第8話 馬車上の説明会
帰りの馬車は、干し草がなくなった分乗り心地は悪くなったが、馬の足取りは速くなっていた。
ロッドは行きと同じように、暮れかけた空をぐるぐる飛び回っている。
ひっきりなしにガタガタいうクッションの悪い荷台に乗った瑛人は、とりあえず今日あったことをロゼに初めから話していた。
落書きの話を聞いたロゼは、眉をひそめて呟いた。
「きっとシディストだわ。嫌ね、まだそんな信仰が残っているなんて」
「シディスト?」
「初代魔王信奉者のことよ」
そう言えば、噂をしていた商人もそんなことを言っていた気がする。
「魔王って言えば、悪い奴なんだろ?
どうしてそんなのを崇めるんだ?」
「そうよね。私もそう思うわ。
魔王っていうのは、もともと『桁外れに強い魔力を持ち、厄災を起こす魔物』の総称よ。
魔王が出現したその度に討伐隊が組織され、倒してきたの」
でも、初代魔王は魔術師にとって特別な存在なのよ、と憂鬱そうな顔を崩さず、ロゼは言った。
「初代魔王は、魔術師を支配者とする世界を作り上げようとしたの。
そして、ヴィエタ帝国を建国して、一時的にせよそれをやり遂げた。
初代魔王はそれまで分裂して伝承されていた魔術を体系的にまとめて、今の魔術の基礎を作ったの。
彼がいなければ、神聖ヴィエタ語の魔術書すら残らず、今の魔術師連盟だって存在しないかもしれないわ。
それくらい、初代魔王の魔術的功績は大きい。
だから、一部の魔術師の中には、未だに初代魔王を信仰する人たちがいるのも確かなの。
初代魔王は不老不死だとか、勇者に倒されたのではなく自らを封印して、魔術師が滅びの危機に瀕したときに復活するとかっていう伝説を未だに信じているのよ。
それが初代魔王信奉者。
でも、実際は行き過ぎた魔術師優位の政策のせいで、帝国が滅びてから魔術師は長い間迫害されてきたわ。
今のようにタクト神教と和解したのは百年ほど前の話。
他の宗教の国では、今でも魔術を使っただけで処刑されたりもするわ。
カサン王国は異教徒に寛容な方だけど、十年前東部で、連盟から離反した魔術師がヴィエタ帝国を再建しようとして、大きな内乱が起こってからタクト神教との間がぎくしゃくしているのは確かよ。
カミノ村は中部にあるから、あまり内乱の影響は受けなかったみたいだけど」
御者台から、レインさんがゆっくりした口調で声をかけてきた。
「何、心配することないさね。カミノ村で魔術師を悪く言う輩なんぞおらんよ。
ほとんどの人があんたらの作る薬の世話になっとるんだからね」
「ありがと、レインさん」
ロゼが満面の笑みで答えた。
「本音を言うと、『森の魔女』はちぃとおっかねえが」
「そう? イザベラも、中身はいい人なのよ?」
「いや、あれはおっかねえ」
そう言って、レインさんは何かを思い出したのか、けらけらと笑い始めた。瑛人は遠慮がちに尋ねた。
「……森の魔女って、誰?」
「あら、そうだ。エイトは知らないんだったわ。
『森の魔女』、イザベラは私の薬作りのお師匠様よ。
村外れの森の中に住んでるの。
ちょっとエキセントリックなところがあるし、貴族相手の高い薬しか扱わないから村の人とは交流がないんだけど。
今は王都へ交易に出てるわ。帰ったら紹介するわね」
それから、一瞬間を置いて、ロゼは続けた。
「それより、あの金髪美人のキャロルさんの話よ。
ねえ、あの人は本当に山野なの?」
改めて聞かれて、瑛人は考え込んだ。
「お昼を一緒に食べただけだけど、嘘をついてるって感じはしなかったな。
ただの勘だけど、悪い人じゃないと思う。
大体、俺に嘘をつく意味があるとは思わないし」
それはそうだけど、とロゼは言葉を濁らせる。
「ネックレスにしている指輪が見えたって気づいたとき……あの人、私に恐怖を感じてたわ」
「うーん、まあ、ロゼが怖い顔してたからな」
「え? やだ、そんな顔してた?」
