第2話 アセロラ召喚失敗のお知らせ
とうとう、窓の外から一条の光が差し込んできた。
瑛人がこの世界にたどり着いてから、最初の夜が明けた。
結局、ほとんど眠れなかった。
あれから少女は大きな鞄に一杯の服を持ってきてくれ、その中に入っていたパジャマを着たまではよかったのだが、インコが妙に瑛人の世界に関心を示し、質問攻めにあってしまったのだ。
月の大きさの違いから始まり、天気のことから、車、電気エネルギー、はては瑛人の世界には魔王がいないのかなどという質問まで飛び出し、デーモン閣下の立ち位置の説明までするはめになり、彼は閉口してしまった。
もう頼むから寝かせてくれ、と言って話を打ち切ったのはいいものの、眠れず寝返りを打つたびにロッドはわざと嘴をガチガチと鳴らして楽しんでいた。
だが、それがなくても眠れなかっただろう。
異世界に落ちてきて、これからどうなるのか見当もつかないのだ。
つらつら考えるうち、考えまいとしていることがどうしても浮かんでくる。
どうやって帰ればいいのだろう?
両親だって心配し、捜索願を出しているかもしれない。
楽しみにしていた漫画も読みかけのままだ。
ベッドの下には、処分しなければ死んでも死にきれないブツも押し込んである。
そもそも、この世界から帰ることは出来るのだろうか?
「コケッコー、朝だよーエイトちゃん。下から旨そうな匂いがしてきたぜ?」
しばらく黙っていた極彩色の鳥が急に大きな声を出し、瑛人の暗い考えは中断された。
「エイトちゃんって言うな! お前いつから鶏に変わったんだよ」
本棚の上から伸びた止まり木でテンション高く笑うインコに文句を言いながら、瑛人は布団をはねのけた。
確かに、肉でも焼いているのか、階下からおいしそうな匂いが漂ってくる。
意識はしていなかったが、ここは二階だったようだ。
うーんと伸びをすると、隣に置いてあった服に手を伸ばした。
赤毛の少女が出してくれたその服はあつらえたようにぴったりだった。
白いシャツに柔らかい皮でできたズボン、膝まである紫の上着を羽織ってベルトで止める。
ベッドの足下を見ると、皮のブーツまで用意されていた。
全部身につけて、縁に妙な模様が刻まれた姿見の前に立ち、飛びはねた癖毛の茶髪をなでつけみる。
まるでゲームや漫画にでも出てきそうな出で立ちで、少し気分が明るくなった。
昨日は散々だったが、今までのところ、そう悪いことが起こっているわけではない。
勇気を出して、昨日恐怖のあまり叫んでしまった窓の外を眺めた。
何があっても驚かないぞ、と腹をくくっていたが、太陽は意外と普通の大きさだった。
抜けるような青空の下には、遠くに緑の木々が立ち並び、その手前に、崩れかけた煉瓦の城壁が見えている。
城壁の中にはカラフルにペイントされた家々が点在し、その煙突からは煙が漂っていた。
下に目をやると、草地に走る狭い石畳の道を、茶色い犬が一匹駆けていく。
ヨーロッパの田舎町の風景、と言っても通るくらいだった。
昨日は不気味に思えて仕方なかった窓の外も、蓋を開ければこんなものだ。
「まあ、何とかなるさ」
そう呟いて部屋の扉を開けると、「お先ィ!」とインコがばさばさと飛んでいった。
どうやら、飯が待ちきれなくて瑛人を叩き起こしたようだ。
現金な奴だ、と思いながら瑛人は続いて吹き抜けの階段を降りていった。
木の壁が落ち着く廊下から、旨そうな匂いを頼りにドアを開けると、小綺麗な台所にたどりついた。
台所といっても、瑛人の知っているシステムキッチンとは違い、煉瓦造りの石窯や、鉄の三脚に乗せられた大きな鍋が異様な存在感を放っている。
まるで昔の外国映画のセットのようだ。
どうやら、この世界は文明が遅れているらしい。
エプロンドレス姿の赤毛の少女が石窯の脇に立ち、フライパンの上でジュージューといい音を立てているハムを取り出していた。
「あら、おはよう!」
瑛人が何か言う前に、彼女はこちらの気配に気づき、振り向いた。
真っ赤な髪がばさっと揺れる。
「素敵! その服、似合うじゃない!」
くりっとした大きな水色の瞳がにこりと笑った。
美人とまでは言えないが、可愛らしい愛嬌のある顔立ちをしている。
