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第12話 追突事故

 たらふく飲んだ水を吐き、のたうちながら筏の上で思いきりむせているところでやっと意識が戻ってきた。

 全身が泥のように重い。

 やはり逃げ切れず、溺れかけたところを筏へと連れ戻されたらしい。


「縛られたまま水に落ちて逃げられるとでも思っていたのか?

 自分の思い通りにものごとが進まないからといって自暴自棄になるな。

 おかげで私もずぶ濡れだ」


 うんざりといった調子で黒マントを脱ぎ捨てた死に神が隣で説教をしている。

 骸骨の面も取り去っていて、初老ながら整った顔の男がこちらを睨み付けていた。

 しかし、ふと微笑みを湛えて相変わらずむせているセトの両肩を掴んで持ち上げると、無理矢理筏の上に座らせた。


「君は分かっていない。

 この作戦における君の役目は重要なんだ。

 もちろん、本物の王女であればそれにこしたことはない。

 しかし今ナタリア領にいるかどうかも定かではないし、厄介な番犬もついている。

 十年も王女を連れ回した上、カサンでのうのうと暮らしている魔術師の化け物だ。

 奴がいる限り、王女に近づくのは危険だ」


 私がその番犬ですと、自己紹介したかったがやめておいた。

 何よりまだ咳が治まらない。

 死に神はこちらの都合などお構いなしに、自分に酔ったような説教を続けている。


「だからこそ君の出番なのだ。

 君は試験に合格した、選ばれた存在なのだよ。

 最後の試験、それがあの仮面舞踏会だ。

 王女のことが書かれている手紙を手に入れることは、本当の目的ではない。

 目的は、君が貴族の舞踏会で王女に相応しいふるまいができるかどうかを確認することだった。

 君は立派にティルキアンステップを踊りきり、領主でさえも怪しまなかった。

 あのときはっきりと分かった。

 我らが王女として相応しいのは君だとね。

 知ってのとおり、君のご両親は王政復古を夢見てティルキア王党派地下抵抗軍ロイヤルレジスタンスに入会し、働いた結果命を落とされた。

 君が自身に課された使命を全うしたとき、天国のご両親もさぞお喜びになることだろう」


 なるほど、そうきたかとセトは一人納得した。

 両親の悲願。

 その言葉だけでノーラなら心が動いたかもしれない。

 死に神の仮面の男は、人を説得するすべを心得ている。

 心のこもっているような話し方や、人それぞれに応じたそつのない対応を取ることで、今まで自分の要求を通してきたのだろう。

 現に、今やさらわれたリリスまでが『お菓子のおじさん』と慕っているのだ。


 しかし彼の話には、何か釈然としない部分もあった。

 というよりも、最初からセトが薄々感じていた違和感が、いつの間にか大きくなっていったというほうが正しい。


 死に神はセトのことをノーラだとずっと勘違いしている。

 しかし、ラインツの屋敷には裏切り者がいるはずだ。

 水と称して睡眠薬を持ってきたあの給仕もそうだろう。

 だが、そう考えるとおかしい。

 領主が女を連れ込んだ挙げ句にそれがスパイだったという不名誉な事件は、あの館で既に知れ渡っていた。

 そんな中、緊急の通行証まで手に入れられるような立場の人間が、セトの女装計画を知らないということがあり得るのだろうか。

 知っていれば、死に神へ注意するに違いない。

 ——気をつけろ、あの女は偽物だ、と。


「もういいだろう、馬車へ戻りたまえ」


 と、セトの思考は死に神に中断された。

 さっと抱え上げられて、馬車の床にまた転がされる。

 ばたん、と乱暴に扉が閉じられ、がちゃりと外から鍵がかけられる音がした。


「……お姉ちゃん? どうしたの?」


 扉の音でリリスが起きたのか、ぼうっとした瞳でこちらを見ていた。


「びしょ濡れだし、その髪……リリスと同じ色になってるよ?」

「まあ、いろいろあってこうなったけれど。大丈夫、もう安心だから」


 不安そうなリリスに、セトは力強い声で応えた。

 死に神は河へ飛び込んだことを自暴自棄だと非難した。

 しかし、こちらには別の考えがある。

 賭けは大勝に終わった。

 あまりにうまく行きすぎて笑いが出るほどだ。


「お姉ちゃん、なにを笑っているの?」


 リリスがきょとんとして尋ねてきたので、セトは笑いをかみ殺しながら言った。


「……酒が抜けたんだ」






 瑛人の頬を掠めて、ピーマンらしき物体がひゅっと飛んでいった。

 もはや菜物は全部飛ばされていて、船底には重いカボチャだけがごろごろと転がっている。

 爺さんが悲壮な顔をしながら髭をなびかせてこちらを振り向いた。


「本当に領主様が補償してくださるんでしょうな!」

「ああ、いいから急ごう!」


 瑛人は船のともで手を水に浸しながら、また呪文を唱えた。

 どんっと大きな音がして、小舟はそれこそ弾丸のように前へ進む。

 水石銃を水中で連続撃ちしてみたらエンジンの代わりになるんじゃないか、と思ったら大正解だ。

 ……積み荷の野菜はもう諦めるとして、この小舟が追いつくまで壊れないでくれたらいいのだが。

 水石銃も弾は無限ではない。中の魔石が段々小さくなっていき、消えれば終わりだ。

 あと何発撃てるだろうか。

 