うん、と正直に答えると、ロゼは頬に手を当てて恥ずかしがった。
「で、あの指輪が何なのさ?」
「あの子が山野なら、私の見間違いかもしれないわ。
実際、少ししか見えなかったから」
それをふまえて聞いてね、と前置きをしてから、ロゼは言った。
「『支配の指輪』っていう魔道具があるの。
昔、まだ魔物がたくさんいた頃、魔物を操るために作られた魔道具よ。
同じ模様が描かれた『隷属の首輪』と一対になっていて、指輪をはめた主人が、首輪を付けた魔物に命令して操ることができるの。
首輪をつけた魔物が意に沿わないことをしたら、どんな離れたところにいても瞬時に命を奪うこともできる魔法の指輪よ。
ただ、もう魔物はいないし、操るには多量の魔力が必要だから高位の魔術師でないと使えないのもあって、けっこう珍しいものなの」
そんなものを持った人が、サレナタリアにいるとも思えないし、やっぱり見間違いかもね、とロゼがため息交じりに呟く。
瑛人は頭をひねって思い返してみたが、キャロルが杖を持っているそぶりなど話の中にも出てこなかった。
カツアゲに遭ったときも、おろおろしながら見ていただけだった。
逆に、杖持ちになりたかったとまで言っていたのだ。
そりゃあ、なりたいに決まっている。
職業紹介所でも痛感したが、山野とは仕事の幅が段違いらしい。
瑛人だってなれるものならなってみたい。
「なあ、魔術師の杖ってどこで買えるの? 俺も杖持ちになってみたいんだけど」
何の気なしに尋ねた言葉に、ロゼの目がまん丸に見開かれた。
「……そうね、まず魔術の基礎から説明しないとね……」
ロゼは鞄の中から小さな石版とチョークを取り出し、さらさらと書いた。
瑛人はロゼの手元をのぞき込む。
案の定意味の分からない線の羅列が書き込まれていた。
「ごめん分からない! さっきも言ったけど、俺落書きの文字も読めなかったんだ」
「あら、そうだったわね。共通語を話せるから文字も読めると思っちゃって」
じゃあ、文字も覚えないとね、とあっさり言われた後、ロゼは石版をなぞりながらゆっくりと文字を読んだ。
「魔力=体内魔力×魔力出力×呪力。
これが魔力換算の基本公式。
全ての魔術の基本なの。
元々体内で日々溜まっていく体内魔力。
そして、その魔力を外界に放出する力が魔力出力、杖の力よ。
呪力は力ある言葉や、術式の正しい構築のこと。
ただ、山野の魔術はこの公式によらないものが多いのよね。
この他に時間の概念や呪力増幅の概念が出てくるけど……まあ、今は置いておきましょ。
全ての力が強くなればなるほど魔力が大きくなるわ。
ここまでわかる?」
「うん……ごめん、わからない」
そもそも、この世界に来る前から数学は苦手だった瑛人には、数式で説明されるところからすでにハードだ。
それが未だによく分かっていない魔術という代物ならなおさらだ。
ロゼはうまく説明しようとうんうん唸っていたが、やがてまとまったらしい。
チョークの粉を手で払い、今度は絵を書き始めた。
台の上にタライが置かれ、そのタライには筒が刺さっている。
筒のもう一方の先には板の蓋がついていて、そこから水が流れ出している。
「この公式は、水の入った桶とパイプと蓋に例えられるわ。
体内魔力が水の入った桶よ。
桶がいくら大きくても、魔力出力のパイプがなければ大きな魔術は使えないの。
パイプが細かったり、詰まっていてもダメ。
それに、呪文や術式が出口の蓋、蓋を開けないと、水はきちんと流れないわ。
つまり、全てはかけ算なの。杖持ちになれば、出力が増大する。
それこそ杖の一振りで水を出したり、炎を出したりできるようになるわ。
そういう大きな力は、悪用されないように管理されているの。
だから、魔法の杖はお店では売ってないわ」
「じゃあ、どうやって杖持ちになるのさ?」
そして、瑛人は最初の質問へと戻ってきた。
「もう、わっかんねえ! どこからどこまでが一文字なんだ!」
