第5話 警備とは突破されるためにある
星明かりの中を、瑛人はゆっくりと黒い鉄格子の裏門に近づいていった。
肩には黒髪の女がしなだれかかり、一見仲むつまじいカップルのようだ。
熱い腕が肩にまわされて、香水の良い匂いが漂ってくる。
本来なら瑛人だって悪い気はしなかっただろう。
しかし彼の脇腹には、女の長い黒髪に隠れるようにして刃物が突きつけられていた。
裏門には、きちんと兵が配備され、二人一組で警備している。
彼らのシルエットも見えてきた。
頼む、助けてくれ。
そう叫び出したかったが、兵が来る前に瑛人が刺されるだろう。
瑛人はことさらにゆっくり歩いた。
誰かが声をかけて、止めてくれないだろうか。
それでなくても、注意を逸らしてくれないだろうか。
しかし、願いは叶わず瑛人達は無事に裏門まで到着してしまった。
だが、さすがに門のそばにいた警備兵の一人がよってきた。
ぴんとはねた髭を引っ張りながら尋ねる。
「まて、どうして裏門から出ようとする?
それにお前、その制服は給仕だろう?
何をしているんだ」
「……えーと」
瑛人が言いよどんだ瞬間、脇腹にちくりとした痛みを感じた。
まずい。なにか言わねば刺される。
「この女の人が、急に具合が悪くなったみたいでさ。
家に帰れば薬があるらしいんだ。
だから辻馬車でも呼んであげようと……」
「嘘くさいな」
警備兵が吐き捨てた。
それはそうだろう、言った本人も苦し紛れだ。
瑛人は心の中で小躍りしつつも、刺されるのが先か、それとも警備兵がこの女の人の怪しさに気付くのが先か不安に苛まれる。
「おい、給仕。お前、見ない顔だが名前は何という?」
明らかに不審そうな顔をしながら、髭の警備兵がもっと近くに寄ってきた。
よし。これでナイフを突きつけられているということが分かってくれさえすれば……
「おー、エイトじゃあないか。バルスクでは世話になったなあ」
そのときもう一人の警備兵が、呑気に話しかけてきた。
ぎょっとしてエイトはそちらを向いた。
知らない兵だが、瑛人がバルスクで悪目立ちしたのは確かだ。
髭の警備兵も振り向いて驚いたように尋ねる。
「ウィル、こいつを知っているのか?」
「ああ。そうか、お前はバルスクのとき留守番だったな。
知らないのも無理はない」
その太った兵士はにやっと笑って瑛人を指さした。
「エイトはバルスク攻防戦の英雄みたいなもんだ。
王女様を救うため、たった一人で城に乗り込み、魔術師たちの飲み水にワイン樽を仕込んできたんだぜ?
ここの警備兵の間じゃ近年まれな豪傑って有名だよ。
エイトに限って、まさか不審者じゃねえ。
どうせ領主さまに給仕の仕事をしつつ、警備をしてほしいと頼まれたんだろう?」
瑛人は頷くしかなかった。ちょっと尾ひれはついているが、ほぼほぼ事実だ。
他のときだったなら、ここまで言われてうれしくないはずはないだろう。
しかし今はタイミングが悪いとしか言いようがない。
確認しようと近づいてきていた髭の兵士も、もはや瑛人を称賛の眼差しで見つめてしまっている。
「そうか、疑って悪かった。
そのご婦人を早く家へ送り返してやってくれ」
……だからそのご婦人が問題なのだ、とは言えなかった。
瑛人は相変わらず脇腹に冷たいものを感じながら、ゆっくりと裏門を通り過ぎた。
自分の功績のせいで、鉄壁の警備を突破してしまったというこの状況がやるせなさすぎる。
石畳の道を一歩一歩進む。
後ろから警備兵が追いかけてくることを期待したが、そんな気配は全くなかった。
領主の家の角を曲がって、完全に見えなくなったとき、やっと女の腕がゆるまり、脇腹からナイフが外れた。
瑛人は女の人の胴を突き飛ばすようにして離れ、道の両端でにらみ合うように相対する。
「もういいわ。行きなさい」
女がぜえぜえと息を吐きながらも、強い語調で言った。
ふと、瑛人は違和感を覚えた。
ナイフを持っている女は、最初から息が荒いし体も熱かった。