 しかも、これだけ一生懸命急いでもスパイが河を使ったかどうかは不明だ。

 裏の裏をかいてどこかで街道に戻ったという可能性もある。

 ロッドにもう一度くらい魔気でセトを追ってほしいと思い、彼は膝で床に押さえつけている帽子に呼びかけた。


「ロッド、生きてるか?」


 しかし返事はなかった。魔女帽はまるで空のようにしんとしている。


「大丈夫か、ロッド?」


 魔力が足りずにとうとう消えてしまったのだろうか。


「おい、しっかりしろよ!」


 帽子を上から押さえると、べしゃっと平らに潰れた。

 瑛人の頭が真っ白になった。

 これからだというときに、ロッドが本当に消えてしまった。


「帽子がどうしたんじゃ?」


 船首で見張っていた老人が、首を捻って聞いてくる。

 どう答えようかと考えながらも、瑛人は片手で水につけた銃の引き金を引いた。


 風がびゅんびゅんと耳の側を走り抜けたそのとき、舳先からものすごい振動が伝わった。

 男の悲鳴と馬のいななき。

 瑛人達は野菜と一緒にふわっと浮き上がるような感覚を味わった後、船底に叩きつけられた。


「追突じゃ!」


 老人が呻くように叫んだ。

 そのとおり、河を行く筏に乗り上げたらしかった。

 周りが暗く、船もスピードを出していたので追突するまで気付かなかったのだ。

 せめて筏に明かりでもついていればよかったのだが、瑛人の背丈よりも高い黒い箱のような荷物がでんと中央にあるきりで他はランプも何もついていない。


「無灯火は駄目だろ!」


 そう叫んで瑛人は船からずるずると降りた。

 老人もあちこち打ったものの怪我はしていないようで、うんうんと唸りながら這い出している。

 瑛人のすぐそばでうめき声があがった。

 ふと下を見て、彼はいまだかつてない焦りを覚えた。

 一人の見知らぬ男が瑛人達の船の下敷きになっている。

 まずい、本当にまずい。

 汗がだらだら出てきた。

 船で人身事故を起こしてしまった場合、どこに連絡すればいいのだろう。

 119? 118? いや待て、この世界に電話なんてなかった。


「誰だ、お前は!」


 突然、目の前の黒い荷物の影から男が現れた。

 筏の前から回ってきたのだろう。


「ごめん! 追突しちゃって……」


 言い訳を続けようとしたが、黒服の男は瑛人の話も聞かずにいきなり腰から短剣を抜いた。

 ぎょっとして瑛人は両手を上げて後ろに一歩下がった。


「待ってくれ、今そこに怪我人がいるんだ。そっちのが先だろ?」

「お前……領主の追っ手か!」


 短剣のきっさきをこちらに向けて黒服が叫び、こちらへ突き進んでくる。

 刺される。

 恐怖で目を見開いたまま、瑛人は固まった。


 そのとき、黒い箱についた扉がばんと音を立てて開いた。

 ランプの明かりが筏の上をさっと横切る。

 ごつっと重い音がして、短剣を持っていた男が筏の上に転がった。

 金色の杖が男の頭の上で揺れている。


「ヤッホー、エイト! 俺、七面鳥から卒業できたぜ!」


 杖の先についた鳥の飾りが陽気に喋った。


「ロッド! よかった、無事だった……」


 そのまま目線を上に上げ、瑛人は驚きで口を開けた。


「……あんまりじろじろ見るな」


 杖の使い手は、真っ赤な長い髪をなびかせ、ぐしゃぐしゃの青いドレスを引きずって不機嫌そうに言った。顔の造詣こそセトに似ているのだが、それ以外はまるでロゼだ。


