第2話 魔女の妙薬
窓が全て板で塞がれた薄暗い客間に、水煙草の甘ったるい香りが漂う。
これ見よがしに壁に飾られた動物の頭骨や植物の標本。
青い天蓋がほのかなランプの光に映えて、一層怪しい雰囲気を醸し出している。
天井からぶら下げられた黄金の鳥かごの中には、碧色の蛇がしゅるしゅると這っている。
イザベラは、これらを『演出』という。
お貴族様達は温室育ちだから、こういうデカダンで背徳的な雰囲気さえ出しておけば、すぐにこちらを信用して下さるものよ、とある種小馬鹿にしたように語っていた。
しかし、そんな怪しげな雰囲気は、今、本人によって盛大に壊されていた。
「森の魔女」は自身の客間で、ソファに座って涙が出るほどに笑い転げている。
相変わらず攻撃的としかいいようのない、トゲトゲした変な服を着ているが、彼女自身の姿は笑いの対象に入っていないらしい。
セトはむっとしながら彼女の笑いが収まるのを向かいのカウチで待っていた。
「笑いごとじゃない。こっちは真剣なんだ」
「あはははは!!
だって、そんな……顔を真っ青にしてただ事じゃない様子でやってきたから、何が起きたかと思ったら、『女装するから手伝って』って!
ふふふふ、ちょっと待って、息が苦しくなってきたわ!」
「原因は話しただろ。元はと言えばラインツのせいだ」
「そうだけど……! それにしても面白すぎるわよ、なんて顔してるの!」
自分で自分の顔は見えないが、相当引きつっているようだ。
それはそうだろう。
まんまとラインツに乗せられた、ということが分かっているからだ。
ラインツの言うことは正しいが、彼の全てがことごとく気に入らない。
あの後、エイトに聞いたところによると、彼もボーイのふりをして舞踏会で警備するということに決まったらしい。
他人の手伝い人に無断で仕事を頼んでいくあたり、そしてエイトが絶対に断れないと分かっていてそうするあたり、ラインツはそのちゃっかりとした性格を遺憾なく発揮していったようだ。
とりあえず、エイトは明日サレナタリアへと逆戻りだ。
セトは明日の夜まで店を閉めることにし、舞踏会の準備を手伝ってもらうためイザベラの家へやってきた。
女のことは女に聞くのが一番だと思ったからだ。
それに、こんな馬鹿げたことを相談できるのは、悲しいかなイザベラしかいなかった。
イザベラがまだ笑いを残しながら、テーブルに置かれたハーブティーを一気飲みした。
「駄目、ラベンダーティーでも落ち着くにはもう少しかかりそう……ふふふふふ。
で、ロゼはどうやって騙したの?」
「人聞きの悪い」
セトは口をゆがめたが、イザベラは構わずに追撃してきた。
「でも騙すんでしょう?」
「……手紙を書いた。
領主から頼まれた急用で、数日家を空けるって」
「協定でカミノ村から出ては行けないんじゃなかったの?
あの子、鋭いから手紙でも感づくかもよ?」
「首輪の件は大丈夫。
形式的には領主命令でサレナタリアに出頭するという形になっている。
書いてきたことは全部事実だ。騙してなんかいない、隠してるだけだ」
セトは目線を外しながらハーブティーに口をつけた。
事が終わるまで、ロゼと顔を会わせる勇気はない。
ロゼは体質的に、人の感情が分かるという能力持ちだ。
どれだけしらを切ったところで、感情のどこかに綻びを見つけて真実を探り当ててしまうだろう。
……特に、今回はティルキアがらみだ。
あの子に気付かれることだけは避けたかった。
彼は苛々としながら用件を喋った。
「イザベラ、これは仕事なんだ。
正直悪夢だが私だって仕事と割り切ることにした。
金は払うから真剣にやってくれ。
頼みたいのはカツラと化粧。
あと、服だな。お前の着てる変なのじゃなく、流行の青いドレスをラインツはご所望だそうだ」
笑い疲れてソファにぐったりとしていたイザベラの背筋が、急に伸ばされた。
「失礼ね! 変なのじゃないわよ!
