第4話 サーガ熱の治療法
瑛人は、寝ぼけた頭を起こすべく、頬を叩いて気合いを入れた。
ここは一階の水場、要は風呂と洗面所が一緒になったような、排水溝がついた煉瓦張りの部屋だ。
目の前のテーブルには小さな桶がおいてあり、そこに水を入れて顔を洗う。
水を入れる、これが毎朝の緊張の種なのだ。
テーブルの一角にある小瓶から、慎重にガラス玉を取り出す。
吸い込まれるような青色をしたその小さな玉を左手に持ち替え、右手をポケットにつっこんでくしゃくしゃの紙を広げた。
心を落ち着けるように深く息を吸い、そこに書いたカタカナの羅列をゆっくり読み上げる。
「ナクア・アクア・レニ・メタルナ……」
意味は分からない。だが、瑛人はロゼに教えてもらった呪文を、カンペ通りに唱える。
今日こそはやってみせる。
失敗してインコに笑われるのにはうんざりだ。
そういえば呪文をメモしたときも笑われた。
向こうには珍妙に見えるらしいカタカナはもちろん、そもそもこの程度の呪文はそらで唱えるものでメモするのは邪道なんだとか。
「アルアリメ・セラム!」
最後の言葉を唱え終わったとたん、青いガラス玉が手の中でぐらっと揺れ、小さな光が奥に灯った。
ぎゅっと握って、ガラス玉を桶に落とすと、桶の底に転がったガラス玉から音を立てて水がわき出した。
成功だ。
昨日は、水を出せたものの桶の底が濡れるぐらいにしかならなかった。
ロッドに「魔力の有る無しに関わらず誰でも使えることが売りの魔石でこれはねえよ」と笑われたのだが、今度は何とかなりそうだ。
瑛人はほっとしながら桶の底で水を出しながら転がるガラス玉を見つめた。
これは、水の『魔石』だ。
どういう理屈なのか想像もつかないが、このビー玉は呪文を唱えると水に変わるのだ。
この店では、薪や井戸のかわりに、火に掛けていないのに沸騰する鍋も、普段の料理や風呂に使う水も、全てその『魔石』と呼ばれる宝石を使っている。
呪文一つで火の魔石からは炎が吹き出し、水の魔石からは渾々と水があふれ出る。
火の魔石は呪文のバリエーションで保温から弱火強火まで選択できるらしく、料理や薬草作りには欠かせない。
水の魔石は手洗いや風呂の必需品だ。
言い換えれば、魔石を使いこなせなければ日常生活に支障が出てしまうのだ。
ここまで考えて、ふと桶の端に目を移したとき、瑛人はぎょっとして叫んだ。
「溢れてる!」
桶の縁から水がこぼれ落ちていた。今のは桶一杯分の水を出す呪文のはずだ。
何が悪かったのか、制御が効かなくなっている。
慌てて、桶の底で際限なく水を吐き出している魔石を取り出そうとつい手を突っ込んだ。
その瞬間、手をはじき返すように水が勢いよく吹き上った。
噴水のように天井まで高く上がった水は、その直後全身に降り注ぐ。
「どうしたの、エイト? すごい音がしてるけど!」
ロゼが台所から叫ぶ声を聞きながら、瑛人は吹き上げる水と格闘し、魔石をつかみ上げた。
引き上げると、魔石は光るのを止め、水を吐き出さなくなった。
やっと制御が効いたらしい。
少し小さくなった魔石を小瓶に放り込み、一息ついたところで、ドアが勢いよく引き開けられた。
ロッドを肩にのせたセトが、表情のない目で瑛人を見た。
そして天井から滴る滴に目を移して尋ねる。
「何をどうしたらこうなるんだ」
「……朝シャンしてみようと思って」
「キャーハハハ! 裸族は服を着て風呂に入るのか、逆に!」
ロッドが目に涙をためて爆笑している。
確かに服はびしょびしょで説得力に欠ける言い訳だった。
