第19話 森の魔女
鍋はぐつぐつ煮えている。
蒸留窯は時おり得体の知れない紫色の煙をシューッという音とともに吐き出している。
瑛人はともすれば頭がぐらっとするのをなんとか支えながら焦げ付かないよう鍋をかきまぜていた。
このくらいの手伝いならお安い御用だが、もうすでに夜も更けている。
ロゼはさっきまで乳鉢で薬草をすり潰していたが、今はナイフで何かの干物を刻んでいる。
この作業がいつ終わるのか、何をどうすれば薬が完成に至るのかが全くわからない。
こんなにもあせっているのに、できることは眠気に耐えて愚直に鍋をかきまぜるだけだ。
「エイト、この作業が終わったら鍋を変わるわ。ちょっとは休んでちょうだい」
ロゼが振り向きもせずにそう言った。
心を読んだのかと思うくらいのタイミングだ。
目を合わせていなければ、心は読めないはずなのだが。
「俺はこのくらい大丈夫だって。
テストのときには完徹ぐらいよくやってたしさ。
ロゼこそ、平気?
俺さっきから鍋の面倒しか見てないけど」
「鍋の面倒だけでも助かるわよ、ありがとう」
ロゼは振り返って、情けなさそうな顔でにこっと笑った。
「こんなことに巻き込んでごめんなさい……でも、どうしよう。
本当に、セトが、目を覚まさなくなってしまったら、私……」
言葉がそこで止まった。
ロゼが目をしばたたかせているのを見て、瑛人は慌てた。
「ほら、そんなことにならないように、治す薬をつくってるんじゃん。
俺も手伝うし、絶対成功するって」
「……そうね、ありがとう」
ロゼがまた作業を続け始めたそのときだった。
バン、という音がして、瑛人は慌てて鍋の中を見た。
ついつい、手が止まっていた。
焦げ付いてしまったら終りだ。
しかし、その音は鍋からでた音はなかった。
「なあに、これ。他人のアトリエで何のさわぎ?」
少し低めの女の人の声がして、瑛人とロゼは一斉にそちらを向いた。
裏口のドアが開けられていて、黒いマントを着た妙齢の女性が立っていた。
さっきのは裏口の扉を開けた音らしい。
「イザベラ! お帰りなさい!」
言うなり、ロゼが女性に飛びついた。
というと、あの人が『森の魔女』らしい。せいぜい二十代、というような彼女の外見に、瑛人は少々戸惑った。
森の魔女、という二つ名から想像していたのは、歯の抜けた老婆だったからだ。
黒く長いマントを身につけ、紫色の三角帽子からは、長いうねった髪が腰あたりにまで届いている。
森の魔女に相応しく、その色は深い緑だ。
浅黒い肌と高い鼻筋を持った容貌から見るに、ロゼとも村の人とも違う人種だとわかる。
「ロゼじゃないの、ただいま!」
イザベラはそう明るく挨拶すると、ロゼを抱きしめてから手を大きく広げた。
そのとき、マントの下にあるものが瑛人の眼前に晒された。
この世界に来てよかった。しばらくぶりに本心からそう思った。
ほとんど布面積のないブラジャーのような紫の上着からはみ出さないか心配になるようなダイナマイトバディ。
きゅっとしまったウエストも露わな大胆すぎるへそ出し。
そして長さは膝丈まであるものの、太股の付け根まで深く入ったスリット。
踊り子装備、ビキニアーマー、という言葉が脳内でハレーションを起こし、深夜のテンションの高さも手伝って瑛人はぼんやり口を開けたまましゃべることもできなくなった。
森の魔女、イザベラはその様子を見て、にやっと笑いながら近付いてきた。
「で、この子誰? 私の好みにぴったりの年下君じゃないの。なあに貴方、ロゼの彼氏?」
「違うわよ!」
ロゼが慌てて二人の間に割り込んできた。
「うちの手伝い人のエイトよ! 今、二人で薬を作ってるの!」
「ああ、だろうと思ったわ。彼氏だったら今頃鍋で煮込まれて墓の下よね」
当然のように言って、イザベラは色気たっぷりにウインクしてきた。
むう、と膨れたロゼは、その苛立ちをぶつけてきた。
「この人が森の魔女のイザベラ……なんだけど、どうしてそんな変な服着てるの?
エイトもちょっとは目を逸らしてよ!」
イザベラはロゼの肩を掴んで横にずらすと、こちらへ近寄ってきて両手をぎゅっと握った。
「あら、貴方この服のよさが分かるの? 王都のギラミ・ブランドの新作よ!
わかってるじゃないの!」
違うと否定するのも面倒だったので、とりあえずうんうんと肯いた。
ロゼがじと目で見ているがイザベラは殊の外満足したようで、妖艶に微笑んでよろしく、といい、両手を離した。
「で、貴方たち、一体ここで何の薬を作ってるの?