昨日も思ったが、朝の光の中で見ると、彼女はドのつく蛍光オレンジとでも言えばいいのか、赤を通り越した地球ではあり得ない色の赤毛だった。
こういう妙なところでも異世界にいるのだと意識してしまう。
「ああ、ありがとう……」
答えてから気づいた。
……つまり昨日は、こんな女の子の前でタオル一丁で土下座していたというわけだ。
石窯の隣で沸騰中の大きな鍋に頭から飛び込みたいほど気分が落ち込んできた。
「大丈夫よ、気にしないで」
まるで、心を読んだように赤毛の少女が微笑んだ。
「男の人の裸なんて見慣れてるもの、今更どうってことないわ」
「いや、それはそれで問題だけどそういうことじゃなくて!」
ああ、言い方が悪かったわねと彼女はくすくす笑う。
とにかく、よく笑う女の子だ。
「私たち、魔術師だけど、ときには医者みたいな仕事もするの。
薬も自分たちで作って売っているしね。それで見慣れてるってわけ」
「だからそういう問題じゃなくて……えっと、ロゼさん、だっけ?」
「そういえば、あなたの自己紹介は五回ほど聞いたけど、私は名乗ってもいなかったわね」
失礼、と彼女は片手にフライパンを持ちながらにも関わらず、両腕を広げて片足を引く古風で優雅なお辞儀をした。
「私はロゼ・フェニックス。
あなたと同い年、十六歳の魔術師見習いよ。
よろしくね、エイトさん」
「ああ、瑛人でいいよ。昨日はかばってくれてありがとう。助かった」
「いいのよ。あなた、悪い人じゃないもの。
きっと、何かの魔術に巻き込まれたんじゃないかしら」
ロゼはテーブルの上にばさっと白い布を掛けながら返事をした。
悪い人ではない、という断定的な言い方に、瑛人はほっと息をついた。
少なくとも、この少女とインコは、瑛人に悪い印象は持っていない。
と、そう言えばあのうるさいインコは台所にいない。
「あれ? あのインコは? 先に来てたはずだけど」
「ロッド? 来てないわね。たぶん居間じゃないかしら。
セトもそこで寝ているし、何か話にいったんじゃない?」
あのファンタジーな魔法の鈍器で人を思いっきり殴る奴のことか。
正直、思い出すとまだ頭が痛む気がする。
不安に陰る顔を見られたのか、ロゼが慰めるように言った。
「大丈夫、ああ見えてセトも悪い人じゃないの」
「そうなのか? 昨日は最後まで俺に悪意丸出しだったけど」
ロゼは困ったような顔をして笑った。
「うーん、歳のことは余計だったわね。セトは意外と気にしてるの」
「子供だからなめられないように突っ張ってるってわけかよ……面倒くさい奴だな」
「違うわよ」
とたんに、ロゼの顔が近くなり、どきっとする。耳元で、小さくささやかれた。
「セトは私の兄さんよ?」
「マジかよ!」
まさかの年上だった。
ここにきて、一番の衝撃だ。
ロゼも、こういう反応には慣れているのか、ふふ、と笑って身を引くと、テーブルに皿を並べながら話を続けた。
「それに、ロッドも、ちょっと癖はあるけど根はいい子よ。
あの子、あなたの前でしゃべったでしょ?」
「そりゃもう、一晩中べらべらと。
あのがらの悪い鳥がしゃべることに、何か意味があるのか?」
「ええ。ロッドは普段、他人の前ではただの杖、ただの鳥で通すのよ。
あなたの話を信じたのでなければ、自分から話しだしたりはしないわ。
きっと、異世界から来たって話に興味をもってるのよ」
「それは昨日うんざりするほどわかった」
興味本位の尋問を夜中じゅう受け続けたのを思い出し、げんなりと答えた。
「ケキャキャ! なにがうんざりだ!」
けたたましい笑い声がした。振り返れば、案の定ロッドがばさばさと羽ばたいて台所へ飛んできたところだった。
そして、廊下から小さな足音が聞こえ、黒髪の少年が続いて入ってきた。
瑛人より一回り小柄な彼は、どう見ても二、三歳は年下に思える。
昨日の頭の痛みを思い出し、彼は知らず知らすのうちに後ずさった。
セトは、相変わらず感情が読めない目で瑛人を上から下まで眺めると、こう言った。
「……文明人の格好をしてたらそれなりに見えるんだな」
「だから、裸族じゃねえ!」
変なイメージが付かないうちに、瑛人は全否定しておいた。
そうこうしているうちに、食卓にはスープとハムと目玉焼き、パンが並んだ。