セトにタオルを投げ渡され、扉を閉めざまに言われた。
「火の魔石はまだ当分触るなよ。この調子じゃ家諸共消し炭になる」
瑛人が桶に一杯の水をまともに出せるようになったのは、それから二日後のことになる。
水の魔石に苦戦し、朝の収穫を終え、店番をしつつ鍋を延々かき混ぜる。
店にはたまに村人が来て、世間話を聞きながら薬を手渡す。
そんなふうにして一週間が目まぐるしく過ぎた。
瑛人達は、夕食を終えた後、台所のテーブルの周りに座っていた。
テーブルの上に、いっぱいの薬草がそれぞれの前に三人と一匹分に山分けされている。
根と茎を持って二つにちぎり、葉っぱを取って、それぞれの容器に分けて入れる。
根と茎を持って二つにちぎり、茎の方は葉っぱを取り、容器に分ける。
根と茎を分けて、茎の方は葉っぱを取り、容器に分け……
瑛人はこっそりため息をついた。
「不毛だ……」
「どうした、バイト君。しょぼくれてんじゃねえか」
肩にずしっと鳥の指が食い込んだ。
ロッドが肩に止まったのだ。
瑛人はぼんやりと返事をした。
「なんつーか……手詰まりってやつ?」
魔術師の仕事は、確かに忙しい。
だが、期待していたものとは少し違っているようで、バイトをしているうち、その違和感がだんだん強くなってきた。
初日、神々しい夕焼けを見て昂揚していた気持ちはさっぱり消えてしまっていた。
もちろん、魔石を使うのは文字通り魔法使いになったようで楽しかった。
最初の二、三日は苦戦したが、今ではなんとか一人で桶に水を溜めて使うことはできるようになっている。
しかし、水の魔石も日常に組み込まれてしまうと新鮮味もなくなる。
それに加えて薬草の収穫と加工の作業が延々と続いているのだ。
今は収穫期らしく、ひどいときには二交代で三つの鍋を同時に煮込むという荒技もやってのけている。
今日も収穫から始まり、店番をしながら鍋回しをした後にこの分離作業。
瑛人の召喚主が迎えに来る気配もない。
要約すると、飽きたのだ。これに尽きる。
「……俺ってさ、薬草の煮込みや選別のために召喚されたわけじゃないと思うんだ。
誰にでも出来ることをしているだけじゃ、召喚主の願いなんて叶えられないし、元の世界には帰れないんじゃねーかな?」
そりゃーそうだ、とインコはひょこひょこと顔を上下させるように頷いた。
「そんなことのために召喚なんぞ使ってちゃ、職業紹介所の面子も立たねーよ。
でも、お前を召喚した理由は召喚主に聞かない限りわかんねーしな。
召喚主がどこの誰かも分からない以上、事故に気づいて探しに来るのを待つしかねえ」
「けどなあ、一週間待っても、それらしい客は一人も来ねえし。
もしかして、俺が自分で何かしでかすのを、向こうも待ってんじゃないかって思うんだ」
「何かって何だ?」
「そうだな……」
言ってみてから、瑛人は逡巡する。
そういえば、ゲームや漫画では、大抵目的をもって召喚される。
それこそ、救国の英雄といったような。
そこまで考えたとき、ふと、瑛人の頭に素晴らしい考えが浮かんできた。
「俺は勇者になるために召喚されたのかもしれない」
「勇者って、具体的にはどんなことをするのかしら?」
ロゼが不思議そうに尋ねた。
「例えば、冒険者ギルドに入って、魔物倒しにダンジョンへ潜ったり、派手な魔法をぶちかましたり、最終的に魔王を倒してお姫様と結婚する、ぐらいかな」
「……思ったより壮大ね」
「おいおいバイト君、出来るか出来ねえか考えてから言えよ」
ロゼとロッドが苦笑いしつつ、同時に感想を述べる。
「なんだよロッド!
