように冷たくなっていた。
足も膝の上ぐらいまで同じような状態になっている。
熱い湯を当てても、温度が戻るのは一瞬ですぐに冷たくなる。
(……後、どれくらいなのかな)
考えてみて暗い思考に囚われかけて慌てて首を横に振った。
今は何も、考えたくなかった。
(えーと)
とりあえず、と会社の自分の部署に電話をかける。
『もしもし?』
「あ、金杉さん?」
会社の後輩である金杉が電話に出たので、出来るだけ声を抑えてぼそぼそと小さな声で陽奈子は喋る。
バスルームからはシャワーの音が聞こえる。
『陽奈子さんですかっ?! 今、何処にいるんですかっ』
「あ、いや、その」
あまりの剣幕に自宅に居るとは言いづらくて言葉に詰まる。
『哲美さんが大変なんですよっ』
「え?」
その単語に反応する。
「て、哲美さんがどうかしたの?」
あくまで平静を装って、と自分に言い聞かせて、言葉を紡いだ。
『一昨日突然辞表を出しに来まして、その後消息不明になってしまって』
「そんな……」
だって哲美はここに居るのだ。
それを伝えようと陽奈子は口を開いた。
でも言葉は出てこなかった。続いた金杉の言葉に、何も言えなくなってしまったからだ。
『なんだかここのところ病院に通い詰めてたって聞いて、いろいろ聞いて回ったら、どうやら最近流行している「不治の病」にかかったって宣告されたらしいんです』
そのまま、スマートフォンを取り落とした。下に敷いてあったカーペットにバウンドして、画面は見えなくなった。
『陽奈子さん? 陽奈子さんっ!』
電話の向こうで金杉が呼びかけている。
でも、陽奈子にはそれはもう聞こえなかった。
バスルームの扉が突然ばたんと開かれる。
「あれ? 陽奈子?」
シャワーで濡れるのも構わず陽奈子はその中にずかずかと入っていく。
「どうしたの?」
「……なんでっ」
拳をその胸に何度か叩きつける。
陽奈子は泣いていた。
哲美は何があったのかをおおよそ理解した。
自分から言い出せなくて本当にずるいとは思っていたが、多分テーブルの上にスマートフォンを置いておけば外部と連絡を取るだろうとは考えていた。
「濡れちゃうよ」
「なんでっ」
「……話すから。ちゃんと。だから、向こうで待ってて」
ね? と諭されて、陽奈子はこくんと頷いた。
哲美は少しだけ目を伏せて、濡れてしまった陽奈子の髪を優しく撫でた。