最初は瑛人を人質にとっているという不安からだと思ったが、それにしても肩で息をしているくらい苦しそうだ。
さっき押しのけた手が妙に冷たいので、瑛人は女に気を配りながらも注意して自分の手を眺めた。
窓からの薄明かりだったが、とんでもないものが見えた。
べっとりと、血がついている。
瑛人は思わず叫んだ。
「あんた、怪我してるじゃないか!」
そのとたん、まるで操り人形の糸が切れたように女がばたんと倒れた。
今まで張り詰めていた気が緩んだせいか、気絶してしまったようだ。
彼は路上で途方に暮れて女の人を見つめた。
この女の人をどうすればいいのだろうか。
彼にナイフを突きつけるような冷徹なスパイだが、この怪我では確実に死んでしまうだろう。
と、この通りを昨日の昼に通ったことを思い出した。
ここはロゼのいる診療所の近くだ。
瑛人は意を決して、もはや意識もない女の腕を肩にまわし、担ぎ上げた。
こぢんまりした診療所の呼び鈴を鳴らしても、誰も出ない。
瑛人は苛ついて嫌がらせのように何度も押した。
五回目くらいで、白髪で山羊鬚の医者が寝ぼけ眼で出てきた。
「すまんのう、昨日からワシら寝ていなくてな。
ちょっと仮眠しとったんじゃ」
その後ろで、ギャーギャーと赤ん坊の泣きわめく声が聞こえる。
まるで輪唱のように、一人泣き出すと次々と伝染するように泣いている。
よくこんな状況で眠れるものだ。
医者は言い訳をするように言った。
「いやはや、苦しいお産だと思っておったんじゃが、まさかの三つ子でなあ。
昨日の昼に運び込まれてからついさっきまでかかったわい。
母子ともに健康なのはいいが、今度はワシが疲れすぎて病気になりそうじゃ。
ロゼちゃんには悪かったが、ワシと産婆さんだけでは面倒が見切れんので助かったよ。
で、その女の人はどうしたね? 飲み過ぎかい?」
呑気そうに医者が尋ねる。
しかし、その後からランプを持って出てきたロゼが、真剣な表情で叫んだ後、状況は一変した。
「急いで、先生! その人、怪我してるわ!」
「なんじゃと、あんた、さっさと言わんかい!
はやく運びこむんじゃ!」
山羊鬚の医者は急にしゃんとすると、よれよれの白衣を翻し、鞄を取りに走っていった。
コルセットを発明した人間など死んでしまえばいい。
……いや、さすがにもう寿命は過ぎているか。
そう思いながら、セトは中庭のカップル達から見えない場所——東の塔の近くで座り込んでいた。
そういえば昔、コルセットが苦しいというひとに対して、下着のことを公共の場で話すなと何遍も釘を刺した気がするが、今ならその気持ちが嫌というほどわかる。
よくもまあこんな拷問用具を考えつけたものだ。
胸から下が押さえつけられ、苦しくて息ができない。
そのとき、銀の盆が差し出された。
はっとして見上げると、館の給仕が笑顔で盆の上のコップを取り、手渡してくる。
「ラインツさまから、水を差し上げるようにと」
ラインツにしては気が利いている。
今、二番目に必要なものだ。
一番必要なものは肺に一杯の新鮮な空気なのだが、それはこの拷問用具を取るまでお預けだ。
「ありがとう、助かる」
そう言って、セトはコップの中身を一気に飲み干した。
体内に染み渡る、冷たい水。
まるで氷のように、手の先が冷えていく。
セトははっとして立ち上がり、給仕から距離を取った。
低く呪文を唱えるが、呼応して杖が出ない。
踊りが終わって、油断した。
どうやらこの給仕に一服盛られたようだ。
「お前、何者……」
そこまで言って、セトの目の前がぐらりと揺れた。
朦朧とした意識の中で、大地に倒れて満天の星を見上げている。
老人の深い声が聞こえた。
「首尾は?」
「上々です」
給仕がそう答える。
霞んだ視界から給仕が消え、かわりに死に神が映り込んだ。
先ほど踊って密書を渡した人物だ。
「おまえこそ、私が探し求めていたものだ」
その言葉を聞きながら、セトは眠りのなかに入っていった。