モンスターを倒してレベルを上げていけば、俺の隠された真の力が覚醒するかもしれないじゃないか!」
「キャハハハ! 見習いてえわ、このクレイジーなポジティブ思考」
数日の間に習慣になってきつつある瑛人とロッドの口喧嘩が始まった。
驚いたことに、今まで静かに分離作業をしていたセトも口の端を緩めた。
「英雄願望か。
この世界では、そういうのをサーガ熱と呼ぶんだ。
まあ、思春期の一種の通過儀礼みたいなものだ。気にするな」
「中二病みたいに言うなよ! 俺はわりと本気なんだから!」
確かに、勇者は言い過ぎかもしれない。
だが、ここで鍋をかき混ぜているだけでは先へ進めないのも確かなのだ。
瑛人は身を乗り出してロゼに言う。
「なあ、この世界って冒険者ギルドくらいあるんだろ?
モンスター倒したらお金もらえるんだろ?」
ロゼは首をかしげて、考え込んだ。
薬草を分離する手が止まっていないのはさすがである。
「そうね。隣街まで行けば、冒険者ギルドはあるわよ。
でも、モンスターというか魔物は……二十年ぐらい前までは、大量出没していたらしいし、その頃は懸賞金もたくさん出たそうだけど。
今は狩り尽くされて、ほぼ絶滅してるのよ」
魔物って絶滅するんだ。
理屈で言えば、生まれる数以上に狩られたら絶滅するのは当然だが、魔物も野生動物と同じ扱いなのだろうか。
あまりの衝撃に瑛人は目眩がして頭を抱え込んだ。
魔王を倒して勇者になる、それが召喚された目的だと思ったが、この世界は魔物退治すら許してくれないようだ。
「魔物がいないのがそんなにショックなの?
いいことじゃない、平和で」
「いや、この世界俺が思ってたより現実的すぎてさ……」
一足飛びに英雄になれると思っていた訳ではない。
だが魔物すらいないとなると、いったい何と戦って勇者になればいいのだろうか。
「……ロゼ、次にサレナタリアに行く日はいつだ?」
唐突に、セトがロゼに尋ねた。
「明日よ。レインさんが、干し草を売りにいくついでに馬車に乗せてくれるって」
「じゃあ、この馬鹿を観光に連れて行ってやれ」
「え?」
瑛人は驚いて顔を上げた。セトがすました顔で言った。
「明日は店を休んで、隣街まで行ってこい。
街へ出たら気も晴れるだろう。
それに、サレナタリアは英雄フォクセル・サンダルフォンの出身地だ。
そのサーガ熱を満足させるにはもってこいの場所だろう」
あと夢を壊すようだが、とセトは付け加えた。
「有名どころのギルドは本籍と実績がないと、冒険者登録すらできない。
酒場の小さなギルドは、盗賊まがいの怪しげな仕事ばかりだ。
冒険者は諦めて、一日観光したら帰ってこい」
……驚くほど現実的な情報が入ってきて、彼はまた頭を抱えた。
この世界はどこまでシビアなのだろうか。
異世界出身の英雄の輩出など許してくれそうにない。
次の日。夜明けと同時に朝食をすませ、瑛人とロゼ、そしてインコの二人と一匹は、干し草が山と積まれた荷馬車へと乗り込んだ。
昨日は魔法世界があまりに現実的なことにショックを受けたが、一日薬作りから離れて隣街に行けるというだけで、テンションが上がっている。
ロッドもそうなのか、ちょっと運動してくるぜ、と耳打ちして馬車から飛び立ち、馬車の遙か上で黒い点となって鳶のように旋回している。
きっちりとした石畳は村の外へ出たとたんに地道に変わり、両側に牧歌的な風景を並べて緩く下りながら谷へと続いていた。
レインさんは、つるつるに禿げた気のよさそうなおじさんで、瑛人のことも噂で知っているらしかった。
干し草の上に乗っている瑛人達に、御者台からのんびりした調子で話しかけてくる。
「薬屋の手伝い人か、大変だねえ。
薬屋の兄ちゃんは最近手広くやっているようだし、ロゼちゃんも街へ行ったりして忙しくなってきたからなあ。
まあ、せいぜい鍋で煮込まれねえようにしな」
「……はい」
「もう、レインさんまでそんなこと言わないでよ」
ロゼが口をとがらせて文句を言った。