夜、瑛人は泣きそうになりながら、夕食を食べ終えたテーブルで辞書を片手に悪戦苦闘していた。
ただでさえ街から帰ってきて疲れているのに、ミミズのような線だけの文字を延々と書き写すのは苦痛以外の何物でもない。
文字が読めない。
それは初日に気づいていたことだ。
今まで鍋の攪拌や収穫作業がメインだったこともあり、そこまで不便だとは感じていなかった。
だが、街の落書きが読めなかったとうっかり話したことから、兄妹による特訓が始まってしまった。
……確かに薬屋のバイトが薬のラベルをろくに読めない、という事態は問題だと瑛人も思う。
しかし、なまじ言葉が通じるだけに、慣れない文字を書くことは難しい。
「どうして文字だけ俺の脳みそに上書きしてくれなかったんだ、召喚主!」
「意思疎通は音声のみで十分と判断したんだろ」
台所の窓辺に薬瓶を並べながらセトが言う。
「俺の苦労を考えてくれ! なんだよこの文字わけわかんねえよ……」
「共通文字はまだましよ。
二十六文字しかないし、発音も固定されてるから。
神聖ヴィエタ文字はもっと複雑よ。
文字が何百通りもあって発音も区別がつかないから、未だに解読中なの」
神聖ヴィエタ文字は正式な魔術文書で使われるから、杖持ちになるならそれも学ばなきゃいけないんだけどね、とロゼに言われて、瑛人は思わず気が遠くなった。
共通文字を覚えたところで、まだ富士山の二合目と言われた気分だ。
瑛人が必死に書いた文字を見て、インコがキャキャッと笑った。
「おーい、エイト。自分の名前すら間違ってんじゃねえか。
エイタになってるぞこれ」
「あー、一本棒抜けてた!」
「これじゃあ杖持ちなんて夢の夢だな! キャハハハ!」
杖持ち。
サレナタリアからの帰り道、瑛人は杖の買い方を質問したが、現実はまたもや瑛人の想像よりシビアだった。
杖は、買うものでなく、授かるものらしい。
もっとも杖とは自身の魔力でできた精神体なので、『杖を授かる』と言うより、『杖を自在に具体化する権利』を授かるといった方が正しい。
杖を持つと、魔力出力が大幅に増大し、魔力を短時間で大量に放出できるようになる。
それが炎や水を出し、風を操り土を掘るといったことができるようになる魔法の杖の仕組みだ。
そんな危険な力を扱うには、それなりの資格が必要なのだ。
この世界には、国際魔術師連盟という組織がある。
まずはその組織が作った杖授試験を受け、合格しなければならない。
年齢は十八歳以上に限られる。
この時点で瑛人が今すぐ杖持ちになることは不可能だ。
合格すると、連盟の中でも高位の賢者と呼ばれる者だけが知る魔術により、杖の権利を授けられる。
それで初めて、杖が使えるようになるのだ。
魔術師連盟の支部には、杖持ちになりたい人のための学校、魔術修練所も併設されている。
そこに入るのにも入学テストが必要だとか。
もちろん、ペーパーテストだ。
もっとも、杖を授けられても、安心は出来ない。
魔術師連盟から離反したり、反社会的行動をとると直ちに杖の権利の剥奪命令が出され、拒む者は犯罪者として裁かれる。
つまり、魔術師連盟に所属していないと杖持ち (ロダー)とは認められない。
ちなみに、魔術店に帰って、夕食中に改めて杖持ち (ロダー)になりたいと言ったら、インコに爆笑された。
そのときはムキになって今に見てろと言い返したが、共通文字を学ぶ段階ですでに心が折れかけている。
瑛人は口をとがらせて呟いた。
「あー、杖持ち (ロダー)になるのも楽じゃないんだな
……てか、今から勉強を始めても、杖をもらうまでに二年もかかるのか。待ってられないよ」
瓶を並べ終わったセトが、呆れたように言った。
「何言ってる。それは最短での話だろ」
「キャハハハ! 杖授試験、十回受けてやっと通った奴もいるって話だぜ?」
「やめろもうこれ以上俺の心をへし折るな!」
瑛人は耳を塞いで叫び、その言葉は聞かなかったことにした。