これは王都の新進気鋭のデザイナー、エギーユの春の新作なのよ!
わざわざ取り寄せたんだから」
心底どうでもいい情報だ、とうんざりした瞬間、セトは思わぬ反撃をくらった。
イザベラが、長い緑の髪をかき上げて、厳しい調子で尋ねてきたのだ。
「それにね、セト、あなたこそ真剣に考えているの?」
「いままで笑ってた人に言われたくないな」
「あらまあ、覚悟はよくって? 私、今から真剣に言うわよ?」
なぜか気圧され、セトは不機嫌だったことも忘れてカップを置いた。
イザベラがテーブルの隅に置かれたエキゾチックな水煙草をすうっと吸い上げ、煙を吐くと同時に話しだした。
「あなた、カツラと化粧とドレスだけで女の子になりきれるとでも?
まあ、それっぽい形にはなれるかもしれないわよ。
でもね、考えてもみなさいよ。
そもそもの骨格は? そのぼそぼそした声は? その脂肪が全然ついてない腕は?
なにより、今の流行のドレスは胸のカットが深いのよ。
谷間を見せていないと恥ずかしくて舞踏会なんて行けないわ。
いい? さっき聞いた話からすると、相手にするのは百戦錬磨の国際スパイ。
末端に情報を与えないなんて、相当大規模な組織が動いている可能性が高いわ。
付け焼き刃な女装で、簡単に欺せる相手だと思っているの?」
沈黙が煙と共に辺りを包んだ。
酷い。なんて正論だ。正論過ぎて返す言葉もない。
しばらく考えて、セトは呟いた。
「なあ、一つ聞きたいんだが」
「何?」
「どうして、私はいつも理不尽に怒られる羽目になるんだろう」
真剣な表情を崩して、イザベラはまた吹き出した。
「怒ってはいないわよ。
ただ、私を頼ったことだけは褒めてあげてもいいわ。
この件に関して、私ほどの適任者はいないわよ」
これはまたずいぶんな自惚れだ。
言い返せないでいる間に、イザベラがつと立ち上がり、ごそごそと隅の棚をあさり始めた。
そして、にこっと笑って手のひらに収まる大きさの白い小瓶を持ち上げる。
「ふふふふふ。これを飲みなさい。
私は完璧主義者なの。あなたを完璧に女になりきらせてあげるわ」
手渡された小瓶には、神聖ヴィエタ語でこう書かれていた。
『アリサエマ・トリフィルム【無毒♥】』
……なんという胡散臭さだ。最後の【無毒♥】が胡散臭さを倍増させている。
セトがコルクの蓋を開けかねているのを見て、彼女はソファに座り直して説明しだした。
「さる大富豪からの依頼で作ったの。
その人、まあいい男だったんだけど、自分の性別に昔からずっと違和感があったんですって。
本当は女だったのに、どうして男なんだろうっていつも思っていたらしいの。
だから有り余るお金を使って、女になりきろうとした。
その一環で私が呼ばれて、これを作ったのよ」
もちろん、ものすごく感謝されたわ、と森の魔女はその鋭角三角形が突き出た凶悪なデザインの胸を反らせた。
セトは渋々コルクを抜いた。酸っぱい悪臭が立ち上り、顔をしかめる。
「これ、本当に毒じゃないよな? ひどい臭いだ」
「私を誰だと思っているの?
ヴィエタ帝国に最後まで反抗して、秘術を守り続けたエメラルドの民の末裔、『森の魔女』よ?」
そう、彼女は『森の魔女』だ。
薬草学の大家にして、あこぎな商売で有名な。
その事実を忘れそうになっていた彼は、慌てて聞いた。
「で、この薬は、いくらなんだ?」
「タダよ?」
予想だにしない答えに、彼は目を見開いた。イザベラは妖艶な微笑みを浮かべたままだ。
「熱でもあるのか?」
「やあねえ、いつもお世話になってるからサービスよ。さあ、飲んで!」
そこまで言われてしまっては、もう逃げ場はなかった。
セトはごくりと唾を飲み込んでから、小瓶の中身を一気にあおった。