今日は遠出をするからか、大きなつば広の帽子を被り、長い髪の毛を編んで帽子の中に入れ込んでいる。
「だって有名なんだもんなぁ」
相変わらずのんびりとレインさんは続ける。
「前にミルトンさんとこの息子が花束持ってきたとき……」
「その話はやめて!」
ロゼが頬を染めて、遮るように叫んだ。
……ああ、あれやっぱり全員に言ってるんだ。
瑛人は遠い目をして出発前のことを思い出した。
出発前、ロゼはロッドを肩に乗せ、干し草の積み込みを手伝いに家を出ていった。
瑛人も一緒に出ようとすると、セトが大事な心得を教えてやる、と呼び止めた。
「いいか、街では召喚されたなんて、絶対に言うなよ。
街の憲兵は私より厳しいんだからな。
最悪、冒険者ギルドじゃなく病院に入ることになるぞ」
「そんな扱いなんだ、召喚って……」
魔法のある世界だから、禁術とはいえそこまでとは思っていなかった。
が、どうも違うらしい。
日本でUFOに捕獲されたと真剣に騒ぎ立てるようなものか。
しかし、召喚されましたと言えないのでは、実際どうやって召喚主を探したものか、未だに見当がつかない。
「あと、もしもの話だが」
氷のように冷たい声が、瑛人の考えを中断させた。
セトが、黒髪の下から炯々と光る目で瑛人を見据えていた。
「街でロゼに手を出したり危険な目に遭わせたりしたなら、切り刻んで鍋に入れてじっくり煮込んでやるからそう思え」
村人がよく言っていた、ジョークのような言葉だ。
だが、彼の目は一切笑っていない。
瑛人は、引きつり笑いを返すしかなかった。
「いやー、ロゼちゃんも大変だわ。おちおちデートも出来やしねえ」
ゴトゴトと小気味よい音を立てて走る馬車のせいでロゼの声が聞こえないのか、それとも天然なだけなのか。
レインさんは顔を赤くして抗議する彼女にお構いなく話を続ける。
「そうじゃないってば!
薬を配達に行っただけなのに、ミルトンさんが変な勘違いしただけよ!
ああもう噂になってるじゃないのセトの馬鹿馬鹿馬鹿!」
ロゼが、干し草にうつぶせになって足をじたばたさせている。
元気で何事にもあっけらかんとした少女というイメージだったが、兄の過保護ぶりは恥じらうところであるらしい。
と、突然足がぴたりと止まり、さび付いた機械のようにぎこちなくロゼの首がこちらを向いた。
「もしかして……瑛人ももう言われた?」
「……いやー全然なんのことかわからないなー」
「嘘つかないでよ、余計恥ずかしいじゃないの!」
ロゼはまた、顔を干し草に埋めてじたばたし始める。
せっかく気を使って知らないことにしたのに、一発で見破られてしまった。
「そ……そういえば、今日は髪の毛下ろしてないんだな」
とりあえず、違う話題で注意を逸らそう。
そう考えてさっきから気になっていることを言ってみた。
果たして、ばたばたしている足は止まった。
ロゼが干し草から顔を上げ、具合を確かめるように帽子のつばを触る。
「うん、街へ行くときにはなるべく見せないようにしてるの」
「え、どうして?」
「私の髪の色、すっごい赤毛でしょ? 自分でも嫌になるくらい」
すれ違う人が皆びっくりしちゃうのよね、と彼女は言い、やっと起き上がって干し草の上に座り直し、服についた干し草を払った。
……地雷から抜け出そうとして他の話題を振ったのに、また地雷だった。
失敗した瑛人は必死でフォローに入る。
「俺は赤毛でも全然いいと思うけど。
そんなに嫌なら染めればいいじゃん。俺も染めてるし」
ロゼは曖昧な笑みを返した。
「昔、セトに言ったことがあるの。髪を染めたいって」
「もしかして、止められたのか?」
「ううん。好きにすればいいって心にもないこと言われたわ」
でも、あんなに悲しまれちゃ染めるに染められなくって、とロゼはため息をついた。
「分かってるくせにね、私に嘘はつけないって」
私に嘘はつけない。
その物言いがあまりに断定的で、瑛人は相づちすら打てず、黙ってロゼの顔を伺った。
ロゼは、じっと顔を眺め、そして何か決心したように頷いた。
「……うん、決めた!