異世界の食事といっても、見た目は大差ない。
瑛人は少しほっとして、パンを口に押し込んだ。
少し塩味がきつい気もするが、普通にうまい。食べながら、周囲の様子をうかがった。
妙な魔法が使える、近世ヨーロッパに似た世界。ロゼ・フェニックスとセト・フェニックスの兄妹。
そして杖なのか鳥なのか曖昧な、よく喋るインコ。
瑛人が知り得た情報はそこまでである。
いろいろ質問はあるのだが、ロッドが昨日根掘り葉掘り聞きだしたことを恐ろしいスピードでまくし立てているので、なかなか話に割り込むことができないのだ。
そして、驚いたことに、兄妹もその話に興味津々だった。
「……で、こいつのいた世界では、何でも『でんき』で動くらしいんだぜ」
そこまで言うと、ロッドはコップに頭を突っ込み、せわしなく水を飲んだ。
このインコは書斎でもう何か食べてきたらしく、時折ゲップを挟みつつ、コップ一杯の水で蕩々と喋り続けている。
「何でもって?」ロゼがフォークを持ちながら、身を乗り出して尋ねる。
「かまどから荷車まで、それこそ何でもだ。
『でんき』は『はつでんしょ』で作られていて、各家に『でんせん』で送られるしくみなんだと。
簡易版として、いつでも使える『でんち』という携帯版の『はつでんき』もあるそうだ」
セトはスープをスプーンでかき混ぜている。
先ほどから同じ動きしかしていない。よほど異世界の話に興味があるのか、それとも猫舌なのかもしれない。
「エネルギーの一元化か。信じがたいが、なかなかいいアイディアだ。
だが、そんな高度な世界から来たにしては、布一枚しか持っていなかったが。
せめてその『でんち』とかいうものを持ってきていたらよかったのに」
「風呂に入るときに電池持って行く奴なんていねーよ!
……というか、そうじゃなくて!」
思わず突っ込んでしまった勢いで、瑛人はやっと話の輪に入る。
瑛人がいきなり大声を出したせいで、ロッドも話をやめ、鳥らしく横を向き、片目で瑛人の顔を正面から見つめた。全員の視線が瑛人に集まる。
「……俺は、その世界にどうやって帰ればいいんだ?」
『でんき』で何でも動く世界を物珍しそうに語るロッドの話を聞いているうち、物事の深刻さが増してきたような気がして、思ったことをそのまま口走ってしまった。
実際、家に帰るためには、どうすればいいのだろう。
ロッドは黙って首をかしげた。
あれだけ饒舌に話していたのに、ぴたりと話を止められるとかえって不気味だった。
「……見当はつくが、確証が足りない」
微妙な沈黙を破ったのは、さっきからスープを混ぜることしかしていないセトだった。
「見当はついてるのか?」
「まだ完全じゃない。大体、お前の話は曖昧すぎる。
風呂場から落ちるときに何があったか、もう一回思い出してみろ」
そう言われて、瑛人は首をひねった。
正直、黒い水に襲われたときには、驚きすぎて何が起こったかわからなかったし、何かを考える余裕もなかった。
その後、ひたすら落ちていき——
「確か、妙なお経みたいな言葉が聞こえてきて……」
「おい、はっきり思い出せ。その言葉が重要なんだ」
「簡単に言うなよ! フリーフォールで落ちながら英語話されたとして、正確に聞き取れると思うか?」
「『ふりーふぉーる』? なんだそれ? やっぱり『でんき』で動くのか?」
ロッドが興味津々でちゃちゃを入れる。
「いや、そうだけど、それについてはどうでもいいんだよ!」
そういえば、一言だけ、妙に心に残る言葉があった。
「えーっと、あれだ。最後に妙な文句が……《アセロラドリンク》だったか」
「なあにそれ? どういう意味なのかしら」
ロゼは眉を寄せて考えこんだ。
妙に甘酸っぱい飲み物なんだけど、と瑛人が説明しようとしたとき、セトが小さく呟いた。
「……アル・セロ・ラ・ドリーン」
「……なんだそれ? アセロラドリンクじゃないのか?」
「古代神聖ヴィエタ語だ。訳せば、『来たれ我が望みの為に』。まさかと思ったが、確定だ」
「おいおい、やっぱり召喚魔法か!」
とたんに、ロッドがひゅーっと口笛を吹いて、ばさばさと羽を広げる。
「今どき、そんなものにチャレンジする馬鹿がいるとはねぇ!
お前よく生きてたな!