「セトなのか? なにがどうなってそんなことに?」

「馬車に乗せられているうちにいろいろあったんだ」


 瑛人は周りを改めて見回した。

 そして筏に乗せられたどでかい黒い箱が馬車だということにやっと気付いた。

 そう言われれば月明かりで車輪もうっすら見える。

 セトがさっと目を走らせ、杖を構えた。


「敵は二人いたはずだ。もう一人はどこだ?」

「実は……さっき船ではねちゃって」


 船でぶつかってしまった人を指さすと、セトがため息をついた。


「どうやったら船で人をはねられるんだ。

 お前のすることは相変わらずよく分からん。

 あと、そのじいさんは誰だ?」

「船を貸してくれた人だよ」


 瑛人があまりの事態に口をぽかんとあけて座っている老人を紹介した。


「なるほど、感謝する」

「……こちらこそ領主様のお役に立てるのなら……しかし、野菜の代金はいただきませんと」


 後で領主の館に出頭してくれれば払わせよう、とセトが約束すると、老人にはようやっと笑顔が戻ってきた。

 しかし売る野菜がほとんどなくなったからもう帰りたいと言うので、瑛人は小舟を筏から降ろすのを手伝った。

 小舟は案外丈夫にできていて、派手に乗り上げたわりに水漏れも起こしていなかった。

 老人はぐったりと疲れ切ったような顔をして船に乗り込むと、手を振って闇に消えていった。

 歳はしらないが、今夜だけで十歳は老けたにちがいないと思いながら、瑛人も手を振って見送った。


 船が見えなくなったあと、セトが呪文をぼそぼそと唱えた。

 杖がさっと光の粒子になり、次の瞬間インコになってセトの肩にとまる。

 ふさふさと羽毛が生えそろっている姿で、ロッドが自分の翼を広げ、首を180度以上回して全身を眺めた挙げ句、ほうっとため息をついた。


「ハゲたまんまじゃなくてよかったぜ!」

「何があったのか知らないがよかったな」

「いや、セトを追ってたんだよ! 実はさあ……」


 瑛人はこれまでの説明しながら、セトが持っていた縄でてきぱきと敵の手を縛るのを見ていた。

 セトは縛り終えたスパイ達を馬車に放り込むと、腕に大荷物を抱えて出てきた。

 十歳くらいの同じような赤毛の女の子だ。

 眠いのか、むにゃむにゃと何か呟いて目を閉じてしまった。


「この子、もしかしてあの女スパイの妹?」

「どうもそのようだ」


 その子供を丸太の床に下ろすと、彼はバタンと馬車の扉を閉めた。


「よし、これでやっと重要なことに取りくめる」

「え? これより重要なことがあるのか?」


 瑛人は驚いた。

 誘拐事件以上に重要なことが何かあっただろうか。

 と、セトが瑛人に背を向けてすとんと腰を下ろした。


「コルセットを緩めるから手伝え」

「それ? 重要なことってそれ?」

「うるさい、私にとってはかなりの問題なんだ。

 黙って背中の紐をほどけ!」


 背中のリボンをほどき、下着の紐を緩めるという作業を手伝いながら、瑛人は遠い目になった。

 コルセットを緩めてほしいと言われて手伝った、とビル達修練所仲間に言えば、たちまち羨望の的になるに違いない。

 仲間内では勇者として扱われることだろう。

 しかし相手の中身が男であることは言わないでおこうと、瑛人は胸に誓った。

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