ここの材料は、いくらロゼでも厄介なものばかりなのよ」
「あのね、セトがね……」
待っていたとばかりに、ロゼが喋り始めた。
ロゼが一部始終を語り終えると、腕を組んだイザベラが考え込みながら相槌をうった。
「セトが魔力増減症、ですって?
信じられないわあ。何したらそうなるの? 村でも潰したの?」
「そんなことしないわよ!
理由は分からないけど、だんだん魔力が無くなっていったみたい。
地下菜園が無くなったときに気づいてあげられればよかったわ……」
頭を抱えたロゼがそう言った瞬間、気もなさげに聞いていたイザベラが息をのんだ。
「ええっ! あれが無くなったら困るわ!
王都で『魔力泉栽培の薬草使用』って書いたラベルを貼り付けたら、ただの風邪薬が三倍の値段で飛ぶように売れたのよ?」
とりあえず、この森の魔女の服の趣味がこの世界の基準でもとんでもないことと、カミノ村魔術店の誰よりも数段商売上手だということは分かった。
いや、ロゼもセトも、地下菜園というものが日常になりすぎていて、そこに商品価値があることに気づきもしなかったのかもしれない。
瑛人は二人の会話を聞きながら、相変わらず鍋をかき回していた。
「なるほどねえ、そういうことなら協力してあげなくちゃ。レシピを見せて。私も手伝うわ」
地下菜園が無くなったという言葉が相当効いたらしく、イザベラは急に真面目な顔になっている。
「ありがとう、助かるわ」
ロゼはテーブルにあった、翻訳済みのレシピを手渡した。
魔女は、眉を寄せてそれを読み、感想を述べた。
「何、これ?」
「え、だから魔力増減症を弱める薬よ?」
怪訝な顔で、ロゼが言う。だが、イザベラは険しい顔を崩さない。
「魔力増減症は本来、風邪みたいなものよ。
勝手に治る病気に、こんなにお金をかけたレシピの薬なんてないわ。
調合も毒を混ぜたり、中和してみたり、また毒を入れたり……一貫性がまるでないわ。
これで出来るのは、せいぜい栄養剤ってとこかしら。それもワイン一樽並の値段のね」
森の魔女の言葉に、台所の時が止まった。
鍋がしゅうしゅう言いだしたが、瑛人はもう気にかけなかった。
翻訳を間違えたのだろうか? それとも、聞き取りの間違い?
いや、元々セトが朦朧とした頭で考えた、幻のレシピなのだろうか?
「……やられたわ」沈黙の後、ロゼが低い声で言った。
「え?」
瑛人は、聞き返した。
ロゼが、ばん、と両手でテーブルを叩いた。
「また、セトに騙されたわ! 私を騙すことは出来ないから、エイトを騙したのよ!
早く、家に戻らないと!」
鍋も蒸留釜もイザベラに任せたまま、二人はランプをぶら下げて、魔術店への暗い小道を駆け戻っていった。
イザベラも何が何だかといった表情をして送り出していたが、瑛人も何が起きたかははっきりしない。
が、ロゼを騙すために、どうも利用されたらしいのは分かった。
「騙すって、一体何のために?」
「まだわからないわ。
でも、私たちを家から遠ざけておいて、何かしでかそうと思っていることは確かよ」
がさがさと下草を踏みながらロゼが答える。
そして、魔術店の裏の森から、二人は勢いよく飛び出した。
十六夜の月に照らされて黒く影になっている魔術店は、一見何の問題もなく思えた。
だが、明かりがどこにもついていない。
よく見ると、ドアのガラスが壊されていて、破片が玄関に飛び散っている。
蝶番もおかしくなっているらしく、扉はぱたぱたと風に揺れている。
そのたびに小さくドアベルの音が聞こえた。
「セト! いるの! いるんでしょ!」
ロゼが家の中に入りながら大声で呼んでいる。
瑛人は玄関で立ち止まり、壊された扉やその惨状を眺めた。
「一体、何が……」
そのとき、瑛人は数台の黒い馬車が魔術店から少し離れたところに停められているのに気づいた。
馬車から、数人が地面に降り立ち、ばらばらと駆け寄ってくる。
黒く長いマントを羽織り、フードを被った一団だ。怪しくないわけがない。
本能的に危険を感じ、彼は右手をポケットに入れ、水石銃を手に取った。
黒服達は、躊躇することなくこちらへ小走りにやってくる。
一体、何者なのだろう。
ごくりと生唾を呑み、一歩下がる。
と、走り寄ってきた集団は、いきなり足並みをそろえ、横一列になると地面に片膝をついた。
そして、全員の頭が一斉に垂れた。
予想を完全に裏切られ、対応できない瑛人は、黒い一団が声をそろえてこう言うのを、ぼんやりとした頭で聞いていた。
「お帰りなさいませ、皇帝陛下!」