まあ、普通は魔方陣内に呼び出すもんだから、なにかしら事故ったのは確実だろうが、それでも五体満足で呼び出しただけでもたいしたもんだぁ!」
妙な褒められ方をして、瑛人は冷や汗が出てきた。
五体満足で喜ばれるということは、相当恐ろしいことに巻き込まれていたのではないだろうか。
「そんなに危険なのか、召喚魔法って?」
おそるおそる尋ねると、極彩色のインコは軽い調子で答えた。
「おうよ! 八百年前から失敗続きの魔術って有名だぜ。
召喚の不発はもちろん、それこそ手だけ召喚されたとか、体半身だけ召喚とか、精神だけ飛んできたとかばっかりだ。
それに、召喚にきちんと成功したとしても、相手だって勝手に呼び出されるわけだからな。
例外なくキレてるから、呼び出した魔術師の方が殺されちまったりなんてこともあるさ。
問題が多すぎて魔術連盟じゃバリバリの禁術だぜ?」
「……ちょっと、気分が悪くなってきた」
片手だけ召喚された自分を思い浮かべ、瑛人は思わず腕を抑えた。
冗談じゃない。
あの自由落下も恐ろしかったが、失敗例はその倍恐ろしい。
裸一貫で見知らぬ家に落ち、杖で殴られ尋問されたぐらいで済んだのは、どうも大変な幸運のようだった。
ロゼが首をかしげて尋ねる。
「……私、召喚魔法のことは、よく知らないんだけど……不思議に思っていたことがあるの。
エイトは、異世界の『にほん』国から来たでしょ?
なのに、なぜ共通語を話せるの?」
瑛人は、ロゼの言葉に目を丸くした。
ずっと日本語を話しているつもりだった。
だが、よく考えればここは異世界だ。日本語が通じるわけがない。
ではいったい自分は何語を話していたのか。頭が混乱してきた。
「おそらく、召喚時に魔力で言語を上書きしたんだ。
古代の魔術師が何人も、召喚した魔物と意思疎通が図れず殺されている。
それを回避するための策だ」
セトはそう言うと、機械的にスープをかき混ぜる手を止めた。
「念のために聞くが、お前、何かとんでもない能力でも持ってるのか?」
「え?」
想定外の質問に瑛人は面食らった。
「例えば、国を一人で滅ぼせるとか、願い事を何でも叶えられる力があるとか、金を無限に生み出せるとか」
「一般的高校生に何を求めてるんだよ! そんなことできるわけねーだろ!」
「だろうな。聞いてみただけだ」
セトは淡々といい、またスープに目を戻してかき混ぜながら続けた。
「だが、召喚とはもともとそういうものを呼び出すときに使う魔術だ。
召喚魔法にしろ、付随している言語の上書きにしろ、高位の魔術師が準備しても年単位の時間がかかる、リスクもコストも段違いの高等技術だ。
神に連なるような力を持つ者を呼び出さなきゃ、割にあわない」
「じゃあ、俺はなんで召喚されたんだよ……」
召喚魔法について知れば知るほど、元の世界から遠ざかっていくような気がする。
不安がつのり、瑛人は叫ぶように言った。
「俺、元の世界に戻りたいんだ!
どうしたら帰れるんだ? 教えてくれよ!」
「召喚魔法を解除する方法は二つある。
一つ目は、召喚を行った人間、召喚主の望みを叶えること。
そもそも召喚は望みを叶えるために他の世界の生き物の力を借りる魔法だからな。
希望をかなえられた瞬間、召喚は解除され、元の世界に戻れるはずだ」
「望みを叶えるって……俺にそんなことができるのか?」
「できる奴を呼ぶのが一般的な召喚だ。
もしお前が達成できない望みなら、なぜお前を召喚する必要がある?」
「で、もう一つの方法は?」
「召喚された側が、召喚主を殺すことだな。
召喚を強制的に無効化できる」
簡単に言われて、瑛人はぎょっとして固まった。
「……俺は一つ目の案で穏便に帰りてーな。
まあ、どちらにしろ俺を召喚した奴を見つけないといけないわけか?
いったいどうやって探せばいいんだ?」
「大丈夫よ、ここは魔術店で、私たちは魔術師だもの」
気落ちした瑛人を、ロゼが優しい声で慰めた。
「召喚主はきっとこの近くにいるはずよ。
そして近くにいるなら、きっとこの魔術店に来るわ。
まともな魔道具が買える店は、このあたりじゃ少ないもの」
「客にいちいち聞いていくのか?
『お客様の中に召喚主はいらっしゃいませんか』って?」
「聞かなくても分かるわよ。
カミノ村は人も少ないし、顔見知りばかりだもの。
それに、向こうも失敗に気づいてあなたを探しているかもしれないわよ?
きっとすぐ見つかるわ」
だから安心して、とロゼはにこっと笑った。
そのくったくない笑顔を見て、瑛人は不覚にもときめいてしまった。
もしかすると、もう帰れないのではと半ば絶望しかかっていた。
だが、この笑顔でそう言われると、全て上手くいく気がしてくる。
「……考えるのは後だ。まずは朝食を食べてしまおう」
セトがようやくスープを一口飲み、瑛人に言った。
「開店までに、地下菜園の収穫をする。
この店にいる気があるなら、お前も手伝え。
今はネコの手でも借りたいほど忙しい」