村の人なら知っていることだし、はっきり言わないでおくのも、公平じゃないし」
ロゼは、真正面に座り直した。いつもの笑顔ではなく、真面目な顔をしている。
瑛人も思わず、あぐらから正座へ膝を正す。
「……私、感情把握の能力持ちなの」
「感情把握の能力持ち?」
開口一番よく分からない単語が出てきて、瑛人は戸惑った。
「能力持ちは、生まれつき、呪文を唱えなくても無意識に発動する魔力を持っている人のことよ。
それ自体はそんなに珍しい話じゃないわ。
人より少し丈夫なだけっていう地味な能力も多いし、能力持ちだと自覚がない人もたくさんいるの。
私は……目を合わせると、その人の感情が分かるのよ。
考えてることが全部分かるわけじゃないし、本当にぼんやりとした感情しか見えないんだけど。
最初にあなたに出会ったとき、嘘をついてないと分かったのもそのせいよ」
ずっと不思議には思っていた。
初対面のとき、あんなに疑っていたセトが、ロゼの証言だけでなぜあっさり引き下がったのか。
どうして、ロゼはいつも先回りするような話し方をするのか。
勘がいい女の子だとは思っていたが、それ自体が魔法の力だったとは。
思いもしなかった事実に彼は面食らった。
「黙っていてごめんなさい。
他人に心の中を見られるなんて気持ち悪いでしょ?
嫌なら、私と目を合わさなければ大丈夫よ」
すまなさそうに言うロゼに、瑛人は慌てて言葉を返す。
「いや、勘が鋭いとしか思ってなかったから、ちょっとびっくりしたけど。
そんなに気にはならねーよ?
俺、考えてることがすぐ顔に出るタイプだし、大体そんなに大層なこと考えてる訳でもねーしな」
「……ふふ、本当のことを言ってくれて嬉しい」
ありがとう、と彼女は帽子の下から満面の笑みを返した。
隠しきれないオレンジ色の前髪がさっと風に揺れる。
これが、心から安心したときだけに見せる笑顔なのだろう。
その笑顔は太陽を思わせる華やかさで、瑛人は思わず見とれてしまった。
「ああ、すっきりした。
いつ打ち明けようか、本当に困ってたの!
こんなことなら、はやく言ってしまえばよかった!」
そう言ってロゼは瑛人から視線を外すと、肩の荷が下りたようにのびをして、干し草の上に両足を投げ出した。
干し草が舞い上がり、いい香りがした。
そのすっきりとした横顔を眺め、ロゼが帽子を被る理由に思い当たった。
よっぽど性格の悪い人間はともかく、普通の人は道でロゼに出会っても、敢えて髪をからかうようなことはしないだろう。
だが、彼女には赤毛で驚く人々の感情が見えてしまうのだ。
そしておそらく、それ以上に悪い感情も。
人の感情を見抜けるということは、その分だけ人の建前と嘘を余計に見てきたわけで。
その中には、きっと傷つくようなものもたくさんあったに違いない。
同い年ながら瑛人より大人びているのはそのせいかとも思う。
「ロゼちゃん、告白劇場は終わったかねえ?」
御者台からのんびりとした声が聞こえてきた。
「レインさん!」
ロゼが非難するようにレインさんの名前を叫んだ。
「いやー、ロゼちゃんは難しいこと言うねえ。
改めて理由を聞いても、全然わからんなあ。
大体、ワシは嘘を見抜かれたことなんて、ひとつもねえからなあ」
「だってレインさんは、私に嘘ついたことないじゃない。
言いたいこともずけずけ言ってくれるけど」
「わはは、違えねえ」
レインさんの笑い声につられて、瑛人達も笑った。
荷馬車は干し草と笑い声を乗せ、ゆっくりと峠道へと入っていった。